オイル・オン・タウンスケープ 第三号(中編)

谷の底の〈悪所〉───MIYASHITA PARK 第三号(中編)

中島晴矢

S__2400257101《MIYASHITA PARK》2020|カンヴァスに油彩|606 × 500 mm

 

 渋谷には思い出が詰まりすぎていて、何から書き出せばいいのか分からない。

 

 ただ、とかく渋谷という街の体験は、私の人生おいて大きな位置を占めている。一口に渋谷と言ってもエリアは広く、文化は様々で、その場所場所によって複雑なグラデーションを描いているから、渋谷の〈全体〉を記述しようというのは土台無理な話だ。私にできるのは、あくまで自身が経験した渋谷の〈断片〉を、いくつか差し出すことのみである。

 

 私にとっての渋谷は、まず、通学途中のターミナル駅として始まった。ニュータウンにある実家から田園都市線で一本、急行であれば20分程で到着する。中学1年から高校3年まで、都合6年間は通った。登校時こそなかったが、下校の折にはしばしば渋谷で道草を食う。思春期の、最も感性が敏感な時期に、渋谷という街から情操教育を受けたと言って過言ではない。

 

 一番古い渋谷の記憶は、中1の時に『闘魂ショップ』に行った日のことだ。それまでも寄り道したり、買い物をしたりしていたはずだが、初めて明確な目的を持って出向いたからよく覚えているのだろう。当時プロレスにのめり込み、特に熱狂的なアントニオ猪木信者だった私は、グッズを買うため、家のパソコンで検索して知ったこの店を一人訪ねたのである。恵比寿へ向かう明治通り、その坂道を登った場外馬券場のすぐそばにあった。たしかDVDなどは高くて手が出ずに、1000円くらいする「闘魂」と書かれた扇子を買って帰ったはずだ。

 

 次の記憶は中2の時、センター街を入ってすぐ左手にあるシルバーアクセサリーの店で、むろんメッキだろうクロスのネックレスを買った。洒落た店員さんにドギマギしながら、1200円で、である。これぞ中二病だ。闘魂扇子もそうだが、中坊が気張ってできる買い物は、せいぜい1000円前後なのだった。校則が実質的に存在しない学校で、制服もなく私服、髪の毛は金髪にして粋がっていたから、思い返すと顔から火が出るほど恥ずかしい。この店は今なお営業していて、センター街を通るたびにこのことが頭をかすめる。

 

 中3から高2までは、よく渋谷で合コンをした。男子校だから校内での出会いがない。そこで、文化祭に来た女子校の女の子たちをナンパし、各自が合コンをセッティングするのだ。いつもつるんでいた4、5人で、相手方にも頭数を揃えてもらい、ハチ公前で待ち合わせる。互いが互いを値踏みするように挨拶を交わしたら、だいたいはセンター街の歌広へ。カラオケの後、話が弾めば公園通りを登り、コンビニで缶チューハイなどを買い込んで代々木公園に向かう。宵闇のベンチで駄弁りながら、うまくすると1組ずつになったりと、そんなことばかりしていた。

 

 ところでセンター街の歌広には、一学年上の先輩である塚本さんと斉藤さんが、先客として、ほとんど必ずと言っていいほどどこかの部屋にいて、いつも違う女の子たちと遊んでいた。二人ともルックスもノリもいい遊び人で、私たちは流石だなぁ、とリスペクトしていた。塚本さんはその後やさぐれて、今で言う「半グレ」みたいな集団とつるんでいたようだ。センター街を横一列になって歩いているという目撃談を風の噂で聞いた。あの混雑して道幅の狭いセンター街で横一列ということは、他の通行人は滞留し、彼らに押し流されていたのだろうか。「ダムを堰き止めるビーバーじゃないんだから」という友人の言葉で、私たちはずいぶん笑った。

 

 何より長い時間を過ごしたのは、やはり公園だろう。金のない若者が溜まるとなれば、いつの時代であれ公園くらいしかない。例えば代々公の入口、野外ステージのある広場の歩道橋にたむろしては酒など飲んでいた。散々通ったのは恵比寿東公園、通称“タコ公園”で、恵比寿駅から行くこともあったが、渋谷からだと渋谷川沿いをずうっと歩いて辿り着く。シンボルである大きなタコの遊具は滑り台が入り組んで、その穴の中で他愛もないことを散々喋ったものだが、いつしか撤去されてしまった。代わりに新しく設置されたタコは、以前よりも茹で上がったように朱に染まり、手触りはぬるりとして柔らかく、しかもひとまわり小さくなっていたから、私たちは「なんでリアルなタコに近づけてしまったんだ」と残念がった。そして、何と言っても渋谷には美竹公園と宮下公園がある……が、その話は追々することにしよう。

 

 私にとって、渋谷は巨大な本屋でもあった。

 

 ある需要に特化した書店が、街中に散在しているイメージ。品揃えを重視したいのであれば、ブックファーストがあった。旧ドン・キホーテの向かい、現MEGAドンキの隣のビルが、丸々書店だったのである。休憩用に設えられた椅子に座り込み、哲学や社会学の学術書などを背伸びしてめくっていた。今そのビルはH&Mが入っているが、ファスト・ファッションに取って代わられたのは、HMVの6階にあった青山ブックセンターもそうだ。調べてみると、2006年から2007年にかけて1年も持たずに閉店したようで、その割に強く記憶に残っているから、頻繁に出向いていたのだろう。やがてそのHMV跡地に出来たForever21もなくなって、現在はIKEAの開店を準備しているらしい。

 

 美術系のカタログや写真集、海外の雑誌などを眺めたい時は、タワーレコードに行く。今はリニューアルして2階にあるが、当時のタワレコブックスは7階にあった。外界が見えるエレベーターに乗り込み、ぐんぐん小さくなる神宮通りの人混みを眺めていると、渋谷にいるという実感がなぜか湧いてくる。受験生の頃にそこを覗くと、かなりの頻度で、立ったまま画集を濫読する野口さんがいた。高校の先輩の野口さんは美大を目指し浪人していて、結果的に2浪で武蔵美の彫刻科に行くことになる。最後に会ったのは、国立新美術館の五美大展で卒業制作を見た時だ。手の込んだ木彫などが展示室に立ち並ぶ中、野口さんが出品していたのは〈新品のエアコン〉だった。

 

「これですか? 野口さんの卒制」

「そうだよ。見ての通り、買って開けたままの、何の手も加えてない完全に新品のエアコン」

「そうなんですね……周りが労作ばかりなので、結構びっくりしてます」

「ああ、卒制について考えてたら、頭の中が何十周もして、わけ分からなくなってね。結局こうなったんだ……」

 

 ジェフ・クーンズが90年代にやっていたこととどう違うのか、聞いてみようとも思ったが、全てをやり切ったようにも、全てをあきらめ切ったようにも見える野口さんのその横顔を見ていたら、野暮な質問などする気は起きなくなったのだった。

 

 先に触れた山下書店や大盛堂書店ではサブカル系の雑誌を愛読していたり、振り返ってみると、やはり私の中で渋谷と本屋は密接に結びついている。BunkamuraにMARUZEN & ジュンクができたのはだいぶ後だ。ドンキ前から撤退したブックファーストは、駅近くの地下2階を陣取っていたが、そこももうヴィレッジヴァンガードになって久しい。

 

 音楽で言えば、宇田川町の名高いレコード・カルチャーというものを、私はほとんど知らない。中1の時からヒップホップが好きだったものの、感度が鈍かったと言えばそれまでだが、10代だったゼロ年代に家でレコードを聴く習慣はなかった。それよりも、スクランブル交差点に面するQFRONTのTSUTAYAでCDを視聴し、一週間レンタル。それを自室のコンポでMDに焼いて、通学の電車で聴いたりしていた。丸っこいイヤホンを耳にかけ、MDの面にアルバムや曲のタイトルを手書きして、思えばなかなかアナログな時代である。

 

 ただ、宇田川町的なるものの片鱗は、大学を卒業後、自分でラップをするようになってから、かろうじて味わっている。自身のヒップホップ・ユニット、Stag Beatで出した初EPのリリースパーティは、シスコ坂にある喫茶SMiLEで開催した。レコード屋「CISCO」こそ知らないが、そこがDJたちの聖地だったことは歴史として認知している。東急ハンズ先のサイゼリヤ向かい、マンハッタンレコードの手前。TABOO1の壁画を右手に入った路地がシスコ坂で、その一角に喫茶SMiLEはある。美学校時代の恩師であり、写真家・現代美術家の松蔭浩之さんに連れられて行った、小さなライブバーだ。イベントやパーティにちょくちょく顔を出し、常連とまでは言わないが、馴染みの店が宇田川町にできるのが嬉しかった。同じくシスコ坂にある虎子食堂には、心酔している福岡のラップグループ・TOJIN BATTLE ROYALが出演するイベントに参加し、酔ってサイファーしたのをよく覚えている。明け方にはシスコ坂を降りた向かいの駐車場で、モルフォビアらとだらだら酒を飲んだものだが、そこも今ではアベマのタワーになっている。企業というのは一も二もなく、タワーを建てるのが好きらしい。

 

 クラブには決して熱心に通っていたわけではない。円山町のランブリングストリートに連なる大箱へ行ったのは数えるほどで、O-NESTではライブをしたことがあるが、WOMBやWWWX、あとは渋家で親交のあったtomadの主宰するマルチネレコードのパーティには足を運んだ。そんなクラブも風営法どころではなく、asia系列の店舗に代表されるように、コロナ禍においてバタバタと潰れていっている。とんと足を運べていなかったことを恥入りつつも、ある文化の受け皿が減滅することに対し、憂慮せずにはいられない。

 

 音楽と共に、渋谷はファッションの街でもある。109メンズ館のギャル男系や、PARCOのハイブランドなど、多彩なジャンルやトレンドが花開いてきたのだろうが、私が好きなのはいわゆるストリート系だった。ゼロ年代は依然として“裏原”が強く、ピークは過ぎていたのかもしれないが、その残滓は色濃かったのだ。今みたいにネットであらゆる情報が手に入る時代じゃなかったから、『smart』みたいなファッション雑誌を買って、付録の店舗マップなどを片手に買い物に繰り出す。お決まりのルートとしては、ファイヤー通りからセレクトショップや古着屋を回ってキャットストリートへ。その入口にあった、小さな靴屋や雑貨屋が並ぶ宮下町アパートは、数年前から渋谷キャストという、これも立派な複合施設と相成っている。

 

 キャットストリートに入るとすぐ、中高一貫の進学校である渋谷教育学園渋谷、通称“渋渋”がある。そういえば高3の時、渋渋の年下の女の子と付き合っていた。だいたいデートは渋谷で、パルコ内の書店・LIBROをさらったり、オルガン坂のスターバックスで一休みしたりしてから、キャットストリートでウィンドウショッピングなどをする。渋渋のすぐ側のフレッシュネスバーガーにもよく行ったし、道玄坂のアラン・ドで童貞も捨てた。いわば初めてちゃんと付き合った相手だったが、一年程で別れてしまう。私の大学受験が迫ってくるにつれ、時間も合わなくなり、なにせどんどん鬱っぽくなっていたから、そんな男に嫌気が差したのだろう。最後にガラケーのメールでフラれたことを覚えている。

 

 キャットストリートをまっすぐ行って、表参道、原宿を経由し、神宮外苑の方まで出てしまう。ラフォーレにはほとんど入ったことがない。当時はFATやHECTICが人気で、未だにBAPEの店先には行列ができていた。友人たちはXLARGEだとかSupremeだとか、それぞれに贔屓があったが、私が心酔していたのはHAZEだ。パブリック・エネミーやビースティ・ボーイズのロゴなどをデザインした、グラフィティライターのエリック・ヘイズが手掛けるブランド。ただ、店舗はかなり前になくなっている。言うまでもなく原宿一帯は新陳代謝が激しい。神宮前交差点の風景も、今ではすっかり様変わりしてしまった。

 

 一度、買い物の途中で詐欺にあったことがある。高1の頃、友達4人で代官山にいた時だ。

 

 休日の昼間、服屋を回っていると、見るからに怪しげなオッサンに声をかけられた。ティアドロップ型のサングラスに無精髭、縒れたGジャンというスタイル。最初こそ軽くあしらっていたが、そのうち「この辺の店は全て俺が関わっている」「顔が効くからどこでも割引にできる」と嘯き、自分がこのエリアの元締め的存在であると吹かしてきた。そう聞くとその風貌も、どこか有力者特有のカジュアルな身なりに思えてきて、私たちは徐々に心を開いてしまう。丁々発止の話術も相俟って、かなり打ち解けたという段になり、突然

 

「実は、これをあそこに見えるマンションの一室に届けてほしいんだ」

 

 と切り出してきた。男の手には、100万円、いやそれ以上だろうか? 厚みのあるパンパンの茶封筒。どうやらそこに「事務所」があるらしい。既に若干の下心が芽生えていたのと同時に、のっぴきならない事態に巻き込まれ、もはや引き返せない状況に陥ったと感じた私たちは、なぜか男の言い分をそっくり信じてしまっていた。

 

「これは大金の懸かった任務だから、俺も君たちを信用しないといけない。だから、保険として君たちの財布を預かるよ。それでお互い平等になる。俺はここにいるから、封筒を届けてきてくれればもちろん財布を返すし、この辺りの好きな店の服を半額で買えることを約束する」

 

 私たちは見事その術中に嵌り、素直に財布を差し出していた。心身共に、思えば余りにガキだったのだ。

 

 一路マンションに向かい、インターホンで言われた部屋番号を押す。と、出た相手はそんな事務所などないと言う。顔を見合わせて、ハッと我に返った私たちがすぐに封筒の中身を確認すると、入っていたのは紙幣大にカットされた新聞紙の束だった。「やられた!」と思うや否や待機場所まで走って戻ると、むろん男の姿は影も形もなくなっていた。

 

 怒りに駆られ、ひとまずその足で渋谷警察署へ出向くと、当該の部署に回された。

 

「典型的な詐欺師だね。この中に犯人はいる?」

 

 そう警官から渡されたファイルは、ずらりと詐欺師の顔写真が並んだ、おそらくこの世で最悪の部類に属するアルバムだった。しかも、その中に男の顔があったのだ。たしか男は「馬場」と名乗り、身分証のようなものも見せてきていたが、ファイルに記された名前は違っていた。警察曰く、男は以前から何度も犯行を繰り返している詐欺師で、いくつもの偽名を持っている。今回は証拠も不十分でどうにもできないから、諦めるしかない。もし何か進展があったり、万が一捕まって財布が返ってくるようなことがあれば連絡する、とのことだった。あれから15年程経つが、もちろん今も渋谷警察署からの連絡はない。あの男はまだどこかで詐欺師をやっているのだろうか。

 

 シネフィルではないが、映画はだいたい渋谷で見てきた。大学生になってからは、円山町のユーロスペースやスペイン坂のシネマライズ、あるいは代々木のアップリンクや青山のイメージフォーラムといったミニシアター系へも足を伸ばした。桜丘にあったシアターNでは、閉館の直前、リバイバル上映されていたロバート・アルドリッチ監督の『カリフォルニア・ドールズ』を鑑賞。アメリカの女子プロレスの世界を描いた一種のロードムービーだが、見終わった後にボロボロと涙が止まらなくて、しばらく椅子から立ち上がれなかった。鼻を啜りながら降りた桜丘の坂道の景色と共に、心に刻印されている映画体験の一つだ。

 

 美術に関しては、ナンヅカアンダーグラウンドやブロックハウスといったギャラリーが豊富にあるし、またbunkamuraや松濤美術館などのミュージアム、そして今日ではヒカリエやパルコの中にもいくつものアートスペースがある。とはいえ、渋谷におけるアートの醍醐味は、やはりストリートにあるのではないだろうか。そう、グラフィティである。あの独特にデフォルメされた文字、その様式を読む少しのリテラシーがあれば、都市を見る際のレイヤーが一つ増えることになる。私は決して詳しくないものの、街のそこここに隠れたインベーダーのタイルや、QPによるモノトーンの家、ふるえる線で描かれたNECK FACEの悪魔、UFOの火星人、そしてBNEをはじめ、そこら中に溢れる無数のタギングやステッカーに、どうしたって視線を奪われてしまう。一階に富士そばが入った宇田川町・下田ビル周辺の駐車場か、シスコ坂上の無国籍通りがホットスポットだろうか。前者はかつてバリー・マッギーら、アレッジド・ギャラリーの面々がパフォーマンスを行ったという伝説の場所であり、自販機の裏に黎明期からのものだというライターたちの作品が残されてもいる。後者はマスターピースが所狭しと描かれ、ゴーイングオーバーされてきた歴史の堆積がそのまま可視化されている壁面だ。

 

 仮に、開発によってそれらがどんどん消されていっても、ライターたちは決して悲観しないだろう。そもそもグラフィティはイリーガルであり、ある地点に刹那的に立ち現れる、永続性とは無縁の表現だからだ。たとえ都市空間からますます闇や奥ゆき、余白がなくなっていくのだとしても、新たに建築やウォールが出来れば、そこにまた新たにボミングしていくに相違ない。昔、あるライターと渋谷を歩いたことがあるが、ハチ公前からスクランブル交差点を通り、センター街の入口に差し掛かったところで、彼は「ここまでで俺のタギングをもう10個は通り過ぎたよ」と、痺れる科白を吐いたのだった。

 

 ストリート・カルチャーは街の見方を変えてくれるが、例えば私はスケートボードができない。渋家に住んでいた頃、友達のボードを借りて一月程やってみたことはあるが、絶望的に才能がないことに思い至り、すぐやめてしまった。ただ、渋谷を自分たちなりのやり方で我有していたという変な自負はある。ハロウィンを例に挙げるまでもなく、渋谷には路上の遊びを誘発させる、魔力のようなものが潜んでいるのだ。

 

 最も思い出深いのは、高校生の頃、後輩たちに演らせた〈市街劇〉だ。否、市街劇などという立派なものではないく、後輩が渋谷のいろいろなスポットに紛れ込んで何らかのパフォーマンスを行い、それをみんなで見て回るという、宴会芸の延長線上にあるツアーである。

 

 スタート地点のハチ公前に着くと、さっそくハチ公に首輪をつけ、リードを持った着流しの後輩が、真顔で虚空を見つめている。そこからスクランブル交差点にて、一人がQFRONT2階のスタバの窓際の席で頬杖をつき、切なそうに黄昏ている。その様を下から眺めつつセンター街に入ると、「センター街へようこそ」と書かれた横断幕が道幅いっぱいに広がっていた。片方を持つのは後輩で、もう片方を持つのはギャルだ。聞けば手書きの幕を用意し、プリクラ屋の前に溜まるギャルたちと交渉して、手伝ってもらったのだという。HMVへ入店し視聴コーナー。男同士、片耳ずつイヤホンをつけて一つの曲で小刻みに体を揺らす二人。さらにセンター街に戻って奥へ進むと、当時あったコンドマニアの店先で、店に向かって土下座をしている後輩が「すいませんでしたぁ!」と叫んでいる……そんな一連のツアーの間中ずっと、私たちは腹を抱えて笑っていた。

 

 これらは極めて下らないだろうが、しかし、下らないことで笑うことが、あの頃、生きている意味のほとんど全てだったように思う。学校の授業で学べることはごく一部で、計り知れないくらい多くのことを教えてくれたのは、いつだって渋谷だった。

 

 とにかく、渋谷の街をぶらぶらすることだけが、私のやるべきことだったのだ。

 

 目的地なく駅に降り立って、そこから何処へ向かおうと、人混みに揉まれ、あてどなく渋谷を彷徨うことそれ自体に、どうしようもない愛おしさを抱いていたのかもしれない。

 (なかじま・はるや)

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