オイル・オン・タウンスケープ 第二号(前半)

洞穴の気怠い面々──西台アパート 第二号(前半)

 

中島晴矢

 

nisidaiapartments縮小《西台アパート》2020|カンヴァスに油彩|652 × 530 mm

 

 細く巻いたジョイントに火を点けて一服する。

 六畳あまりの部屋は一面銀色だった。畳も砂壁もくまなく銀に塗られ、窓にはアルミシートが貼られている。外はもうだいぶ暖かいがここは驚くほど寒い。こちらも銀に塗装された壊れかけのエアコンから、掃除されていない埃だらけのフィルターを通して曖昧な温風が吹きつけてくる。辺りには飲みかけのペットボトルや菓子パンの食べ残し、生ビールの空き缶が散らばり、むき出しのヴァイナルが転がっている。壁には絶望的な絵や文言の落書き……疑問の余地なく、バカみたいな部屋だ。

 

 ここは数名の仲間による溜まり場の一室で、アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」などという上等なものではなく、アトリエ兼スタジオ兼住居、要するに私たちの〈ヤサ〉だった。屋号は「CAVE MORAY」、直訳すれば「ウツボの洞窟」だ。メンバーの一人であるイナタが付けた。イナタがかつて名乗っていた作家名「打墓丸(うつぼまる)」から取られたネーミングである。だいたい、ここは彼の親父さんの持ち家だった。一家が引っ越してからまるまる空いていた物件で、イナタがアトリエとして使用していたところに、私たちがいつの間にか住み着いていたのだ。光熱費や通信費のみ割勘し、家賃はいっさい支払わないで。

 

 ケイヴ・モレイは板橋区の西台にある。最寄りは都営三田線西台駅で、東上線の東武練馬駅からも歩ける距離。すぐ北を流れる荒川を越えれば埼玉県の戸田になる。東京の北東に位置する、特筆すべきものは何もない住宅街だ。そうした典型的な郊外都市の隅っこに、この三階建の一軒家はずんぐりと鎮座している。

 

 一階のガレージが主に制作をするアトリエだ。イナタの親父さんが経営していた会社の名残で、たくさんの重機や工具が積まれているが、かなり広々としており、ペンキだろうとラッカースプレーだろうと気にせず使用できる。二階が風呂やトイレ、キッチンを備えた居住スペースになっていて、三階はつくり散らした過去作や展示機材の倉庫を担う。屋上もあるにはあるが、モノが溢れた廊下と階段をすり抜けて辿り着くのが億劫で、滅多に登らなかった。

 

 そんな鈍色の洞穴の中で私たちは生活していた。完全なる男所帯で、コックローチのように這い回りながら。

 

 

 さっそく弛緩してきた頭を振って、ボンヤリ辺りを見回すと、モレイの面々による痕跡があちこちに残されていた。

 

 壁にはイナタの小品が掛かっている。早稲田の建築を中退した彼と、私は美学校で出会った。時に幾何学的な構造物をつくり、時に白塗りで舞踏をし、そして何よりハードコアな抽象を描く彼を、私はリスペクトしていた。

 

「俺は限界フェチなんだ」

 

 そうイナタは自称していた。なるほど、彼はいつも「限界」まで自分のリズムで生きていた。積み上がるゴミを放ったらかしだったし、ライフラインをギリギリまで振り込まなかったし、生活費が底をつくまで労働をしなかった。換言すれば、日々を無為に過ごすことに賭けていたのだった。

 

 いつだったか「徒歩で行けるところまで行く」と言って、手ぶらでモレイを出ていったことがある。半年近く戻ってこないかもしれないということで、出発の前夜、盛大に飲み明かし送り出したが、一週間ほどしてあっけなく帰ってきた。曰く、国道のバイパス沿いをひたすら歩いて北上し、夜は漫画喫茶に泊まったり、神社の軒先で野宿したりしていたが、すぐに金も尽き、どうにか秩父まで到達したところで、峠を越える気にならず、数日間滞在して引き返してきたそうだ。

 

「旅はどうだった?」と聞くと、「秩父まで全く景色が変わらなかった」と言う。延々と続くロードサイドの風景もまた、一種の「限界」だったのだろうか。

 

 壁面に掛かる平面は、絵画と呼ぶにはあまりにも重厚なマチエールの塊だ。靄がかかった山脈の鳥瞰図のような、あるいは極微の細胞のような、さながら『パワー・オブ・テン』の世界。イナタの作品はいつも、例外なくドープだった。

 

 襖の外れた押入れは、DIYでこしらえた貧相なレコーディングブースだ。

 

 黒く塗られた内壁には防音材がはりつけられ、抜けそうな床板の上にマイクスタンドが突っ立っている。私とモルフォビアは、この窮屈な押入れの中、安物のポップガードに向かってバースを蹴ってきた。

 

 ビートメイカーのモルフォビアは、18歳の頃、当時私が住んでいたシェアハウス・渋家に転がり込んできた。埼玉県の草加出身で、父親は夭折しており母子家庭。事情があって家出をし、ネットカフェ難民をしていた際に、たまたま見かけたネット放送がきっかけで渋家にアポを取った。生い立ちやバックグラウンドはだいぶ異なるが、ヒップホップとクワガタが好きだという共通点を見いだし、すぐに意気投合した。

 

 モルフォビアは中学生の時分からブレイクダンスを続けてきた、リアルなB-Boyだ。出会った当初、彼は蒲田にある専門学校のダンス科に通っていた。しかし、やがて学費を払えなくなり中退。それでもストリートでダンスを続けていたが、怪我でいったん踊れなくなったことを機に、トラックをつくり始める。そのタイミングで私もラップを書き出し、ユニットを組んだ。

 

 モルフォビアが生成するのは、90’を彷彿とさせる、渋くグルーヴィーなビートである。愛機・SP505を用い、フィジカルなレコードやCDからフレーズをサンプリングしループさせる。端的にローファイと言っていいだろう。

 

 モレイで共同生活をするようになってから一年ほどかけて、私たちはなんとかアルバムを一枚仕上げた。

 

 

 吸いさしのジョイントに再び火を点ける。肺いっぱいに停留させてから、ゆっくり紫煙を吐き出すと、香ばしい匂いがたちまち部屋中に広がった。網膜で銀色がチカチカと瞬いている。

 

 

 スピーカーの上で中指を立てている黄色いハンドマネキンは、ヤンマーが置いた代物だ。

 

 道産子のヤンマーとも、渋家を通じて知り合った。長く伸ばしたヒゲ、束ねた長髪にハットというヒッピーめいた風貌であり、実際ほとんどヒッピーだった。人たらしだった彼は、アーティストやミュージシャン、モデルなんかと独自のコネクションを形成し、とにかく東京を遊び倒していた。モレイでも、DJを集めたクローズドなパーティを企画したり、自分の部屋を茶室に見立てた秘密のお茶会を開いたりしていた。そして日夜「トリップノート」なるものを描き継いでは、何冊ものZINEに綴じていたのだった。

 

 一時期、彼は「西台ゴ」なる自作のテーブルゲームを、イナタあたりとよくプレイしていた。用意するのは、マグリットの画集(それはマグリットの画集でなければならないらしかった)と麻雀牌。まず二者が机に対座し、攻めと受けを割り振る。次に、机の中央部に目隠しとして画集を立てて、受けが自陣に気の向くまま牌を並べてから、心内で当たり牌を決める。そして、攻めが一つずつ牌を選んでいき、当たりが出るまでの回数をカウントする。今度は、攻めと受けを入れ替えて同様の手順を踏み、どちらがより少ないカウントで牌を当てられたかを競う───そんなゲームである。

 

 ヤンマーによれば、「牌をどう並べるかという建築的な造形力と、当たり牌を見極め、悟られないようにする心理的な洞察力が問われる、やればやるほど奥深いゲーム」とのことだったが、果たしてこれ以上に無駄な時間の潰し方があるだろうか?

 

 私も含めたこの4人が、ケイヴ・モレイの主な住人だった。私たちはのべつ酩酊しては、気怠い日々を過ごしていた。

 

 

 ジョイントを根元まで吸い切り、ローチを始末してから、不織布マスクをつけてモレイを出る。目下、東京はCOVID-19による緊急事態宣言の只中だった。

 

 うららかな早春の真昼間だが、人影はまばらで、その人たちも皆一様にマスクをしている。しかし、そもそもこの街が今まで一度でも人で溢れていたことがあっただろうか?

 

 大東文化大学のキャンパスにも、区立中学校の校庭にも、学生の姿は見あたらない。高架下を伝い、ジャンクションの立体歩道橋を渡って、とりあえず駅の方へと向かう。

 

 ……セブンイレブン、デニーズ、ピザハット、モスバーガー、ガソリンスタンド、キャンドゥ、ニッポンレンタカー、右手に連なる新蓮根団地。回転寿司、紳士服のアオキ、居酒屋チェーン、レンタルビデオ屋、カラオケ、パチンコ、マンションと一体化した小さな商業プラザ、その中の消費者金融、そして西館と東館が中空の渡り廊下でつながれた巨大なダイエー……

 

 コロナ禍における都市の変容を捕まえようとする時、西台ほどそれに向いていない街もないかもしれなかった。なぜなら、この街には人が生きていく上で必要最低限のものしか存在しないからだ。もとより都市の祝祭性は皆無で、ただのっぺりとした灰色の日常が街全体を覆っている。むろん、自粛要請を受けて休業している業種や店舗はあるだろう。だがその表層において、市街の風景は以前と何も変わらないように見える。

 

 モレイから駅の西口改札へと至る裏通りには、まだ思い出深い場所がいくつかあった。

 

 富士山のペンキ絵が描かれた、昔ながらの銭湯「功泉湯」へは、制作でドロドロになった身体を流しに行くことがあった。モレイの風呂はまるで掃除をしていなかったし、絵具がそこら中にこびりついて、とても湯船に浸かれるような状態ではなかったから、私たちはすがるように功泉湯の暖簾をくぐった。ゆっくりと湯につかってから、待合室の缶ビールでくつろぐ。土地柄だろう、暮合には立派な刺青を背負った爺さんに出くわすことがあって、そうするとちょっと得したような気分になった。

 

 西台の殺風景な町並みにも、そうした市街の記憶の残滓みたいなものは、わずかに潜伏していた。交差点の一角、なんてことないマンションの一階部にある欧風カレー屋「ラ・ファミーユ」は、店内に入ると空気が一変する。アンティーク調の家具で統一された内装に、窓や天井がゆるやかにカーブを描き、クラシックが流れる。童話に出てくるお屋敷の執事のように腰の曲がったお婆さんが、なみなみとルーを湛えたグレイビーボートを運んできてくれる。ルーはビーフ・ポーク・チキンからシーフードまで選べて、味も抜群だった。

 

 その交差点を折れて少し行った路面に構えるのは、町中華の「キッチン西田」。小上がりの座敷があって、奥に据えられたテレビには、必ずと言っていいほど野球中継が映っている。ラーメンもチャーハンも美味いが、アジフライ定食がたまらない。よく連れ立って、遅いブランチを食べにいったものだった。

 

 とはいえ西台で圧倒的な存在感を放っていたのは、何と言ってもチェーン店だ。

 

 大概べろべろに酔っ払って、私たちは深夜のローソンへと買い出しに向かった。きまってレジにいたのは店長のツッチー(もちろん陰で勝手にそう呼んでいただけだが)で、会計時、彼と他愛ない二言三言を交わすのが一種の通例になっていた。ツッチーは娘が美大卒らしく、それゆえかどうかわからないが、定職に就かないで作品めいたものをつくってぶらぶらしている私たちに、ささやかな理解を示してくれていた。

 

 ツッチーの気分が乗っている時は、キャンペーンのくじを当たりが出るまで引かせてくれる。モルフォビアはこれを「無限スピードくじ」と命名し、重宝していた。

 

「僕は家ではもっぱら焼酎なんですよ」

 

 と、シーズンが過ぎて店頭に並べられなくなったビールや、個人的に余らせているという貰い物の日本酒を、気前よく譲ってくれることもある。むろん淡々とレジ業務を済ませるだけのそっけない日もあったが、それらを私たちは「ツッチー・チャンス」と総称し、今夜はチャンスがあるかないか、要するに無料でアルコールにありつけるかどうか、ベットするような想いで出向いた。すでに充分いい歳をしていた私たちは、全くと言っていいほど金がなかったのだ。

 

 そんな風だから、皆なるべく自炊を心がけた。当たり前に飯の当番などは決まっていなかったが、各々が気まぐれで料理を振る舞うことが多かった。凝り性のヤンマーは、手の込んだ煮魚をつくったり、イナタは「男であれば食材を切って焼くことはできる」と宣って、野菜を炒めたりする。モルフォビアは味噌汁などをこまめに仕込んでいたが、たまに外食しては、そのぶん出ていった金額を惜しんでいた。

 

 私はと言えば、たいてい「Big-A」で食料を買い出した。モレイの最寄りで24時間営業のスーパーだ。やたらガラガラとうるさいカートを押して、一袋17円のモヤシと一丁16円の豆腐をカゴに放り込む。あとはネギかキャベツがあればなんとかなった。少し懐に余裕があれば、マグロの刺身や鶏肉、しめ鯖、ホルモンなどを買う。ビニール袋はくれないのだが、自前の手提げを持参するような甲斐性はもちろんなかったから、積まれた廃棄用ダンボールに食材を詰め、両手で抱えて帰った。

 

 そうやって調達した食材で、エサみたいな料理をでっち上げる。出汁も取らずに煮立てた湯豆腐や、市販のパックを使ったモヤシ入り麻婆豆腐、米にキムチやツナ缶、生卵をぶっかけた名状しがたい丼。「生き延びメシ」と括ったそれらを肴に、毎晩だいたい焼酎ハイボール、酔いたい時は安い日本酒をやる。生活力は皆無に等しかったが、ガスコンロと洗濯機とベッドがあればなんとかなると考えていたし、現になんとか生き延びていた。

 

 駅近くのブックオフでは、モルフォビアが100円CDのコーナーで、ビートのネタをしょっちゅうディグっていた。騒々しいモレイを離れて一人になりたい時は、そのすぐ側のサイゼリヤに寄る。正確に言えば、ネオンサインの「ya」が消えていたから、ここは「サイゼリ」だった。反復されるイタリア歌謡曲を浴びながら、ミラノ風ドリアかペペロンチーノに、これでもかと粉チーズとオリーブオイルをかけて食欲を誤魔化し、グラスワイン一杯で粘る。そのサイゼリも、ついこの間薬局に変わってしまった。

 

 殊に駅の高架下は入れ替わりが激しい。ちょっと前まで小さな書店があったが、いまはその場所に新しいコンビニがオープン直前のままで、時間が静止したみたいに佇んでいる。唯一「夢宿」と書かれたネオン看板が出ている、仮設住宅じみたカラオケスナックだけは残存していた。この状況でも営業しているかどうかは、ちょっと見ただけではわからなかった。

 

 総じて西台は、決して味わうような街ではなかった。だが、かと言って全く味わえないというわけでもない。無機質で、無味乾燥としていて、寂寞たる西台を、私たちはそれでも尚しがんでいたし、しがんだ際に滲み出る灰汁のようなものを、愛してさえいたのかもしれなかった。

 

 駅舎の上向こうには巨きな団地が峙っている。都営西台アパート……一度、夜中に皆で彷徨ったことがあった。その時はいろんな面子が一緒だったはずだが、例によってしたたかに酔っていたから、誰がいたのかはっきりとは覚えていない。

 

 (なかじま・はるや)

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