オイル・オン・タウンスケープ 第四号(後半)

文学の死霊たち───外濠端景 第四号(後半)

中島晴矢

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《外濠端景》2020|カンヴァスに油彩|652 × 500 mm

 

 現在、法政大学の校舎は普請中だ。

 

 私が入学した時には、既に学生会館はなかったし、高層のボアソナード・タワーが空を貫いていた。つい最近解体された55年館と58年館は、白と黒の格子状のファサードが効いた、大江宏によるモダニズム建築で、なるほど老朽化してはいたが、その中で学生生活を過ごせたのは貴重だったのだと思う。

 

 昼休みには、たいてい文化連盟なる団体が、校門前で拡声器を用いて、大学当局を批判していた。その後方には、決まって数名の公安警察が張り付いている。それはどこか伝統芸能にも似て、法政の平和な日常の景色だった。

 

 私はたまに、文化連盟の人たちと議論をした。「あなたは実存的に満たされていないからこのような運動をしているのではないか?」などと吹っかけるのだ。じじつ、どこかの大学を中退し、政治活動をするために法政の通信に籍を置いている、みたいな人も多かった。そうした切り口から、しかし現代社会への問題意識を共有してみたりと、なかなかいい暇つぶしになる。一通り喋ったその足で食堂に赴き、列に並んでいると、後をつけてきた警備員に肩を叩かれ、学生証の提示を求められたこともあった。その日、私は剃りたてのスキンヘッドにトレンチコートを着ていたから、右なのか左なのか、とにかく怪しい奴だとマークされたのだろう。

 

 法政のちょうど真向かいの外堀通り沿いには、ミヅマアートギャラリーがある。私の在学中に移転してきた、大きなコマーシャルギャラリーだ。だから、授業の合間や放課後に、めぼしい展覧会を気軽に見に行くことができた。

 

 ミヅマでの、会田誠さんや松蔭浩之さんの展示のオープニングパーティには、よく顔を出した。二次会はいつも神楽坂の「竹子」に流れる。一見、高級割烹のような門構えを持つ、激安居酒屋チェーンだ。大人数で二階を貸し切って、作家、批評家、ギャラリストなど、美術関係者が入り乱れ、与太話と芸術論を酌み交わす。最若手の学生組だった私は、その末席を汚しながら、しかし美術界のリアルを実地に見聞することができた。

 

 美学校の師であり、市ヶ谷在住でもあった松蔭さんの結婚披露宴も、ミヅマで開催された。釣り堀近く、外堀通りから急な石段を登り、高台に位置する亀岡八幡宮で神前式を挙げてから、一同ミヅマへ。余興では、私まで花嫁姿になってラップをしたりしたが、そのパーティのDJをモブ・ノリオさんが担当していた。大阪芸術大学出身のモブさんは、同様に大阪芸大出身である松蔭さんの元アシスタント、要するに兄弟分だったのである。

 

 例によって二次会は「竹子」で開かれたが、ふとした流れで、私とモブさんの二人でコンビニへ煙草を買いに行くことになった。憧れの作家である。ガチガチに緊張しながらも、たしか煙草を奢ってもらう。その戻り際、市ヶ谷の町並みを見ながら、モブさんは私に言い聞かせるように呟いた。

 

「東京はどこにいるにも金がかかるやろ。ちょっと休もう思ても休める場所があらへん。ほんで、こんなに仰山、ビルいらんねん。ま、俺は東京には住めへんやろうな……」

 

 この時の言葉は、未だ私の胸に強く刻まれている。ちなみにモブさんはどこかの文章で、「千代田区」に「BABYLON」というルビを振っていたが、このことが脳裏にあったかどうか、もちろん定かではない。

 

実は、同時期に似た話を、ある人から聞いている。ある人とは、スチャダラパーのMC・BOSEさんだ。2012年に中目黒のギャラリーで、毎日ゲストを呼びトークを配信するという、渋家の展示企画があった。ひょんなつながりから、そこにBOSEさんが出演してくれたのだ。

 

収録当日、私とモルフォビアでたっぷりと話を聞いた、その帰り道。駅前に新しくできたタワーマンションを見上げながら、BOSEさんはこんな風なことを語った。

 

「ほら見て、上の方ほとんど真っ暗でしょ。タワマンなんて本当はいらないんだよ。今は人口も減ってるし、家を買う人だって減ってるのに。それこそ君たちは一軒家をシェアして住んでるわけじゃん。ただ収容率を上げてお金儲けしたいだけなのが見え見えでさ。こんなのバンバン建てないでいいのにね……」

 

 震災の翌年、尊敬している二人の表現者から聞いた話は、偶然にもシンクロしていたのだ。若い私に、彼らが何を伝えようとしていたのか、これからもずっと考え続けていく必要があるのだろう。

 

 

隣駅の四ツ谷には、外濠に沿う長くゆるやかな高力坂を登って、しばしば足を伸ばした。大学3年の半ばまで、上智大学神学部の女の子と付き合っていたということもあるが、フラれて以降も継続して四ツ谷へ通うことになる。芥正彦さんの稽古場「105」があったからだ。

 

 芥さんと言えば、1969年、東大全共闘と三島由紀夫との討論会で、赤ん坊を負ぶったまま、自由奔放な発言をした人物として有名だ。当時から劇団を主宰していた演劇人で、その後も寺山修司と共に雑誌『地下演劇』を出版するなど、アングラ文化のリビング・レジェンドである。そんな芥さんを、美学校の藤川代表が紹介してくれたのだ。

 

 その頃、私は三島由紀夫に傾倒していた。きっかけは、高校時代に抱いた三島への三面記事的な関心だ。ボディビル、映画、男色、楯の会、そして切腹と、その生き様をまずはおもしろがった。やがて、そこから逆算するように小説を読んでいき、その文学にも惹かれていくことになる。

 

 そうして私が始めたのは、なぜか三島の形態模写だった。初めは高校の卒業式、スーツを着て坊主頭だった私は、マジックペンでモミアゲと眉を太くする。その眉をグッと八の字にして眉間に皺を寄せ、二重瞼の目玉をひん剥いて卒業証書を受け取ったのだ。森村泰昌の作品を知ったのは、そのだいぶ後である。それがウケたことに味をしめ、予備校では軍服風の衣装や鉢巻を揃えて、パフォーマンスを敢行した。自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた事件のパロディとして、三島の檄文を徹底的に無意味化した演説を打ってから、「天皇陛下万歳!」を叫びながらマスターベーションの所作を行う、という代物だ。

 

 もちろん、そこには三島に対する自分なりの批評性を込めていた。その死に様に魅せられる部分と、滑稽に感じる部分とが交錯する両義的な心性。あるいは、「大きな物語」を生きられた時代への憧憬と、自分たちの世代的な矮小さへの諦念。そうしたアンビバレンスをそのまま投げ出したのが、このパフォーマンスだった。

 

 藤川さんは、そんな私を見ていて「105」に誘ってくれたのだろう。四ツ谷の交差点から住宅街へ入った、とあるハイムの一室。60年代からずっと使われているという、その105号室は、コンクリートが剥き出しになった、殺風景な稽古場だった。中央に無骨な木のテーブルが置かれ、本棚には哲学書がずらりと並ぶ。デッサンが掛かったイーゼル、アントナン・アルトーのポスター、鈴木いづみの本や阿部薫のレコード、大きな鏡、シングルベッド、レッスンバー。それらが散らばる灰色の空間には、禁欲的な緊張感が漲っており、その中心で、芥正彦は古びた椅子に腰掛けていた。

 

 芥さんは、とにかく喋り出したら止まらない。フランス現代思想の日本語訳みたいな言葉を、まるでアジテーションのように語り続ける。内容はきわめて形而上学的で、さながら観念の化け物だ。それでいて無邪気な愛嬌がある。初訪問以来、時々ここを出入りするようになるが、三島や学園紛争のことも含め、いつも刺激的な話を聞かせてもらった。

 

 一度、芥さんに殴られたことがある。中野の劇場「テルプシコール」で、芥さんの公演を手伝った時だ。

 

 千秋楽後、すぐ隣の居酒屋「つつみ」にて、いつも通り催された打ち上げの席。どういう経緯か忘れたが、話題が三島由紀夫に及んだ際、そこそこ酔いの回っていた私は「三島はフェイクである」という持論を展開する。その装飾過剰な文体、華美な邸宅、身に纏った筋肉の鎧、そして政治団体のキッチュたる楯の会───。そうした虚構性に対して、とはいえ私は私なりに、真摯に向き合っているつもりで、三島はある意味「ニセモノ」だと捲し立てていたら、芥さんに頭を平手で叩かれたのだ。

 

「馬鹿野郎、三島はニセモノじゃない! 三島は腹を切って、現実に死んだんだ」

 

 芥さんはそれだけ言って黙ってしまった。

 

 もちろん座は気まずい空気に包まれたが、私はすぐさま反省しつつ、同時に心のどこかである嬉しさを覚えてもいた。芥さんが三島の死を重く受け止め、今もその肩に背負っていることが知れたからだ。

 

 だいたい、芥さんの言う通りなのである。いくら周囲を虚飾で埋めようと、しかしその最期、三島はほんとうに腹を切り命を絶っている。物理的な死を実行した点において、あらゆるフェイクはリアルへとぐるりと反転する。その一点にこそ、三島の全てがかかっているのだ。

 

 あの時の芥さんの叱責は、間違っていなかったと今でも思う。

 

 「105」に通ううち、芥さんの舞台に私も出演することになった。フランスの演劇家アントナン・アルトーを主題とした公演で、役者のみならず、舞踏家、パフォーマー、ノイズミュージシャン、そして江戸糸あやつり人形が出演する、カオティックな前衛演劇。その中で、私は三島由紀夫役を演じたのだ。

 

 私の三島は、あまりにヘヴィーな劇全体に対して、休憩直前、飛び道具として登場する、箸休め的な役割でもあった。舞台上で、アルトーの自我の崩壊と連動するように、原爆が爆発し、昭和天皇が「余は、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」と玉音のフレーズを発話するタイミングで、観客席の後方から叫び声をあげ舞台に駆け上がる。そこで、例の自決前の演説のパロディを演じるのだ。

 

 さらに、朗読のため観客席側にいる芥さんから、様々な言葉の礫が飛んでくる。これが全てアドリブなのだ。私が狼狽し、しどろもどろの返しをすると、それが笑いになる。全共闘として三島と対峙した、実在の芥正彦と行う、演劇という虚構の中でのリアルなやり取り───虚実が幾重にももつれたあの瞬間、私は何とも言えない高揚感に包まれていた。

 

 その後も断続的に、芥さんの舞台には端役で出演し続けているが、芥さんは相変わらず精力的だ。「105」もまた、変わらず四ツ谷の一角に佇んでいる。

 

 

 三島由紀夫が自決した自衛隊駐屯地は、言うまでもなく市ヶ谷にある。外堀通りから靖国通りへ折れてすぐ、今は防衛省の庁舎になっている。

 

 現在この国は、三島が『果たし得ていない約束』で予見したような、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」にすら及ばず、いろんな意味で下降している最中だ。

 

 ──そうした日本の有り様に、未練を断ち切れず、まるで平将門の首のように、未だに三島の生首がこの辺りをふわふわと浮遊しているかもしれない。半世紀経ってなお、その首は外濠端を眼下に見据え、大仰な演説を打っているのだろうか。そういえば、この原稿を書いているのは、ちょうど三島の自決から半世紀を経た晩秋の夕暮れだった。……

 

 斯様に私にとっての外濠界隈は、埴谷雄高ではないが、まさに文学の「死霊」が漂うエリアだ。私はここで、疾うに死んだ人間たちと、しかしその作品を通して、たしかに出会ってきたのである。

 

 時代と共に大学も、町並みも、そして文学も変質していくだろう。私もまた、自らの生をただ揺蕩っていくのみだ。

 

 外濠沿いの土手には今日も中央線が走っている。

 

(なかじま・はるや)

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