本を読む #040〈新人物往来社『近代民衆の記録』と内川千裕〉

㊵草風館、草野権和、『季刊人間雑誌』

                                         小田光雄

 前回の最後のところで、新人物往来社の『怪奇と幻想の文学』や『近代民衆の記録』の編集者だった内川千裕が、その後の1979年に草風館を設立し、2008年に亡くなったことを記しておいた。

 

 思いがけずに草風館という出版社が浮かび上がり、それをきっかけにして、かつて『出版状況クロニクル』において、草風館の編集者の死と『季刊人間雑誌』にふれた記憶がよみがえってきた。そこで拙著を確認してみると、2008年6月から7月のところに、草風館の内川千裕の死が書かれていた。それを私も失念していて、また新人物往来社の内川と同一人物だと思っていなかったのである。

 

 『季刊人間雑誌』のほうは1979年冬に創刊号が出されている。A5判250ページほどで、表紙・題字・目次は田村義也により、グラビア写真は本橋成一「サーカス」、川原一之+由紀子「亜砒鉱山(あひやま)・土呂久つづき話」(後に岩波新書『口伝亜砒焼き谷』)、松崎次夫「地獄の喧嘩花・チッソ労働者覚書」、上野英信「眉屋私記」(後に同タイトルで潮出版社から刊行)、林竹二「新井おうすいノート」、宮下忠子「ある戦後」が主たる内容だとわかる。そして表紙裏には次のような言葉が置かれている。

 

わが身・こころもそのひとつである、あたりまえでふつうの人間の、やさしさと哀しみにみちた生き死にを、民族や国家と向きあいながら、記録を中心とする方法によって明らかにしたい。

この仕事をとおして、人間についての知識ではなく、その獲得によっておのれの生き方・死に方がかかわるような〈知慧〉の一片をでも読み手、書き手と共有したいと思う。―出版者

 

 これはまだ出版がそのような仕事だと信じられていた時代の言葉であり、もはやこのような言葉を発する「出版者」はどこにもいない。この『季刊人間雑誌』創刊号は草風館を発行所、発行人を文正吉、編集人を草野権和として、79年12月11日付で出されている。編集後記にあたる巻末の「だそく」において、草野名で「本誌の発行目的みたいなものについては、表紙裏の短文で語ったつもりになっている」と書いているので、ここで示された「出版者」は草野に他ならないことになる。そして「知識ではなく〈知慧〉を」はプラトンの『弁明』の中の言葉で、それは「生き方・死に方がかかわるような〈知慧〉」だとされている。それを草野は西宮ルナ・ホールでの林竹二の授業「もの識りであることと賢いということ」を受け、合点したとも述べ、その思いで出発すると表明している。出版社は不明だが、草野は前身も雑誌編集者だったようだ。

 

 『季刊人間雑誌』は1981年秋の第8号までが手元にあるが、林の新井おうすいに関する連載が続いているのは、そのような草野と林の関係によっているのだろう。しかしあらためて『季刊人間雑誌』を見てみると、季刊のリトルマガジンであるにもかかわらず、意外なことに雑誌コードが付され、書籍ではなくまさに取次ルートの雑誌として流通販売されていたとわかる。新規の出版社として新たに雑誌コードを取得するのは、70年代でも難しかったはずで、取次口座の開設にあたって、有力な出版社の手助けがなければ、実現しなかったと思われる。この事実は草野が以前に属していた出版社の存在も作用していると推測される。それに加えて、この定価800円の『季刊人間雑誌』には広告が一切入っておらず、このことは発行人の文正吉のパトロンとしての懐の深さと資金繰りの余裕をうかがわせるものだ。それらを重ね合わせると、『季刊人間雑誌』が創刊に際して、かなり恵まれた条件の下にスタートしたことを示している。

 

 そうして第3号からは吉田司の「若き水俣病患者の世界」を描いた「下下戦記」が連載され、第5号で完結するのだが、その「だそく」で、草野は書いている。「『下下戦記』が終わりました。四百字詰の原稿用紙で七五〇枚。質量ともにひとつの仕事でした。ありがとう、吉田さん。お互いにここからが正念場」と。これが何も意味しているのか、当時はわからなかったけれど、1987年に白水社から『下下戦記』が単行本化されたことにより、明らかになったのである。

 

 吉田は「七年目の封印を切る〈あとがきにかえて〉」で、『下下戦記』は「水俣現地では『厄災(わざわい)の書』として長い間沈黙をよぎなくされてきた本である」と始めている。それは連載中から「患者家庭の恥部を赤裸々に暴露したものと、患者関係者から激しい抗議を受け」、「同時に、『公害の聖地・水俣』に間違ったイメージを植えつけ」るとして、「支援運動側の猛反発を呼びおこした」。また主人公の若い患者たちもその責任を迫られ、「連載中止と廃刊要求」の中で、吉田自身も水俣追放を宣告され、窮地に陥ったのである。

 

 その一方で、『下下戦記』の単行本化は10社以上から申しこまれたが、吉田は断り続けた。だが7年が過ぎ、水俣の状況は変化し、「若い患者たちの自立運動は内部崩壊し」た。そうした中で、「『下下戦記』ひとりが貝の如き沈黙を強いられる必要があるだろうか―私が七年目にしてその封印を切るのはただこの一点からである」し、「この作品を私物化」「私一人の作品と位置付け直し、もう水俣の誰にも判断をあおがず出版する」。それは何よりも「厄災の書」だからだ。

 

 これを読むと、帯文の「幻の記録の封印がいま解かれる」「軽い時代の重い本」というキャッチコピーを了承できる。だが『下下戦記』に草野の名前は見当らず、吉田がやはり白水社から同時刊行した『夜の食国』にはその代わりに「内川千裕(草風館)」への謝辞がしたためられ、『下下戦記』の連載も林竹二を通じて実現したらしいことも語られている。

 

 それではどうして「お互いにこれからが正念場」と伝えた草野に、吉田からの言及がないのだろうか。それは『季刊人間雑誌』が1981年冬の第9号で終刊となってしまったことと絡んでいるように思われる。おそらく赤字の累積も限界に達したと考えられるし、企画編集人の責任を負って草風館を去り、草野と入れ替わるようなかたちで、内川が編集責任者となり、アイヌ関連書などの単行本を企画刊行していったのではないだろうか。1992年版『日本の出版社』(出版ニュース社)を見てみると、草風館の社長は文正吉、編集代表は内川とある。だがもはや内川の2008年の死から推測すれば、草風館は存続していないと考えられる。

 

−−−(第41回、2019年6月15日予定)−−−

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