矢口英佑のナナメ読み #021〈『至妙の殺人』〉

No.21 『至妙の殺人』

矢口英佑〈2020.1.27

 

 「論創海外ミステリー」の240冊目が本書『至妙の殺人』である。論創社は知る人ぞ知るミステリー物を息長く刊行し続けている出版社で、海外物のほか、日本の作家シリーズ物や個人作品集、ミステリー関係の評論も手がけ、埋もれてしまった推理作家に再度、光を当て、小説の掘り起こしにも力を入れている。

 

 本書も埋もれてしまったと言えば、言い過ぎかもしれないが、記憶から遠ざかってしまっていたL・J・ビーストンとステイシー・オーモニア、二人の作家の作品各8編、合計16編の短編小説を収めている。二人とも1920年代、あるいは1930年代にかけて作品を精力的に発表していたイギリスのミステリー作家だが、惜しいことにこの二人の作品は本国はもちろん、日本でも現在では取り上げられる機会が少なくなってしまっていたようである。

 

 1920年代といえば日本では大正から昭和初期の時代であり、今からおよそ90〜100年前の作家、作品ともなれば、古色蒼然とした色合いに包まれた小説と思われてしまうのは、むしろ当然なのかもしれない。

 

 それだけに、本書で取り上げられているL・J・ビーストンとステイシー・オーモニアのように、彼らの小説世界に簡便に足を踏み入れることができるのは、ミステリー小説ファンが「論創海外ミステリー」を歓迎している理由の一つになっているのだろう。しかし、別の面から見れば、活字文化が後退の一途をたどるなかで、埋もれた過去の優れ物に目を向け、掘り出し、その輝きを取り戻すという作業そのものが貴重な文化的事業にもなっている。

 

 その意味では、本書を含めて論創社の息の長いミステリーシリーズは、〝温故知新〟という言葉を思い起こさせ、まさに〝新しさをあらためて知る〟醍醐味と楽しさを教えてくれている。

 

 なんでもビーストンの作品は江戸川乱歩が戦後間もなく作成した、日本の雑誌に翻訳された外国人作家の邦訳頻度表では、他の海外作家より格段に多いという(本書解説より)。そして、それらの作品の翻訳を精力的に手がけた翻訳者の一人に妹尾アキ夫がいた。この翻訳者としての妹尾については、本書の研究論的な解説に譲ることにする(論創ミステリー叢書『妹尾アキ夫探偵小説選』2012刊も参照されたい)が、収録されている16編は、すべてこの妹尾が翻訳した作品で、横井 司が編者として作品の選択、編集、解説を担当している。

 

 本書に収録された作品はL・J・ビーストンの「犯罪の氷の道」(邦訳掲載誌不詳)を除いた15篇すべてが1920年代の『新青年』誌上に訳載された作品である。雑誌への掲載だけに紙幅に限りがあり、おのずと短篇作品が主になっていて、本書に収録されているL・J・ビーストンの「ヴォルツリオの審問」などは訳文にしてほぼ6頁(四六判)分に過ぎない。

 

 ただし、文章量の少なさが作品世界の拙劣さを示すものでないことは言うまでもない。それどころか「ヴォルツリオの審問」は犯人あぶり出しの手法が短い小説世界のなかで、みごとに描き切れている。

 

 L・J・ビーストンとステイシー・オーモニアの作品世界は、目を通せばすぐに了解できるが、かなり異なる。

 

 L・J・ビーストンの小説世界では「ミステリー」にふさわしく、〝殺人〟が小説展開の柱になっている。しかし、ステイシー・オーモニアの小説世界では「ミステリー」と銘打たず、一般の小説としても読めるもので、〝殺人〟は脇役として置かれているか、〝殺人〟のない作品も収められている。

 

 またこれは訳文を通しての私の感覚的印象にすぎないが、ビーストンの小説は冷徹、明快なストーリー展開、そして結末の意外性を前面に強く出すことで、小説の構築上に多少の無理や破綻があろうとも読者を楽しませてしまう。

 

 たとえば、「赤い窓掛」は友人を殺し、警察の嫌疑から逃げ切った男の所へ殺された男と親しかったという女性が暗闇の中で、顔を見せないままその男の部屋を訪れてくる。そして自分は犯人を知っていると伝えて、その居場所へ男を巧みに向かわせ、現れた男を殺し、復讐を果たすのである。池波正太郎の「仕掛人藤枝梅安」を思い起こさせ、〝必殺女仕置人〟の登場と言っていいだろう。

 

 また「約束の刻限」では、かつて刑務所で知り合った男に強迫されて金をたびたびむしり取られている男が、これも同じ刑務所で知り合った男に脅迫文を送りつけ、一人には金を渡すと言い、一人には金を渡せと言って同じ場所、同じ日時を伝え、身代わり殺人を実行させ、まんまと成功させてしまう。

 

 一方のオーモニアには人間の心理を突く、探る、推理するといった人間分析とも言える描写が多く見られる。

 

 たとえば

 

人間の才能と云うものは、なかなか発見しがたいものだ。才能がないからと云って、決して失望してはならぬ。或る者は若い時に探して探して探し抜いても何の才能をも発見し得なかったのに、ふとした動機から中年を過ぎて自分の才能を認め、たとい他人以上でないにせよ、とにかく人並みに何事かを為し得ることを発見しないでもない(「オピンコットが自分を発見した話」)。

 

 総ての自然の現れの中で、一番順応性に富んでいるものは人間である(「暗い廊下」)

 

人間は誰でも、ふとした場合にふとした事がもとでつい悪いことをするものだ。あるいはあの男でも、本当は殺人の罪を犯していないかも知れない。人というものは、ともすればありもせぬ濡れ衣を被せられ易い(「ブレースガードル嬢」)

 

 とかく世間の人というものは、子を持つ親がその子のためにどんな苦労をするか、その子のためにどんな侮辱を甘んじて忍ぶかということを、軽々しく見過ごしやすいものだ(「たゆまぬ母」)

 

 ミステリー仕立ての人間省察小説と言ってもよく、オーモニアの登場人物に注がれるおしなべて温かなまなざしと、複眼的な洞察力が小説の世界にちりばめられている。

 

 本書の最後尾に置かれたオーモニアの「昔やいずこ」のエピローグとも言える叙述は、ミステリー小説の格好の題材になるような行動や行為に右往左往する人間という生き物について、教え諭すかのようにこう結ばれている。

 

 枯れた木の葉が、はらりと地上に落ちる。すると土地は新しい生産のために、その落ち葉を黙って胸に収容する。時の大事は絶えず廻転を続けて、すべてのものが忘れられていく。

 大地は人類の脆弱性には頓着せず、善も見なければ悪も見ず、ただその生命の保存のために、永遠に生産し続ける。そして新しいものが産れ、若い蕾が芽を出し、過去の災難には無関心に、ひたすらこの世の光と熱を求めて伸びて行く

 

 決して嫌みにも皮肉にも聞こえず、素直に作家の言葉に耳を傾けてしまうのは、限りある時間のなかでしか生きられず、しかも常に脆さを抱えた人間の営みがいかに卑小であるか、それに気づかせてくれるからである。

 

 この二人の作品が百年近く前に執筆されたにもかかわらず、少しも古さを感じさせないのは、たとえ百年前の殺人事件であろうと、百年前の社会事情であろうとも、忘れてはいけないはずの真理をあらためて我々に語りかけているからにほかならない。

 

(やぐち・えいすけ)

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〈次回、2020.2予定『子育て算数レシピ』〉

『至妙の殺人』 四六判上製360頁 定価:本体3,000円+税

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