矢口英佑のナナメ読み #032〈『空襲にみる作家の原点』〉

No.32 『空襲にみる作家の原点』

矢口英佑〈2020.9.23

 

1969年に文學界新人賞を受賞した「幼きものは驢馬に乗って」を含めて、1970年「<傷>」、71年「骨川に行く」、72年「春の往復」、73年「眉山」と連続5回、芥川賞候補となる作品を発表した森内俊雄は地味ながら玄人受けする作家である。

 

一方、瀬戸内寂聴は1957年に「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。しかし、受賞後第1作の『花芯』が、官能的描写に走りすぎると批判を受け、「子宮作家」とまで批判された。1963年に『夏の終り』で女流文学賞を受賞し、1973年には出家、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴へ。源氏物語の現代語訳者としても評価され、尼僧としての活動も活発で、反戦、反原発にも積極的に取り組んでいる。

 

あまりにも概括的すぎるかもしれないが、森内俊雄を「静の作家」とすれば、瀬戸内寂聴は「動の作家」となるだろうか。

 

本書は作風も人間味も好対照と言える二人の作家を日本の敗戦が否定できない事実として日本人に教えた「空襲」を、「作家の原点」として論じている。そして、本書が異彩を放つのは、著者の「はじめに」に見える次の言葉である。

 

一見、なんの関係もないように見える二人だが、接点がないわけではない。いずれも徳島ゆかりの作家であり、それにもまして重要なのは、二人の人生と文学が、ともに太平洋戦争末期の徳島大空襲の影響を強く受けたという点である

 

著者は「徳島大空襲」が森内俊雄と瀬戸内寂聴の「作家的肉体」とであることを看破しているが、それを可能にさせたのは、著者自身の徳島県立文学書道館館長に至る経歴抜きには考えられない。生粋の徳島県人として、徳島新聞入社後は長く文化部畑を歩んだ経験と、その間に多くの作家や作品によって培われた文学的視点が二人の作家を結びつけたことは想像に難くない。そして、文芸記者として森内、瀬戸内とそれぞれ親交を結び、作家として、人間として二人の言葉を直に聞くことができた点も見逃せない。いわば著者の「文芸批評者としての肉体」が本書を誕生させたとも言えるだろう。

 

ところで、徳島への米軍による空襲は1945年6月1日から7月24日まで7回に上っている。そのうちの「徳島大空襲」とは、7月4日未明からの空襲であり、死者約1000名、重軽傷者約2000名、被災者約7万人、徳島市の焼失面積約6割という甚大な被害を出した。当時の徳島市の人口が11万5000人ほどだったことから、この空襲がいかに激しかったかがわかる。

 

森内俊雄はこの空襲を8歳の時に直接体験している。しかもそれは、ほぼ4カ月前の3月13日夜から14日未明にかけて大阪大空襲で家が焼かれ、両親の故郷である徳島に疎開していたときで、二度にわたる死と隣り合わせの体験だった。

 

雨のように落ちてくる焼夷弾を避けながら火の中を走って逃げ続け、かろうじて生き延びた空襲体験は、30代半ばになっても母親に手を引かれて逃げている夢を見ると「眉山」に描かれているほど、森内の心深くにまで強烈な爪痕を残した。

 

著者は次のように記している。

 

二度の空襲体験によって、森内は幼くして人生への諦念と深い孤独を知ってしまったのである。中でも徳島大空襲の体験は、森内のその後の人生と文学に多大な影響を及ぼす「原体験」とも言うべきものとなった

 

徳島大空襲が登場する森内の小説は20編を下らないと著者は記していて、「第1章 救いの山・眉山」では、空襲の体験が作家・森内俊雄をいかに生み出したかが語られていく。そして「第2章 空襲が残した傷」は、空襲と徳島に絡んだ「眉山」を始めとする作品を紐解きながらの森内俊雄論と言えるだろう。ここでも空襲が森内の心に残した深い傷について語られる。

 

著者は、

 

火だるまの人間に追いかけられる夢、尋常でない飲酒癖、幼少期から続く情緒不安定の症状、暗闇に対する不安、趣味へのマニアックな耽溺……。これに「骨川に行く」(『骨川に行く』所収)にみられるようなニヒリズムも加えていいだろう。幼いころの空襲体験は、森内の心に生涯癒えることのない深い傷を残した

 

 と記している。

 

空襲で逃げる際に転んだ兄の胸を踏んだのは自分が助かりたい一心から兄の胸を踏んで逃げたと自分を責め、友人が相談に来たにもかかわらず、はぐらかすような応対をしたためにその友人を死なせてしまったという罪の意識を抱く森内は、上記の著者の指摘に行きつくしかなかったのかもしれない。

 

だが、著者はこうも記している。

 

「眉山」のラストシーンには〈眉山は救いの山〉であるという印象的な言葉が登場するが、森内の〈救い〉となったのは眉山ばかりではなかった。徳島という土地そのものが、「救いの地」となったのである

 

まるで錐で揉みこむように自分の心を責め続ける森内の精神のあり様を〈救う〉ものが徳島という土地そのものでもあったという著者の言葉には、徳島を愛する著者だからこそ持ちえた視点であり、徳島を愛する心を森内と共有している喜びも込められているようである。

 

一方、瀬戸内寂聴は徳島大空襲があった1945年7月4日は夫と娘と北京にいた。空襲によって甚大な被害が出たのを知ったのは日本の敗戦後、1946年8月、親子3人で徳島駅にたどり着いたときだった。そして、彼女に空襲の衝撃が走るのは、瀬戸内を迎えてくれるはずの、母親と母親の実父の死を知らされたときだった。戦争の酷たらしさは頭では理解できても、母親と祖父の位牌を見てもその死を実感として捉えられない自分がそこにはいた。北京にいた時の瀬戸内は一人の妻として、一女の母として日々を送っていたにすぎなかった。

 

自伝小説「いずこより」には、北京と地つづきの地で血腥い戦争が続けられていながら、彼女の日常は「ひたすら平和で、のどかで、家庭的に明け暮れていた」とあるように戦争とは無縁の中で暮らしていたのである。それだけに徳島駅に帰り着いたときの故郷の変わり果てた姿に衝撃を受ける。それを「眉山」との対比で「バラック建の駅のすぐ目の前に迫っている眉山の近さに、私たちは立ちすくんでしまった」「眉山は、手の届きそうな間近さで横たわっている。そのなだらかな山のやさしい形が、あまりに昔のままなので、町の無残な焼土が一きわ目につきささってくる」と描写している(以上、著者の引用箇所を借用)。

 

森内俊雄にとって、眉山が「救いの山」になったのは、火の海から逃げ込ませてくれたからだった。しかし、瀬戸内とって昔のままの眉山の存在は、大きな喪失感の中にあって、心を慰める救いの場となっていたのだろう。

 

それにしても母親と祖父は、なぜ防空壕の中で焼死したのか。自分の妻を見捨てたと亡くなるまで周囲の人々から非難され続けた父親の話からも推測の域を出ないまま、瀬戸内は母親はみずから死を選んだと考えるようになる。

 

「第1章 徳島大空襲と母の喪失」は、そのような母親の人となり、瀬戸内との関わり、彼女の母親観などがその作品を通して、著者によって語られていく。瀬戸内によって断片的に綴られた母親との関わりは、著者の巧みに紡がれた糸によって縫い合わされ、読み応えのある1編の伝記になっている。そして著者は次のように言う。

 

日本の敗戦、北京からの引き揚げ、徳島大空襲による母の喪失――。そうした一連の出来事が、瀬戸内の戦後の作家活動や反戦活動の原点となったことは微塵も疑う余地がない

 

なぜ著者はこのように断ずるのか。

 

「第2章 作家・瀬戸内晴美の誕生」がその理由に答えている。愛する母親に死をもたらした空襲のむごたらしさが、北京での4年間のみずからを見つめる目に変化を迫ることになったからである。一連の体験は単に被害者意識だけでなく、加害者意識を強く抱かせていったからにほかならない。

 

瀬戸内の中国や中国人に対する罪意識、そして贖罪感が作家・瀬戸内晴美の「作家的肉体」を補強する転回点となったことは、著者が「第3章 戦後の反戦活動」を本書に置いていることからも理解できるのである。

 

なお本書には最後に「森内さん、瀬戸内さんのこと」が置かれ、著者から見た二人の作家との個人的な親交を通した人間像が紹介されている。文章を通してではなく、直接、その声を聞き、その所作を目にしての印象記は、この二人の作家と面識のない者には、極めて興味深く、やがては貴重な記録、資料となるにちがいない。

 

森内俊雄と瀬戸内寂聴、二人の「徳島大空襲」はまったく異なる作品世界を生み出した。そして、著者は「戦争くらい理不尽で罪深いものはないと、あらためて痛感させられた。それは人の命を強大な力で奪い、人の一生を情け容赦なく狂わせてしまう」(「あとがき」)ことを、二人の作家を通して伝えきっている。

(やぐち・えいすけ)

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〈次回『未定』、2020.10月下旬予定〉

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