矢口英佑のナナメ読み #033〈『定点観測 新型コロナウイルスと私たちの社会 2020年前半』〉

No.33 『定点観測 新型コロナウイルスと私たちの社会 2020年前半』

矢口英佑〈2020.11.10

 

 中国の湖北省武漢から始まった新型の伝染病が現在の状況にまでなるなどと誰が予想しただろうか。強い感染力はまたたく間に世界中に襲いかかり、今だに決定打と言えるコロナウイルスに対抗できる有効なワクチンも、そのほかの優れた治療、防疫体制も見出せないままである。

 

 こうした伝染病の蔓延を防ぐために、古今東西、人類が取ってきた手段は感染した人間を隔離することであり、人間の移動を禁じ、群れることを禁じることだった。今回も例外ではない。だがこの戦い、コロナウイルスの正体をつかみ得ていない人間は、明らかに防戦一方であり、警戒感、不安感、恐怖感が様々な精神的ストレスを生み出してきている。

 

 しかし、これらのストレスが生じるのは、直接的にはコロナウイルスの蔓延だが、終息の見通しも立たない中で、多くの人間が何らかの経済活動を継続し、みずからの生活を維持しないわけにいかないことが大きな要因として絡んでいるからでもある。

 

 経済活動の維持と病原菌からの安全性の担保、この矛盾した二つの動きを同時に取ることの難しさは日本だけでなく世界中で苦しんでいることからもわかる。日本でも不特定多数の人間が集まり、経済、商業活動が活発で、人間の交流機会が多い東京、大阪など大都市圏とその周辺地域はその典型だが、感染者数の顕著な減少が見えないどころか、一気に増加してもおかしくない状況が続いている。

 

 いま、日本は感染者数が少ない地域に住む人びとからは、東京、大阪など大都市圏地域とそこで生活する人たちとの接触はコロナウイルスに感染する危険性が高まると捉えられていて、接触を忌避したい人びとと見られている。一方、この危険地帯に住む人びとが能天気でいられるはずはなく、コロナウイルス感染への不安感、警戒感を日常生活の上で緩めることの危険性を十二分に認識している。

 

 このように感染可能の危険性が高い地域とそうでない地域との二極化が現在の日本では起きている。だがいずれであろうと、今年3月頃から始まった私たちのコロナウイルスとの戦いは、終わりの見えない長期戦の真只中で、多くの人がコロナ以前の生活、そして、社会との関わり方の維持に困難をきたし、誰もがあえいでいることは間違いない。

 

 

 ところが、このようなコロナウイルスに襲われていながら、私たちを取り巻く社会の状況を私たちはどれだけ掴んでいるのかと言えば、情けないほどに狭い範囲にとどまり、得ている情報もそれほど多くない。テレビなどマスメディアから日々、流されてくる情報は薄く、浅く、そして消えていく。

 

 このような異常事態であるからこそ、今ある現在の社会の有り様や、その社会で生きている人びとの困難さや危うさを記録しておくことは非常に重要だろう。

 

 その意味では、本書が言う「忘却させない。風化させない。」は記録者としての心意気に溢れ、貴重な姿勢と言える。また本書には「定点観測」という文字も見える。

 

 コロナウイルスと日本の社会について、観察・観測を継続的に行い、時系列的に記録し、保存することを試みようとしているのである。記録者としての姿勢を取るとするなら当然かもしれない。ただし、一般的な意味での特定の場所や地点を決めて、そこを動かずに物事を観察・記録したりする定点観測とは異なる。

 

 本書には「医療」(斎藤 環)、「貧困」(雨宮処凛)、「ジェンダー」(上野千鶴子)、「労働」(今野晴貴)、「文学・論壇」(斎藤美奈子)、「ネット社会」(CDB)、「日本社会」(・宮台真司・森 達也)、「哲学」(仲正昌樹)、「教育」(前川喜平)、「アメリカ」(町山智浩)、「経済」(松尾 匡)、「東アジア」(丸川哲史)、「メディア」(望月衣塑子)、「ヘイト・差別」(安田浩一)、「難民」(安田菜津紀)という15の領域が「定点」として設定され、17人の論者(これも定点)によって第1回目の「観測」が実施され、記録されているのである。

 

 第1回目の観測と記録は2020年1月1日から5月31日の間が対象とされている。「忘却と風化を防ぐ」ために取られたこの手法は、先行きがまったく見通せない現状だけに、すでに貴重な史料としての価値を持ち始めていると言ってもいいだろう。

 

 

 たとえば、斎藤 環の「「医療」に何が起こったか」で取り上げられている、それは紛れもなく私たちが現在、直面しているコロナウイルスに関わる医療面からの出来事であるにもかかわらず、いかに記憶が曖昧となっていたり、間違った認識を持っていたりしているのかに気づかされ、愕然となる。

 

 また、雨宮処凛「コロナ禍の貧困の現場から見えてきたもの」、上野千鶴子「コロナ禍とジェンダー」、前川喜平「「全国一斉休校」という人災」、町山智浩「新型コロナ日記 イン アメリカ」、望月衣塑子「コロナ禍とメディア」は、いずれも日付が書き込まれ、その日に政府が何をしたのか、社会では何が起きたのか、そして筆者の行動や思いはどうであったのか、それぞれの領域に注目した〝コロナ禍日誌〟とでも呼ぶのがふさわしいだろう。

 

 記録(現象)として見るなら、コロナ感染拡大で不要不急の外出を控える人々の増加がネット人口の増加を促したというCDB「緊急事態の夜空に」の報告はなかなか興味深い。5月に起きた「#検察庁法改正案に抗議します」のハッシュタグが法案を廃案に追い込み、内閣支持率を暴落させた一因には、ネット人口の一時的な流入という「分母の増大」があったというのである。これは非日常状況が起こした予想外の事態だった。

 

 だが、非日常状況だからこそ日常状況では素通りしてしまいがちな状況を実感させられたことを上野千鶴子は指摘している。

 

 テレワークが推奨されてもそれができない職業もあり、生活必需品の小売業や物流業、ビルのメンテナンス、ゴミの収集などを例として挙げながら、上野は、

 

 この期間、物流が滞るとか、ゴミの回収がストップすることがなかったことは、記憶に留めておきたい。(中略)コロナ渦のもとの生活を戦時下に喩える人もいるが、供給が潤沢なこと、3・11のときのように物流が滞ったりしないこと、都市インフラが機能していたことは特筆すべきことだと思う。裏返しにいえば、コロナ渦は、ケア労働とならんで、都市インフラを支える「見えない労働」を「見える化」したともいえる

 

と記している。

 

 また、非日常の異常事態を前にしてあからさまになったのは、冷静、的確な判断と迅速な対応ができなかった安倍政権の迷走ぶりであった。

 

 武田砂鉄「アベノマスク論」、前川喜平「「全国一斉休校」という人災」などは多くの人びとに失笑と不安を与えた施策を突いたものであり、異常事態だからこそ露呈させたお粗末さであった。

 

 コロナウイルスの終息が見通せない現在、執筆者たちの「定点観測」には、いっそう大きな期待がかけられている。

 

 不安感と警戒心が同居する中での生活はこれまで見えなかった何かが新たに見えて来る可能性が執筆者たちにも大いにあるはずだからである。

 

 「定点観測」だからこそ、継続させることで、僅かな変化も見逃さず、様々な状況が記録されていくに違いない。

 

 「風化させない。忘却させない。」貴重な仕事は始まったばかりである。

 

(やぐち・えいすけ)

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〈次回『「地球市民」としての企業経営』、2020.12月上旬予定〉

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