矢口英佑のナナメ読み #029〈『パリ68年5月』〉

No.29 『パリ68年5月』

矢口英佑〈2020.7.15

 

 当初は大学の教育のあり方に不満を抱く学生たちの大学改革要求運動に過ぎなかったものが、やがて国家体制の管理、支配構造の解体を要求する運動へと発展し、1968年5月、一千万人もの学生、労働者、民衆による大ストライキがフランス全土を揺さぶることになった。

 

 本書は著者自身がこの運動の実体験者であり、その意味ではこの運動の熱気を肌身に吸収していたものだけが知り得る貴重な記録となっている。しかし、今から52年前の、しかもフランスのパリで起きた社会変革運動そのことが、たとえ細大漏らさず記録されていても、現在の日本で生活している我々には、やはり国外のことでしかなく、遠い。もっとも似たような運動は日本でも同時代的に起きていた。だが、日本のそれは大学内にとどまり、一般大衆への広がりを見せずに消えてしまっていた。

 

 本書はこの運動の渦中に身を置いた著者が運動からあまり時を置かずに記録された、ある意味では未消化のままに記録された生々しいレポートではない。しかし、だから本書に価値がないというつもりはまったくない。むしろその逆である。

 

 著者は本書の「はじめに」で次のように語っている。

 

歴史それ自体というものはない。歴史は、語られ記録されてはじめて歴史になる。形をなさない巨大な混沌のほんの一部が、ある視点でとらえられ、ある価値の体系を通して濾過されて、歴史が誕生する。つまり歴史は、それを語り記録するものと切り離せないし、それを語り記録するものの創造物である

 

 歴史とはいかなるものかを語る的確さが見て取れるだろう。さらに、著者の視点と価値体系を通して濾過され、記録された〝著者の創造物〟という著者自身による本書の位置づけからは、驚くほどの冷静な記録者の姿勢が窺える。

 

 それだけに、本書には学生、労働者、民衆によって展開された管理、支配体制への抵抗運動の沸き立つような熱気が先走るような記述は希薄である。それに代わってあるのは、著者の重厚な思索と歴史観による、揺るぎのない知見と言える。そして、集団で生きることから逃れられない人間には、どのような社会、組織が望ましいのか、そのために人間はどう対処し、いかに行動すべきかを問いかけているのである。

 

 だからこそ、著者は次のような言葉を記すのである。

 

この本は(中略)過ぎ去った日々の回顧にふけるためのものでは決してない。歴史的な事件には、直接それが体験された当時にはまだ自覚されてはいない意味、潜在的な意味が常に含まれている。その意味は、以後の社会の歩みにつれて、次第に純化され、明確化され、顕在化されてゆく。あるいは、明確化され、顕在化されるのを待っている。本書は、その明確化、顕在化の試みである

 

 歴史というものが、過ぎ去った日々の回顧にとどまる限り、歴史としての普遍的な価値を生じさせるのは難しい。「明確化され、顕在化され」現在に重ね合わせることができる、生きた歴史になってこそ意味を持つ。その意味では、本書の最初の刊行が1998年6月であったことは、驚きに値する。著者が実体験した運動を「明確化、顕在化」させるのに30年間という時間が必要だったのである。この間に世界が、日本がさまざまな状況下で変動を繰り返し、また著者自身の経験も積み重ねられてきたことは言うまでもない。

 

 そして確実なことは、1968年、フランスパリ大学ナンテール分校で組織された小さな学生組織と3月22日運動の形成が発端となった社会のあらゆる領域での組織化、総管理化への抵抗、自律的人間として生きることへの要求運動等と、その後に生じたフランスの状況が日本の1998年前後と重なっている、という著者の認識にほかならない。

 

 本書が刊行された当時、日本では1990年代にバブルが崩壊し、その後遺症で金融機関が破たんし、不良債権の処理、金融機関の貸し渋りが起きていた。中小企業では資金不足が生じ、従業員への給料未払いや生産中止、新卒者の就職難やリストラによる失業が増加していた。また1997年4月には消費税が5%に引き上げられ、個人消費が落ち込み、平成不況時代に突入し始めていた。

 

 このような時代にあって、著者は次のような認識に立っていた。

 

資本主義体制はもはや終末期に入った。その崩壊過程はすでに始まっている、という認識であり、この認識は、長い暗黒時代への突入を避けるためには、代わるべき新しい別の社会はどんなものが望ましいのか、そこへの転換はどう進められたら良いのか、という問いかけをともない(中略)、68年5月の運動、特にそれにある基本的性格を与えた、3月22日運動が体現し目指したものは、豊かな参考事例、学ぶべき先例を残している

 

 これこそが著者が1968年5月運動から学び取った歴史認識であり、30年後の1998年の日本にあって、何をなすべきかを訴えるに至るのである。

 

 では、3月22日運動が目指したものとは何であったのか。

 

 それは資本主義社会での生産の増大は、資本、生産設備、原材料、労働力の拡大が必要であり、経済的な繁栄のためには組織の管理機構の拡大だけでなく社会全体での管理の拡大とその管理化の枠内への人間の統合が結びつく。その結果、管理する者と管理される者が存在することになり、管理する者は物事を決定し、実行させる立場に立ち、一定の特権すら持つことになる。

 

 パリ大学ナンテール分校の学生たちの大学改革運動とは、この図式への疑義から出発していた。すなわち教える者と教えられる者の間に立ちはだかる管理体制への反抗だった。個人がそれぞれに持っているはずの当事者としての決定権が組織によって奪われ、主体的な意志決定の余地が失われる現実を忌避し、自律的な個人への復帰要求がその基点だったのである。

 

 いま私が手にしている本書は1998年6月に論創社から刊行されたものではない。それからさらに22年が経過した2020年5月に「解説に代えて」「江口幹の著作と訳業」を加えた新装版である。

 

 1998年に著者が問いかけていた問題点は22年後の現在、何らかの希望ある変貌を遂げているのであろうか。その答えは「否」である。その意味では、新装版として再度、本書が刊行され、新たに世に問いかける意義は大きい。

 

 著者は本書の「第五章 いま、なぜ、六八年五月を語るのか」で、次のようないくつかの言葉を遺言のように残しており(著者は2019年1月に他界)、それらが「否」の理由を教えてくれているからである。

 

今日の資本主義の発展は、自然環境のみならず、自由、平等、であるとともに友愛に満ちた社会形成の根となるものを、まさに根こそぎ、破壊しつくしかけている

 

われわれ自身で、どんな生き方が望ましいのか、どんな社会であることが望ましいのか、決定していかないとすれば、途方も無い奈落に落ちてゆくことが眼に見えている

 

自由競争の意義を説く人びとは、本当に無限の成長を信じているのだろうか。十五年もすれば現実のものになる石油をはじめ天然資源の枯渇をどう考えるのか。今でも処理し切れない廃棄物をどうするつもりなのか。人間は、無限に消費を拡大できる動物なのか。消費を無理矢理に増大させてゆく経済のあり方、便利なものの洪水こそ、人とうまくつき合うことや、自分の感情を抑制することができない、大勢の人びと、若者や子供を生み出しているのではないか

 

 大量生産、大量消費時代にどっぷり浸かり、テレビやその他のメディアから途切れることなく流される広告・宣伝に強い関心を抱き、他者とのつながりに消極的となり、政治離れはさらに浸透し、生きている現在への批判精神は薄れ、生活そのものが商品化している、それがわれわれを取り囲む、2020年の日本の現実にほかならない。

 

 22年前の著者の危機感は深まりこそすれ、「私自身のこと」として現実社会と向き合おうとする自覚は今の日本人からはますます薄れてしまっている。

 

 著者は最後に、

 

人間の価値は金儲けの勝者になることしかない、といった哀れな信条に加担することなく、もっと意味ある生き方を

 

と言い残している。

(やぐち・えいすけ)

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〈次回『「核廃絶」をどう実現するか』、2020.8月下旬予定〉

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