オイル・オン・タウンスケープ 第七号(後半)

濹東のオルタナティヴ───大川水景 第七号(後半)

中島晴矢

 

《大川水景》2021|カンヴァスに油彩|1, 000 × 652 mm

 

そんな私が、今度は自分自身でスペースを立ち上げる運びとなる。それが、墨田区吾妻橋にオープンした「喫茶野ざらし」だ。ディレクターを務めたのは、インディペンデント・キュレーターの青木彬と、建築家の佐藤研吾、そして私の三名である。

 

 二十歳頃に美術界隈で知り合って以来の友人である彬は、墨田にしっかりと根を張るキュレーターの一人だ。先述した「spiid」を主催し、一時はそこに住んでもいたし、このエリアを拠点とした「ファンタジア!ファンタジア!」というアートプロジェクトも実施している。また、研吾は石山修武の弟子筋にあたる、甚だ風変わりな建築家だ。東日本大震災をきっかけに、福島県の大玉村という農村に移住。コロナ前は東京、福島、インド間を飛び回る、多拠点生活の実践者だった。もともと、彼とは麻布学園の同級生だった縁もあり、そうした旧友の二人とプロジェクトを協働できることは、単純に嬉しかった。

 

 基本的な役割分担としては、彬がディレクションを担い、研吾が内装を設計し、私が現場に立つというものだ。だが、三者三様の関心が重なる領域を拡張し、アイデアを横断させていくことで、各セクションは相互に浸透していった。あるオーナーの支援のもと、そうやって出来上がったのが「喫茶野ざらし」である。

 

 ただし、このスペースこそ徒花だった。上記の三人は、もう一切店舗に関わっていないからだ。実質的に携わったのは、開店まで準備をした一年と、オープン後にそれを形にした半年の、僅か一年半程度。それでも、コンセプトや内装を仕上げ、展示やトークも行ったし、なにせ私は半年間、カウンターに立ってコーヒーを淹れたのだった。

 

 そもそも、私たちは「喫茶野ざらし」を一種のアーティスト・ラン・スペースとして構想した。展覧会やイベントを開催しつつ、一般的な飲食店としても開放している場所を目指したのである。

 

 参照したプロジェクトは、ゴードン・マッタ=クラークの「FOOD」だ。1971年、ニューヨークのマンハッタンでアーティストが開いたレストラン。作家たちが溜まったり、パフォーマンスを披露したりするオルタナティヴ・スペースであり、アーティストがスタッフとして働き収入を得る職場としても機能した。私たちもまた、そんな経済的に自立したスペースをつくりたかったのだ。

 

 とりわけ意識したのは、農業や福祉など、アートの枠組みの外部を導入すること。たとえば、大玉村直送の野菜市や、デイケアに通う人々の集いを実施した。なおかつ、喫茶店としては常に地域に開かれている。それはコミュニティアートとか、ソーシャリー・エンゲイジド・アートと言われるものに近かったはずだ。そうしてディレクター各自の資質を活かし、いろんなジャンルがミックスされた、文化交流拠点の創出を試みたのである。

 

 ちなみに、「喫茶野ざらし」というネーミングにはいくつかのレイヤーが畳み込まれている。まず、現行の都市空間への違和感が、ディレクターに共通の問題意識としてあった。それまでも、各々が都市に対してアプローチしてきたが、三人で対話を重ねる中で、「空き地」乃至「荒れ地」というキーワードが浮上する。そういう〈都市の余白〉を、私たちは「野」と捉えた。さらに、これから耕される場という意味も込めて、「野ざらし」という、およそ飲食店には冠し難い名をつけたのだ。

 

 それから、落語の演目「野ざらし」から文言を借用してもいる。美女の幽霊と出会うべく、向島で頭蓋骨を釣ろうとする下らない艶噺。この物語が生起する地は、まさしく隅田川の川岸である。過ぎし日の隅田川の河原は、シャレコウベが転がっているような環境だったわけだ。風雨にさらされた人間の頭骨も含意する「野ざらし」という言葉は、「荒れ地」=「野」のイメージとも結びつく。あるいは、誤解を恐れずに言えば、かつて芸能者を河原乞食と称したように、河原は芸能や芸術の故郷でもあった。

 

 ところで、大川とも呼ばれるこの河川は、喫茶店とものっぴきならない関係を持っている。というのも、日本で初めてカフェ文化が勃興したのは隅田川沿いにおいてだからだ。

 

 文明開化の後、コーヒーを出す喫茶店は何店か開業していたが、明治末、新たに出現したのが「カフェー」である。1908年、北原白秋ら文学者と美術家たちは、「日本にはカフェー情緒がないから、それを興そう」と、ギリシャ神話の放埒な牧神の名にちなんで「パンの会」を結成。耽美派の芸術運動の拠点として、パリのカフェの雰囲気を求め、セーヌ川ならぬ隅田川沿いに店を探した。そうした芸術家たちの活動から、銀座の「カフェー・プランタン」や「カフェー・パウリスタ」が生まれていく。

 

 これらを踏まえて立ち上げた「喫茶野ざらし」は、内装の大掛かりなリノベーションも間に合わせ、2020年1月にいよいよ店開きした。

 

 物件は、小さな二階建ての家屋である。倉庫として使われていたというその古びた木造建築を、研吾が全面的に改装した。床と天井をぶち抜いて、外壁を大きく穿つ。無造作に鋳造された取っ手を握り、そこに嵌め込まれたガラスの大扉を開けば、むき出しの土間から小上がりにかけて客席が広がっている。大玉村の籾殻が塗り固められた漆喰の壁に、木製のカウンター、独特の形状をした椅子やテーブル、藍染のランプシェード、自在に絡まる鉄骨。それら全てが彼の制作物で、全体に統一された有機的な空間を形作っていた。二階に関しては、シェアスタジオとして改装中に私たちの手を離れることになるのだが、いずれにしろ、私はその場所に店員として通ったのである。

 

「喫茶野ざらし」への道のりは、都営浅草線の本所吾妻橋駅からすぐだったが、浅草駅からでも充分に近い。電車の場合、私はいつも銀座線の浅草駅から向かった。地下街の立ち食い蕎麦屋向かいの階段を登り、電気ブラン発祥の店である「神谷バー」を睨む。そして雷門とは逆方向へ、花川戸交番の脇を抜けて、隅田川にかかる吾妻橋を渡るのだ。

 

 向こう岸には、アサヒビールの本社であるジョッキを象ったビルと、金の炎のオブジェが峙っている。ほどなく吾妻橋を渡り終え、隅田公園がリニューアルされた「東京ミズマチ」を越えて、墨田区役所を過ぎた路地の奥にあるのが「喫茶野ざらし」だ。通りの先には、巨大なスカイツリーの全貌がありありと眺められた。

 

 でも、すぐに私は電車ではなく、自転車で通うようになる。それは、『濹東綺譚』冒頭の散歩道にざっと重なる道程だった。

 

 はじめに、町屋から都電に沿って三ノ輪に出る。映画『万引き家族』のロケ地にもなったこの街は、下町らしい下町だ。縦横に路地が走っていて、ジョイフル三ノ輪という、惣菜が破格に安い商店街がある。駅近く、「投げ込み寺」として知られる浄閑寺には、まさしく荷風の詩碑があった。吉原の遊女たちが供養されたこの寺で、毎年荷風忌は開かれているらしい。

 

 荒川の治水のため、江戸幕府が造成したという日本堤をそのまま進む。その通りに面して「space dike」があったが、現在は移転中。やがて『あしたのジョー』のモニュメントが見えてくると、左手の一帯は南千住の泪橋も近い、いわゆる山谷のドヤ街である。周囲の建物はどれも簡易宿泊所で、朝その辺りを通ると、日雇いのおっちゃんたちが集まっていることも間々あった。なお、山谷には「カフェ・バッハ」というハンドドリップ・コーヒーの老舗がある。

 

 土手通りを挟んだ反対側が、「不夜城」と呼びならわされた吉原だ。より正確に言えば、明暦の大火によって、日本橋から浅草寺の裏手、つまり江戸の中心から周縁へと移された新吉原である。街を囲う塀やお歯黒溝はもうないが、大門や見返り柳といった名所が残され、湾曲した入口の先には今も歓楽街が栄えている。すぐ隣の竜泉は、樋口一葉の『たけくらべ』の舞台。当時、一葉は家族で龍泉寺町の二軒長屋に住んで、荒物雑貨・駄菓子店を営んでいたそうだ。近所には、立派な一葉記念館も拵えられている。

 

 一度目の緊急事態宣言を受けて、吉原の町並みは真っ暗になった。田んぼの混じる鄙びた郊外だった頃のような、深い闇に包まれた吉原。その中を、右足を切断して義足になり、自転車に乗れるようになった彬と、「喫茶野ざらし」からの帰り道、一緒に走り抜けたことをよく覚えている。

 

 そのまま行けば浅草の端に出るが、時間に余裕のある時は千束通りで折れる。花やしきから六区、浅草寺と仲見世をぐるっとさらうこともあった。でも大抵は直行で、旧日光街道を曲がってから言問橋を渡る。スペースを始めてから、浅草の古い人たちは墨田を「川向こう」と呼ぶと知った。逆に墨田の人たちは、浅草と一括りにされることを毛嫌いする。その中間に大きく横たわる隅田川は、やはり象徴的な境界なのだ。

 

 カミソリ堤防で左右を固められたその境界線を跨げば、すぐ右手が牛島神社だが、ちょっと左手に入ると佐多稲子旧居跡の碑がある。プロレタリア文学者だった稲子は、子供の時分からこの地に長く暮らした。それら街の記憶が描かれた『私の東京地図』には、私自身、少なからぬ影響を受けている。と、そんな風に若干の寄り道をしても、北十間川に架かる源森橋を渡れば、「喫茶野ざらし」は目前だった。

 

 カフェのなんちゃってマスターをやるのは楽しかった。正直なところ素人同然であったが、豆の仕入れ先でもある「muu muu coffee」のアユムさんから、ハンドドリップのやり方は一通り教わった。ミルで豆を砕き、ドリッパーにペーパーフィルターをセットして、口の細長いケトルからぐるぐるとお湯を注ぐ。すると、豆がガスを放出しながらモコモコと膨らんだ。そうやって抽出したコーヒーを、温めておいたカップに移し、お客さんに差し出す。これら一連の動作を、私はある種のパフォーマンスだと考えながら行なっていた。

 

 徐々にドリンクのメニューを揃えて、トークイベントや展示を開催する。お客さんも、仲間や関係者に加えて、徐々に地域の人たちが増えていった。そのまま回ってくれればよかったものの、そう上手くはいかないものだ。何より、喫茶店としてオープンした直後から、世の中はコロナ禍に呑まれることになる。パンデミックと並走しながら、オルタナティヴ・スペースとして、また飲食店として、絶えず変化する情勢に振り回され、右往左往する毎日。それでも、イベントをオンライン化したり、テイクアウトに対応したりと試行錯誤を続けた。

 

 その矢先、ここでは仔細に書かないが、ある決定的な出来事が起こる。それを引き金にして、件のオーナーとこれ以上共同でプロジェクトを継続するのは不可能だと判断し、ディレクター三名は店舗の運営を離れることになった。店自体はまだあるが、私たちはチーム「野ざらし」として外部での展覧会やワークショップに参加しながら、継続して活動を展開している。

 

 その後、私たちはそれぞれの土地に散らばった。研吾はいよいよ大玉村を拠点にして、自ら改装した古民家に一家で住み、その一角では、コーヒースタンドが併設された小さな古書店を開いたようだ。彬は東向島に事務所を構えながらも、横須賀の田浦という小高い山の上に移住して、アーティストのパートナーと生活を営んでいる。私はと言えば、相変わらず東京の下町に居残ったままだ。

 

 オリンピックに端を発する再開発と、駄目押しのコロナ・パンデミックによって、ここ数年、東京という都市の磁場が急速に色褪せていったのは疑い得ない。そうした都市空間の不可逆的な衰耗は、この連載にもリアルタイムで刻み込まれているはずだ。もしかすると東京は、遂に〈バビロン〉として完成されつつあるのかもしれない。少なくとも、都市のあり方を根底から見直す必要があるのは間違いなかった。

 

 

 東向島の「迷宮」をどうにか抜け出して、鐘ヶ淵の駅前に出る。

 

 再び東武鉄道に乗り込み、曳舟駅、とうきょうスカイツリー駅と過ぎると、隅田川に架かる橋梁へ差し掛かった。列車はジェットコースターの最後みたいにガタガタと音を立てながら、松屋百貨店直結のモダンな駅舎にゆっくりと吸い込まれていく。

 

「東京オリンピック・パラリンピック2020」は、2021年の夏、あっさりと閉幕した。2013年に招致が決定してから絶えず繰り広げられてきたあの狂騒も、終わってみればまるで夢だったかのようだ。

 

 コロナ禍による緊急事態宣言発令中、無観客とはいえ、直前まで甚大なスキャンダルを撒き散らしながら、新国立競技場にて開会式は敢行された。国民に自粛を要請しつつ、他方で祝祭を強行するその明らかな二枚舌に、私は虚しくなり、次いで何だか全てがどうでもよくなった。その感覚に襲われたのは、おそらく私だけではないはずだ。実際、オリンピック開催直後から、市街の人出は爆発的に増えた。たしかに、今のところ感染者数は抑えられているが、リバウンドと言われるような事態がいつまた訪れないとも限らない。そんな空気が、もう既に2年近く続いている。

 

 気づけば東京は、ほとんど焼け野原になっていた。まるで戦災を経たかのように、商店や人が消えた街で、これから深刻なツケを支払っていくことになる。今やこの街は、それこそ野ざらしだった。今後はオルタナティヴ・スペースの様相も、かなりの部分変わっていかざるを得ないだろう。政治、経済、そして他ならぬ文化によって、私たちはみんな分断されてしまったのだから。

 

───浅草駅で下車し、さっき通った東武線の鉄橋へ引き返す。昨年、橋の横に付随する形で新設された「すみだリバーウォーク」を渡るために。その木製の遊歩道から川面は随分間近にあって、ちらちらと夕陽を反射している。橋の中程まで歩を進め、吾妻橋の方角をぼんやり眺めると、隅田川はただ悠然とそこにあった。大川はずっと変わらずに、ここ東京の変遷を見つめてきたのだ。……

 

 東京の特に下町は、これまで数多の災害に見舞われてきた。夥しい大火や洪水、関東大震災に東京大空襲。そうやって野ざらしになる度に復興を果たし、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返してきたのがこの街だ。だとすれば東京は、目下の壊滅的な状況の中から、またぞろ頭を擡げることができるのだろうか?

 

 眼前の屋形船一つ浮かばぬ隅田川。その河原にかつて転がっていたシャレコウベを想う。後方を仰ぐと、まだ樹齢の短い電波塔が青白く発光を始めていた。

 

(なかじま・はるや)

 

 

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