オイル・オン・タウンスケープ 第八号(前半)

千歳烏山の芸術家───アトリエクロー 第八号(前半)

中島晴矢

《アトリエクロー》2022|カンヴァスに油彩|625 × 510 mm

 

 ご──────────ん…………と、太い低音が鳴って長々と残響する。ドラムセットのように配置された大小様々な銅鉢や鈴。その鳴物を、中央に座した僧侶が棍棒みたいな撥で次々に打つ。すぐに一定のテンポを刻む木魚の上で読経が始まった。何と言っているのか分からないが、リズムに絡むその声色と抑揚だけで、私はいつも何事かを納得させられてしまう。

 

 参列者が順々に焼香を済ませていく。すぐに私の番が来たようだったので、流れに身を任せて席を立った。焼香台の前で一礼。抹香を右手で摘み、額の前にかざしてから香炉にくべる。その所作の手順を必ず忘れるから、その日も前の人の見よう見まねだ。数珠を挟んだ手を合わせて頭を下げると、その先の祭壇には一枚の遺影が置かれていた。写真いっぱいで破顔する老人の相貌に、見覚えはない。

 

 私は会ったことがない人の三回忌に参列していた。

 

 三回忌どころか、お通夜にも、むろん葬儀にも参じていない。だから私とその人とは、いわば初対面のようなものだ。その初めて顔を合わせる人に、私はどうにか思いを馳せているのだった。

 

 時折、本堂の外からは列車の通過音が聞こえてくる。やがてお坊さんの故人を偲ぶ言葉で法要は終わった。そのまま参列者たちは墓所へ移動する。墓地のすぐ裏は京王線の芦花公園駅で、ここは長泉寺という寺院の境内。その一角、列の最後尾について自分の番を待ってから、ようやく対面した墓石に柄杓で水をかけ、改めて手を合わせる。

 

 墓石の正面には「杉田家之墓」と彫られていた。

 

 杉田は私の父方の祖母の旧姓だった。約二年前に亡くなった、つきみ野に住んでいたおばあちゃんの名が杉田昌代。そのおばあちゃんの弟だという人が、杉田五郎である。そう、この会の当人はこの人、杉田五郎さんだった。私にとってみれば、“大叔父”に該当することになる。

 

 その人は、千歳烏山で長年に渡り画塾を営んでいた。

 

 何より、杉田五郎はその生涯を通して、一人の画家であり、一人の芸術家だったのだ。

 

 

 つきみ野のおばあちゃんが亡くなったのは、杉田五郎さんの四十九日の日だったらしい。おばあちゃんの葬儀を執り行ったのが、2020年の1月だから、五郎さんはその少しだけ前にこの世を去っていたことになる。享年87歳だった。

 

 つきみ野の祖父母宅へ遊びに行った時に、「千歳烏山で絵画教室を開いている画家の五郎さん」として、その人の名前はたまに耳にしていたし、父が学生時代、その教室へ通っていたことも何となく知っていた。それでも、両家の親戚付き合いは途絶えていたので、私は五郎さんに会ったこともなければ、彼の作品を見たこともなかった。だから自然と、五郎さんのことも絵画教室のことも、全く頭から抜け落ちていたのだ。

 

 そんな記憶がよみがえったのは、三十歳を越えた頃、ふと油絵を描いてみようと思い立ってからだ。初めて油絵を描くと決めてすぐ、つきみ野のおばあちゃんが亡くなった。それを機に、おばあちゃんが趣味でたくさんの油絵を描いていたこともあって、自身と油画のごく個人的なつながりについて考えるようになる。そうした中で、やっと杉田五郎という人の存在が思い出されてきたのである。

 

「そういえば親戚に一人、画家がいるらしかったな……」

 

 それから私は、五郎さんのことを頭の片隅に油彩画を描いていった。さらに、それはいつからか、五郎さんに会いに行ってみたいという思いに変化していた。会ってどうなるか、そもそも会ってくれるのかなど、皆目見当はつかなかったが、せっかく親族に画家がいるからには、直接お目にかかりたかったし、できれば作品も見てみたかったのだ。しかし何事につけ横着な私は、そのうち連絡を取ればいいと高を括っていた。親戚だもの、何とかなるだろう、と。

 

 そして、いよいよ2、3ヶ月前、おぼろげな記憶を頼りにネット検索をかけ、京王線・千歳烏山駅すぐ側の絵画教室の名前が「アトリエクロー」であることを再確認する。と、同時に、予想だにしなかった情報が飛び込んできた。それは東京展美術協会という美術団体のサイト上に掲載された、上野の東京都美術館の一室で開かれていたという、杉田五郎「顕彰故展」の記録だ。「故展」なのだから、作家が亡くなっていることは自明である。加えてその展覧会は、新型コロナウィルスの影響で開催が遅れ、つい先日、ようやく実現に至ったということだった。

 

 要するに、杉田五郎さんはとうに他界していたのだ。その事実を、逝去から2年余り経ったタイミングで、私は初めて知ったのだった。しかも、直近で大規模な顕彰故展まで催されていたにもかかわらず、完全に見逃している。私は自身の不精を恨みながら、いろんな意味で後手であることを自覚しつつも、重い腰を上げてコンタクトを取ることにした。ホームページによれば、まだアトリエクローは子供クラスのみ開講しているらしい。そこで、杉田五郎というアーティストについてお話を聞かせてもらえないか、という趣旨のメールを送った。親戚だと名乗ったが、いきなりのことで相当怪しかったはずである。

 

 すると、すぐに返事があった。送り主は、五郎さんの妻だという千鶴子さん。88歳で、難聴の気があるとのことだったが、その文面は甚だ明晰だった。遠い親戚からの突然の連絡に千鶴子さんは驚いていたが、彼女にとって私は、かつてアトリエクローに通っていた「信ちゃん」の息子として受け入れられたようだ。

 

 メールでのやりとりによると、アトリエクローは教場であり、生前の五郎さんのアトリエであり、また彼ら夫婦の住居でもあった。そこにまだ千鶴子さんは一人で住んでおり、近所にいる息子の顕久さん一家が面倒を見ている。顕久さんは私の父の従兄弟で、中学生の時には、クローに通っていた父に家庭教師をしてもらっていたとのことだった。そして、やはり顕彰故展は終わったばかりであり、なんなら新宿のギャラリー絵夢で追悼展覧会も開かれたばかりだったことを聞く。絵画教室に関しては、油絵科はもう閉じてしまったが、子供クラスを千鶴子さんが引き継いで、週2日だけ開いているそうだ。

 

 そうした話の流れで、長泉寺という菩提寺において、もうすぐ五郎さんの三回忌があることを千鶴子さんに教えてもらう。結局、五郎さんに会うことは叶わなかった上、幾度かの作品鑑賞の機会すら逸していた私は、間接的とはいえ、杉田五郎との貴重な接点だと感じ、またアトリエクローの往年の生徒たちも参加するらしかったから、三回忌へ出席させてもらうことを決めた。

 

 こんな経緯で、私は杉田家の墓石に手を合わせていたのである。

 

 

 墓地から戻り、寺の一間にて30名ほどの所帯で昼食をとる。食事の前に私は千鶴子さんから皆へ紹介された。そのまま隅の席で元生徒さんたちの話を伺いながらお昼をいただく。聞くところによると、先のお坊さんも子供の頃にクローへ通っていた時期があるそうだ。

 

 部屋の前方に据えられた五郎さんの遺影と位牌には、皆と同じ御膳が供えられている。遺影の中の五郎さんは、何度見てもエネルギーが漲っていた。おそらく自作だろう、赤とオレンジと黄色、ピンクなどが複雑に混じった抽象画を背に、絵具で汚れた作業着にTシャツ姿、手袋を嵌めた両の手を、満面の笑みがこぼれる頬の横で大きく開いている。私はそれをすごく良いポートレートだと思って見ていた。

 

 昼食を済ませると三回忌は終わったようだ。ただ、これからアトリエクローでちょっとした会を開く段取りになっているとのことだから、皆とクローへ連れ立つ運びになる。芦花公園から千歳烏山までは歩いてすぐらしい。思えば、私は世田谷のこのエリアにあまり縁がなかった。たしかに母方の祖父母の家が府中にあるから、「府中のおじいちゃんおばあちゃん家」へ電車で行き来する際にはこの辺りを通過していたはずだ。しかし、それはやはり通過点に過ぎないのであって、京王線沿線に並ぶ世田谷の街々にほとんど馴染みがないことに違いはなかった。

 

 世田谷文学館もあって、現に徳冨蘆花の旧宅があるという芦花公園駅から、閑静な住宅街を進んでいく。すると10分もしないうちに、千歳烏山駅に到着した。駅前にはなかなか通行できない「開かずの踏切」がある。その手前、商店街から脇に伸びた路地に佇むのが目的地だ。三階建ての立派な建物で、パレットを模した看板には「アトリエクロー」と赤い文字で書かれている。正面の一画にはガラス張りの小さなギャラリースペースもあった。ここには以前に一度、千鶴子さんへご挨拶するため訪れている。

 

 一階の教場はかなり広々としていて、イーゼルや椅子、筆洗い、石膏像などがたくさん仕舞われていた。二階には杉田五郎のアトリエがあり、そこも見学させてもらったのだが、500号近いサイズのカンヴァス作品がいくつも収蔵されている。あるいは、額装されたドローイングや小さな裸婦のクロッキーなども、所狭しと積み上げられていた。このアトリエでずっと制作していたのか、と私は一人感慨に浸る。作家のアトリエは、それが誰のものであれ、思索と試作に向き合う空間特有の静謐な空気が漂っているものだ。

 

 同席してくれた顕久さん曰く、アトリエクローは初めからこの場所にある。そもそも、千歳烏山や千歳船橋、成城まで含め、かつてこの地一帯は千歳村と呼ばれていた。その千歳村の村長が、顕久さんのひいお爺さん、即ち五郎さんのおじいさんだったそうである。だから杉田家は代々この辺りに暮らしてきた。京王線が敷かれたり、一種の高級住宅街として発展したりするのはだいぶ後のことだ。もちろん五郎さんもこの家に生まれ育った。ということは、私のおばあちゃんの生家でもある。そう考えると、私のルーツの一部もまた千歳にあることを得心するのだった。

 

 一階の教場に参加者が揃ってから、色々な菓子類や果物が並ぶテーブルを囲んで、献杯が交わされた。にわかに座は活気づく。皆一様に喪服に身を包みマスクをつけている。私も真っ黒なスーツを着ていたが、それはネットのレンタルサイトで揃えた一式だった。ネクタイや革靴まで借りたのである。前夜に白のワイシャツすら持ち合わせていないことに気づいた私は、急遽セブンイレブンでサイズの合わないシャツを買ったくらいなのだ。

 

 場違いであることを感じながらも、私はその会に加えてもらい、生徒さんたちに話を聞いて回った。多くの人は何年も教室に在籍しており、なかには二十年近く通っていたという人もいる。そのほとんどが作品の制作を継続しているようで、先日個展を開いたというエピソードを聞いたり、出品している展示のDMをもらったりした。また、自分が卒業してから息子や娘を通わせている人もいるので、そこには子供たちの姿も散見される。皆この場所自体が懐かしそうだし、コロナ禍を経たこともあろう、久しぶりに仲間で一堂に会したことが何より嬉しそうだ。見ての通り、アトリエクローには芸術を通して紐づいたぶ厚いコミュニティがある。そしてその中心にいるのは、やはり五郎さんだった。

 

 元生徒の人たちの話によれば、五郎さんは気さくで楽しい人であると共に、厳しい先生でもあったようだ。こだわりが強く、自分が納得のいかない絵は頑なに認めなかったし、時に激しく叱責もした。そうした方針とそりが合わず、五郎さんとぶつかって去っていく人もいたという。それでも、とにかく授業には心血を注いでおり、講評が深夜まで及ぶことも少なくない。語り出すと止まらず、教室説明会でも毎回2時間近く喋っていたそうだ。想像するに、五郎さんはピュアで情熱的なタイプの作家であり、それゆえ言ってみれば、非常に芸術家らしい芸術家だったのではなかろうか。

 

 一座に酔いが回り場は温まってきた。そんな折に一人が持参のケーキを差し出す。ホールの前面には、五郎さんそっくりの似顔絵がチョコレートで描かれていた。その人が自分で描いたそうだ、さすが絵画教室の会合である。五郎ケーキの登場に皆は大いに盛り上がり、やんや言われながら千鶴子さんが切り分けて、その一片は遺影の前に供えられたのだった。

(なかじま・はるや)

 

 

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