- 2022-4-1
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千歳烏山の芸術家───アトリエクロー 第八号(後半)
中島晴矢
《アトリエクロー》2022|カンヴァスに油彩|625 × 510 mm
それでは、杉田五郎とは一体どのような芸術家だったのだろうか。
1932年生まれの五郎は、戦中に少年期を送った昭和一桁世代だ。後に電電公社、つまり現在のNTTに就職して技術者として勤めた。その時期に千鶴子さんと出会って結婚し、3人の子供をもうけている。そして39歳の時、「おれは30代で絵描きになる」と宣言して会社を辞めた。今よりもずっと退職や転職がめずらしかった終身雇用の時代に、その決断が周囲の目から無謀に映ったことは想像に難くない。一番下の娘が生後8ヶ月だったというから、破天荒とすら言っていいだろう。
もちろん、会社員時代から絵は描いており、いくつかの公募展で入選もしていた。美術大学を出たわけではなかった五郎は、「芸術は教わるものではない」「自分で掴み取っていくものだ」と、独学で制作を続けることに確固たる信念を抱いていたという。また、絵画教室アトリエクローは、退職以前から立ち上げられていた。当初の教場では絵画教室と共に、青山学院大学を出た千鶴子さんによって、子供のための英語教室も開かれていたらしい。千鶴子さんは「もし絵がダメでも、私が英語でなんとかするわよ」と言ってくれていたそうだから、そうしたサポートがあってこそ独立に踏み切れたはずだ。結果的に、絵画教室はすこぶる繁盛した。最盛期には300名近い生徒が在籍し、入会まで数ヶ月待ちなどということもザラ。信州には合宿用の山荘を建て、夏休みの間、生徒を2、30人ずつに分けて何往復もして連れていった。そうした教室の経営に奔走しながら、自分自身の絵画を突き詰めてきたのである。
その作品の主題は、1970年代から一貫して「鶴」だった。絶滅危惧種に指定され、日本では北海道のみに生息するという野生鶴の“丹頂”が、杉田五郎の芸術の原点であり、生涯のモチーフだったのだ。実際、多彩に描かれた作品は全て同じタイトルを冠せられている。そのタイトルこそが、《つるの通るみち(MAN and CRANE)》だ。丹頂の美しさに魅せられた彼は、30年以上にわたって、毎年厳寒の北海道・道東地方に足を運んだという。冬の間のみ餌を求めて人里に姿を見せる丹頂を追い、阿寒や鶴居といった営巣地を訪ねて、その生態 / 生体の観察やデッサンに明け暮れたのである。
自ら展覧会カタログなどで書いているように、杉田五郎が丹頂を媒介に表現していたのは「人間の二面性」だったようだ。「丹頂の絶滅を救った人間の良心」と、「生態系を壊してまでも観光資源化し経済優先に走る人間の欲望」。極めて純粋に生きる野生鶴の生き様から照射して、アンビバレントな性質を宿す人間への眼差しを画布に刻み込み、「人間に本来の生き方」を追求した。
以前、アトリエに置かれている作品群を鑑賞させてもらったが、なるほどそれらには鶴が描かれている。しかし、いわゆる具象画ではないし、ましてや花鳥風月的な世界観とも一線を画していた。画面には多くの場合、丹頂の目玉や頭部、羽、骨格、脚などの造形が散りばめられ、何層にも絵具が塗り重ねられた地の上で、抽象的に再構成されている。それらの深度や緊張感が本物であることは、私にだって手に取るように分かった。
そうした絵画の探求を続けた五郎は、後年になって特にアメリカで評価されている。1998年にニューヨークのソーホーで開催した個展を皮切りに、以降数年間、ワシントンDCで毎年個展を開催。他のいくつかの都市にも巡回し、ジョージワシントン大学とジェームスタウン大学には作品が永久収蔵された。また、2010年にはパリのギャラリーで個展を行うなど、海外でも精力的に活動したそうだ。
正直に言えば、その作品や経歴について不勉強だった私は驚いた。杉田五郎は、国内外で果敢に活動を展開するアーティストだったからである。しかも、主宰する絵画教室で日夜教鞭を執っていた。その意味でアトリエクローもまた、彼の〈作品〉だったと言えるのではないか。
クローというネーミングの由来は、言うまでもなく千歳烏山の「烏(からす)」から来ている。最初「アトリエゴロー」にする案もあったというが、さすがに常時「ゴロー」「ゴロー」と呼ばれることになるのは憚られたらしい。コースは油絵科と子供クラスの二つ。自身も子供クラスに参加していた顕久さんによれば、その授業はいたって独創的だった。五郎さんはオリジナルの物語のようなものをたくさんストックしており、そのストーリーを語ったり演じたりすることで、子供たちに絵を描かせていたというのだ。
例えば、ある日の授業では「鬼」を演じた。土着的な面を被り、赤パンツ一丁で全身を真っ赤に塗る徹底ぶり。そのいでたちで、「ウワーッ!」と叫びながら教室中を駆け回り、場をかき乱して去っていく。当然、教場は阿鼻叫喚。すぐさま風呂場で絵具を洗い落とし、何食わぬ顔で戻ってきた五郎さんに、子供たちは「鬼が出た!」と口々に訴える。そこですかさず、五郎さんはこう焚きつけたという。
「鬼が出たって? じゃあ、どんな鬼だったか、絵に描いて先生に教えてよ」
すると、子供たちは夢中になって絵を描き始める。そこに上手い下手はない。あるのは冷めやらぬ興奮を画用紙に定着させようとする、鮮烈な創作意欲だけだ。いわゆるお勉強とは異なる、心を揺さぶられる生々しい体験。おそらくそれは、美術教育において最も大切なものの一つだろう。
そうした「授業」は、まるである種のパフォーマンスのようだ。一人で脚本・演出・主演を務める舞台のようなものでもある。一方で先述の通り、油絵科の方ではかなり厳格だった。線の一本一本まで、とにかくデッサンにはシビアだったらしい。それでも生徒がいい絵を描くと、我がことのように喜んだそうだ。
そんな五郎さんは、亡くなる一年程前から入退院を繰り返していたが、体調の許す限り授業を続けていたという。どうしても教場で、自分の声で教えたかったみたいだ。また亡くなる3ヶ月前には、旧作とはいえ、銀座のギャラリーGKで個展も開催している。晩年の画風は、白地の目立つ大画面に象徴化された鶴の図像が配されたもので、一切の無駄を排した、極度にシンプルな境地に到達しつつあった。
最終的には持病で再入院し、2019年12月5日に五郎さんはこの世を去るわけだが、最期まで旺盛に美術に携わり、芸術家としての生を全うしたのだと私は思う。
杉田五郎は、その生涯を通して、カンヴァスと格闘する画家であり、千歳烏山に根を張って文化を耕した教育者だった。そこには、入念に書き込まれた在野の美術史の一頁が、確かに存在している。
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最後に皆で集合写真を撮り、宴もたけなわで会はお開きとなった。まだ日の陰らない内に銘々が帰路に着く。どうやら参加者は近場に住んでいる人ばかりではないようだ。
クローの後片付けをしながら、千鶴子さんは、私がこのタイミングで現れたことを、偶然ではなく必然だと感じると語ってくれた。たしかに、私が油絵を描こうと思い立った時期と五郎さんが亡くなった時期は、ほとんど重なっている。語弊を恐れずに言えば、五郎さんに導かれるようにして、私は油絵を描き始めたみたいだ。
もちろん、私は自分の意思で油画を始めたのだし、さっき書いたように、自身の怠惰から五郎さんの追悼故展なども見逃している。それでも、油絵について考え出してからすぐ、棺桶に入ったおばあちゃんと、彼女の手による油画を見送り、気づけば五郎さんの三回忌にまで参列して、今このアトリエクローにいる。五郎さんに「呼ばれた」とでも仮定しないと、どうにも辻褄が合わないではないか。
千鶴子さんには、会わずじまいでよかったのかもしれないわね、とも言われた。もし直接会っていたら、私の活動や油絵を面白がってくれたかもしれないし、逆に一切を認められなかったかもしれない。本人と対面しなかったからこそ、ある程度の距離感を持って、客観的に杉田五郎という作家を眺められたのだ。それは大叔父という、これまた近からずも遠からぬ親類であったことも大きいだろう。
そうやって想い巡らす中で、私は自身の内に流れる、文化的な遺伝子の一端を見る思いがした。なにも私は、〈家〉や〈血〉を絶対化したいわけではない。しかしそれでも、杉田五郎、その姉である祖母、そしてその息子である父を経由した影響関係を、どうしても無視できないのだ。
特に、私は父のことを思い返していた。幼少期、いつも好きな漫画のキャラクターの絵を描いてくれたことや、中学生の頃に基礎的なデッサンを教わったこと。私が漠然と美術大学への進学を相談した時、「美大に行っても芸術家になれるわけではない。美大に行こうが行くまいが、表現をする奴はする」と諭されたこと。そういった折、父の意識の背後には、杉田五郎という画家の存在があったのではないか。あるいは、二十歳の私が初めて展覧会に出品する際、手伝ってもらった搬入の車内で、「そういえば父さんも二十歳の時、銀座のギャラリーに初めて作品を展示したな」と、不意に漏らしたこと。そうしたイメージの断片が、瞼の裏に浮かんでは消えていく。
クローにもう来客は残っていなかった。教場はすっかり片付いたようだ。いよいよ私も帰ろうという段になって、今度は顕久さんが、実はここもそのうちなくなるんです、と教えてくれた。千歳烏山では、これから大規模な再開発が始まるというのだ。
都市計画によると、駅前一帯が再開発され、新しい道路とロータリーができて、複合商業施設も新しく建つ。駅から目と鼻の先にあるアトリエクローは、その開発の中心地に位置しており、むろん取り壊しは決まっていた。7、8年前からの話で、現在、その計画は粛々と進んでいるらしい。
生前、五郎さんは「新しい街になるのであれば、どこかに文化の香りを残してほしい」と常々語っていたという。千歳烏山は住民も多く、商店街にも活気がある。ただ、決して文化施設などが充実しているわけではない。その中で、自分はずっと絵画教室を開き、このアトリエで作品をつくってきた。だから、たとえクローがなくなったとしても、千歳烏山には何かしら文化的な要素を残してほしいのだ、と。別に遺言というわけでも、親父の意思を継ぐというわけでもないが、と断りを入れつつ、顕久さんはちょうど、まちづくりの委員会に参加し始めたということだった。
去り際にそんな話を聞いてから、玄関でレンタルの黒い革靴を履く。今日一日、本当にお世話になった千鶴子さんたちに散々お礼を言って、私はクローを後にした。
───路地から振り返り、アトリエクローのパレット型の看板を見やる。この建物も、この道も、再開発で全てなくなってしまうのだとしたら、眼前の風景を描き留めておくことに多少なりとも意味はあるのだと己に言い聞かせる。たとえ私の拙い油絵だろうと、なくなってしまってからでは遅いから。これからできる新しい街にも、ここみたいな場所ができることを願って。………
杉田五郎の全作品に冠された、美しいタイトルが頭をよぎる。つるの通るみち───そうだ、大事なのはいつだって〈みち〉だった。根拠地を模索し、浮浪しながら経巡ってきた街々で、決まって足元にあったのは、〈みち〉だったじゃないか。
五郎さんは、芸術家としてつるのように気高く生き、そしてまた、市井の人としてからすのように逞しく生きた。きっとそれが、つる(CRANE)でもあり、からす(CROW)でもあるような、人間(MAN)たる五郎さんの〈みち〉だったはずだ。じゃあ、私はこれからどんな〈みち〉を歩んでいくのだろうか?
およそ二年の間、私は私が踏みならした町並みをカンヴァスに描き、そしてその物語を書き継いできた。長谷川利行のようにやれたのかは分からない。一つ言えるのは、この道程が利行とも、五郎とも、他の誰とも異なる〈みち〉であるということだけだ。数多の死に囲まれ、支えられながら、しかし未だ命ある肉体を引き摺って生きる私は、これからもあてのない彷徨を続けることしかできない。いや、少なくとも、それができるのだ。
自らの〈みち〉を通っていけば、今後もその先々で、私は誰かに出会い、何かをつくるだろう。
そんなことを考えながら突っ立っていると、千歳烏山駅前の長い長い踏切がようやく開いた。
(なかじま・はるや)