オイル・オン・タウンスケープ 第四号(前半)

文学の死霊たち───外濠端景 第四号(前半)

中島晴矢

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《外濠端景》2020|カンヴァスに油彩|652 × 500 mm

 

 私は大学に下ネタで受かっている。下ネタと言って差し支えあれば、性的なトピックを扱った答案で、だ。

 

 高校時代に読んだ、モブ・ノリオの芥川賞受賞作『介護入門』や、浪人時代に神保町の古本市で出会った、横光利一の小説『機械』などに衝撃を受け、大学で文学部に入りたいと考えていた私は、しかし全くと言っていいほど受験勉強が手につかなかった。どの科目も酷い偏差値だったが、唯一それなりに点数を取れていたのが現代文である。幸い古典が嫌いじゃなかったこともあって、国語だけは模試でもある程度の点数を維持していた。

 

 ただ、国語だけじゃどこにも受からないよなぁ、と依然ぼんやり過ごしていた私に、予備校のチューターが見るにみかねたのか、法政大学文学部日本文学科の「T日程」を勧めてくれた。半年ほど前から提示される課題図書を事前に読み込んだ上で、試験当日、その本に関する小論文を書くという試験だ。そこに一般的な古文・漢文の問題も付随する。が、逆に言えばそれだけの試験なのである。

 

「国語だけで受験できる!」

 

 私にとってその事実は、受験地獄に垂らされた、蜘蛛の糸のごとき一筋の光明に思えた。ただし、倍率がめっぽう高い。募集人員が25名で、志願者は例年4、500人いるらしいから、10倍以上ある。怠惰な受験生が考えることは皆同じなのだろう。でもやるしかない、なにせ他の科目はまるで勉強していないのだから。

 

 その年の課題図書は幸田文の『きもの』だった。父・露伴の死後に活躍した女流作家が、大正期の女の半生を着物に寄せて描いた長編小説。言葉使いの美しさに目を見張りながら、私は夢中になってそれを読んだ。殊に、主人公・るつ子が少女から花嫁にまで至るそのビルドゥングスロマンには、性差を越えて感情移入したものだ。

 

 そして迎えた試験当日、出された問いは「きものを通じて日常生活に張りがもたらされているところを述べよ」といったものだった。試験場を見回すと、周りには女生徒の姿が目立つ。10倍強の倍率、この中で“出る杭”たらねば受からないと直感した私は、小説のハイライトでもある結婚式の場面などを避け、あまり他の受験生が触れなさそうな部分に着目した。それは、「初潮」と「痴漢」のシーンである。

 

 ある晩るつ子が風呂桶をまたぐと、「はじめての紅が散ってい」て、まとわりつく浴衣を不快に感じる。また、身体の線が強調される「横縞の銘仙」を着た彼女は、電車で知らぬ間に「なめくじの這いあとのような」汚れをつけられてしまう。共に、大人になりつつある肉体と、まだ少女に留まっている精神、その間に生じる戸惑いや苛立ちが、繊細に描出されていた。

 

 たとえ嫌悪される事態であれ、「きもの」を媒介に惹起される〈肉体と精神〉の齟齬が、るつ子という女の生に対して、逆説的に、非日常の輝きを与えている───たしかそのような論旨を、私は硬質な文体で丹念に書いた。一文目には、「経血」と「精液」という文言を入れ込んだはずだ。むろん、悪目立ちしてやろうという魂胆もあったが、決して対象を安易に弄んだつもりはない。そこには、私なりの文学に対する想いがあった。

 

 文学とは、ごく簡単に言ってしまえば、表面だけ見ても分からない、人間の〈奥底〉を描くものだ。それゆえ、文学はある種の危険性を孕むものでもある。読者の首根っこを引っ掴んで、幾ばくかでもその人生観をねじ曲げてしまうこと。それこそが文学であり、実際、私は何編かの小説にそんな影響を受けて、これから文学をやろうとしているのであった。当時まだ若かったとはいえ、それは今でも文学のみならず、芸術一般に対する自身の理解でもある。

 

 だから『きもの』においても、ある意味で後ろ暗い、性の領野に分け入った。色とりどりの「きもの」がもたらす華やかさだけでなく、心身の成長に伴って欲望され、引き裂かれる女性の内面の〈奥底〉を描いているからこそ、この小説は懐深いと思うのだ。

 

 ……その答案が功を奏したかどうかは分からないが、こうして私は、何とか大学に潜り込むことに成功したのだった。

 

 

 江戸城外郭として開削された、牛込から赤坂へ続く外濠の一部は、江戸の名残りをとどめながら、今も満々と水を湛えている。

 

 その濠端、市ヶ谷と飯田橋のちょうど中間辺りに、法政大学は位置している。JR市ヶ谷駅から釣り堀を横目に、外濠公園の桜並木を歩いてすぐ。そのまま行けば飯田橋、左に折れて濠上のカフェを越えれば神楽坂だ。校舎の裏手にある、富士見坂と接しているのが靖国神社。濠と公園に挟まれた土手には中央線が走っている。

 

 大学生活への期待値はそもそも低めだったので、サークルなどに所属することはなかった。むしろ、入学と同時に通い始めた美学校が楽しく、帰宅すればそこは騒がしい渋家で、大学の授業そっちのけで遊び回っていた。ただ、向学心のようなものが全くなかったわけではなく、なるべく本は読んでいたし、美術展や文化人のトークイベント、他大学のゼミなんかに熱心に顔を出している。

 

 特に、首都大学東京の社会学者・宮台真司さんのゼミには、南大沢にあるキャンパスまで、週に1回、2年ほどモグリで通った。その頃の宮台ゼミは、学外生が三分の二くらいを占めていて、モグリと言っても春夏のゼミ合宿にも欠かさず参加するくらい、いわば“正規のモグリ”だったのだ。ゼミ生は他大生や院生、社会人とバラつきがあり、おしなべて意欲が高い。そこで触れた思想史や政治哲学は、どれだけ吸収できたかはさておいて、ある程度は自身の血肉になっているはずだ。

 

 そうした日々の中で、当然、法政の授業はサボりがちになる。4年次には、朝から晩まで毎日授業に出席して、そのツケを支払うことになったが、かろうじて留年だけは免れることができた。

 

 授業では、小説家の島田雅彦や中沢けい、批評家の田中和生らの講義が印象に残っているが、何と言っても力を注いでいたのはゼミである。私の所属は文学コースの近代文学専攻で、3年次にはゼミ長も務めた。ほとんどゼミのために大学に通っていた、と言っても過言ではない。

 

 担当教授は、立石伯という筆名を持つ、文芸評論家の堀江拓充先生だった。私が卒業してすぐ退官されたくらい、既にご高齢だったが、かの伝説的な小説家である埴谷雄高の弟子筋で、専門は、埴谷はもちろん、武田泰淳、石川淳、高橋和巳、海外文学ではドストエフスキーとカフカという、かなりヘヴィな文学者。ゼミでは上記の作家に加え、漱石、鷗外は言わずもがな、坂口安吾や大岡昇平など、日本近代文学における重要な作家の作品を、一通り扱うことができた。

 

 基本的に先生は寡黙で、いつも学生によるレジュメの発表をじっと聞いている。やがて学生たちが議論を交わす段になると、突然、核心を突く言葉をポソリと投下する。例えば私が横光について発表していると、一言「まぁ、横光は下手くそだから……」とこぼしたのが、なぜだかたまらなく可笑しかった。ともかくこのゼミで、私は文学のイロハを教わったのだ。

 

 ゼミ生には、一個上と一個下に、一人ずつおもしろい人物がいた。洒落ていて先輩肌の板倉さんと、モジャモジャの毛髪に眼鏡の、文学青年然とした関口くんだ。二人とも膨大な数の小説を読破しており、博覧強記。板倉さんは埴谷を、関口くんは石川淳を専門と定め、各々ストイックに読み込んでいた。そして、彼らもまた私と同じく「T日程」の入試組だった。板倉さんの受験時の課題は、原民喜だったらしい。広島で被爆した体験を書き綴ったその作家について、同じく広島出身の板倉さんは、当事者性をもって入念に回答したという。私は彼らよりよほど不勉強だったが、そんな文学狂いの三人でゼミを回していたようなものだ。

 

 ゼミの後には、堀江先生も交えて飲みに行くことが多かった。よく連れていってもらったのは神楽坂の「萬月」だ。卓を囲んで焼き鳥をつまみ、ビールや日本酒を傾けながら、喧々諤々と議論に興ずる。芸者こそ上げないものの、尾崎紅葉や泉鏡花ら、硯友社の根城でもあった神楽坂。そこで師や朋輩と文芸を談じることが、「ああ、文学をやっている」と実感されて、酒のみならず、その雰囲気自体に酔っ払っていた節はある。

 

 先生は、酒が入ると一転して饒舌になった。そして口癖のように、

「文学なんてね、気違いじゃないとできないんだよ」

 

 と宣っては、白い顎髭を揺らしながら、カッカッカと屈託なく笑うのだった。

 

 卒業論文では横光利一を扱った。

 

 大学の規定は「原稿用紙50枚以上」だったが、私は200枚ほど書き上げている。横光ほどそのスタイルを変転させた作家は珍しく、無謀にも前期・中期・後期と分けて、主要な作品を網羅的に扱ったためだ。

 

 しかも、堀江先生のこだわりによって、パソコンの使用は認められず、原稿用紙に手書きのみ。旧弊と言ってしまえばそれまでだが、それでよかったと思う。なぜなら、対象とする時代の作家や批評家たちは、現に、原稿用紙に手書きで仕事をしていたのだから。実際、画面に向かいキーボードを打ってつくるテクストと、紙にペンで書きつけるテクストとでは、その文体やリズムに相違が生じるはずなのだ。

 

 ところで、私は3年生と4年生の間の春休みに3.11を経験している。その頃、卒論の準備として横光を読んでいた私は、震災にあってすぐ、彼のある言葉を思い出していた。

 

「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁盛しません。」

 

 ───これはパリに外遊した横光が、ダダイズムの始祖である詩人、トリスタン・ツァラのモンマルトルにある家を、岡本太郎と訪ねた時に言わんとした台詞である。

 

 以前は陳腐にしか響かなかったこの文言が、震災を目の当たりにした私には、途端に切実なリアリティを帯びて迫ってきた。シュールリアリズムより遥かにシュールな光景が、ディスプレイを通して見る被災地に、たしかに広がっていたからだ。

 

 そういえば、横光は関東大震災の瓦礫の中から、新感覚派を立ち上げた。では、東日本大震災の後で、果たして私には何ができるのだろうか? ……それがこの卒論を書くにあたっての、根本的な動機の一つでもあった。

 

 結果、大学図書館と、当時居候していた中野坂上の彼女の実家に籠り切りで、腱鞘炎に苛まれながら、何とか横光と自分なりの決着をつけたのだった。

 

 だが、やっとの思いで卒論を提出したところ、卒業には単位があと一つだけ足りていないことに気づく。慌てて落とした授業を受け持つ先生の研究室に駆け込むと、代替のレポートを提案してくれた。

 

 課題は、夏目漱石の『明暗』について。漱石は、ここから程近い喜久井町の生まれだ。何より、漱石最期の作である、この未完の小説が、自身の学生生活の最後に当てがわれたことに、不思議な巡り合わせを感じながら、どうにかレポートを提出し、ようやく卒業を迎えることができたのだった。

 

 

 

 (なかじま・はるや)

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