本を読む #009〈吉川英治『鳴門秘帖』と『世界聖典全集』〉

⑨ 吉川英治『鳴門秘帖』と『世界聖典全集』

                                          小田光雄

 

 今回は少年時代の読書の記憶があてにならないことを書いてみよう。

 

 私は母がクリスチャンだったので、家で茨の冠をまとって血を流しているキリスト像の絵を見て育ち、教会に通っていたこともあり、時代小説を読み始めた頃にはキリシタンが出てくる作品に愛着を覚えた。その筆頭に挙がるのは柴田錬三郎の眠狂四郎シリーズで、彼は幕府大目付の娘と転び伴天連の間に生まれた混血児という設定であった。もちろん眠狂四郎はキリシタンではないのだが、その物語は最初からキリスト教的貴種流離譚のニュアンスを漂わせていた。

 

 1960年に新潮文庫化された『眠狂四郎無頼控』の最初の「雛の首」において、「異人の血でも混っているのではないかと疑われる程彫のふかい、どことなく虚無的な翳を刷いた風貌」を持つ「黒羽二重着流しの浪人者」として登場してきた。そして第二話「霧人亭異変」へと展開されていく。このような冒頭のシーンからして、時代小説であるにもかかわらず、ヨーロッパ文学ともつながっているというイメージを喚起するものだった。それを表象するのはとりわけこの『眠狂四郎無頼控』全体を覆っているキリシタン色であったといえよう。またフォークナーやジョイスを読む前に、そこで試みられていた「内的独白」や「人称の転換」という手法にふれていたことも付け加えておこう。

 

 この柴田の眠狂四郎シリーズから始めて、私は様々に時代小説を渉猟し、島原の乱へと引き寄せられ、それをテーマとした作品群に向かうことになるのだが、そのことに関してはここでは言及しない。別稿で論じたほうがいいと思われるからだ。

 

 そのようにして時代小説に出会った最初の頃に吉川英治の『鳴門秘帖』を読み、ずっとこの作品にもキリシタンが出てくると思いこんでいたのである。ただ吉川とは相性が悪く、その後内田吐夢監督、中村錦之助主演の東映映画を見たことから、『宮本武蔵』に手を出したが、このような求道小説は好みに合わず、読了していない。そうした事情もあって、『鳴門秘帖』も再読していなかった。ところがたまたま古本屋で、1962年に中央公論社から刊行された「その雄大奔放、波乱万丈の物語の魅力に、はじめて連載時の全挿絵を加えた愛読愛蔵版」という帯文の上下巻を見つけ、購入してきたのである。

 

 中身を確認してみると、この作品は1926年から27年にかけて、岩田専太郎の挿絵入りで、『大阪毎日新聞』に連載されたものであり、中央公論社版はそれを2ページ毎に配し、まさに論創社版『大菩薩峠』の趣があった。ほぼ同時代に図書館から借りて単行本で『鳴門秘帖』を読んでいたけれど、この挿絵入り本ではなかった。それにまだ講談社文庫も創刊されておらず、吉川の作品は文庫化されていなかったはずだ。

 

 この中公版で半世紀ぶりに『鳴門秘帖』を読み進めていくと、最初のところに「異人墓」のシーンが出てきて、その挿絵も付されていた。それでキリシタンも登場してくるはずだと考えていたのだが、最後までキリシタンは出てこなかった。とすれば、この「異人墓」のことが記憶に残っていて、それがキリシタンと結びつき、『鳴門秘帖』にも登場してくるものと思いこんでいたのだろうか。

 

 そこでもう一度考えてみると、吉川の自伝『忘れ残りの記』(吉川英治文庫、講談社)収録の「自筆年譜」のことが想起された。それを確認してみると、やはり「大正8年(1919)」に「松宮春一郎、水野葉舟氏らの世界文庫刊行会へ、筆耕仕事に通う」という一説があった。これだけでは何を意味しているのか、わからないだろうし、注釈を必要とする。そこで補足してみる。

 

 松宮春一郎は人名事典などには立項されていないが、学習院大学を出て、中央大学の運営に携わり、昭和5年から同事務部長を務めたとされ、世界文庫刊行会の発行人となっている。水野葉舟は佐々木喜善を柳田国男のところに伴い、『遠野物語』を送り出した触媒ともいうべき文学者であり、彼の作品は『明治文学全集』(72、筑摩書房)に収録されている。この二人の関係もよくわからないし、どうして世界文庫刊行会なるものが設立されたかも不明である。

 

 ただこの版元は『世界聖典全集』を刊行したことによって、大正時代の出版社として重要な存在で、その以後の日本の文学、宗教、哲学シーンなどに大きな影響を及ぼしたと考えられる。この『世界聖典全集』は『中央公論』の命名者で宗教学者の高楠順次郎によって推進された企画で、その全30巻のうちの9巻は高楠訳『ウパニシャット全書』で占められている。『世界聖典全集』は高楠の恩師である英国の宗教、言語学者のマックス・ミューラーが編纂した東洋諸宗教の経典の英訳集大成『東方聖書』The Sacred Books of the East(50巻、1879~1910)を範とし、その日本版を意図したと思われる。

 

 この『世界聖典全集』全30巻は大正9年から12年にかけて、世界文庫刊行会から予約出版システムで出されている。その全巻明細は拙ブログ古本夜話104「『世界聖典全集』と世界文庫刊行会」に掲載しておいたので、興味のある読者はぜひ参照してほしい。その前輯全15巻には『新訳全書解題』も含まれているし、大正8年に吉川が世界文庫刊行会において、携わっていた「筆耕仕事」とは、これにまつわる編集や校正のことをさしているのではないだろうか。私の場合、どこかで吉川がそれを通じてキリスト教にふれ、『鳴門秘帖』の物語にキリシタンとして取り入れたと勝手に思いこんでしまったのかもしれない。

 

 しかし吉川と松宮や水野の関係はまったくわからないし、これまで書いてきたように、『世界聖典全集』は出版社、発行者、訳者たち、それに内容も含めて多くの謎が秘められている。すでに刊行から一世紀近くが経とうとしているが、まだ本格的な研究を見ていない。

 

—(第10回、2016年11月15日予定)—

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