本を読む #010〈清水俊二、吉川英治、吉川晋〉

 ⑩ 清水俊二、吉川英治、吉川晋

                                         小田光雄

 前回、『世界聖典全集』を刊行した世界文庫刊行会と吉川英治の定かでない関係にふれたが、それとは異なり、戦後の一時期、吉川と最も親密な関係にあった出版社について言及してみたい。

 

 その版元は六興出版社で、私などが知った1970年頃には六興出版となっていたはずである。その社名変更がいつだったかを確認していないけれど、戦後の六興出版社の清算と新社への移行の問題が絡んでいたにちがいない。しかし90年代になって、出版業界から退場してしまったように見受けられる。

 

 だがこの六興出版社にも栄光の時代があり、戦後の1948年から50年にかけて刊行した吉川英治の『新書太閤記』と『宮本武蔵』がベストセラーとなっていたのである。これには少し説明が必要だろう。戦前に『新書太閤記』は新潮社、『宮本武蔵』は講談社から刊行されていた。ところが戦後になって、吉川と新潮社、講談社の間に正式な出版契約が交わされていなかったことから、六興出版社が両社と交渉し、刊行に至ったのである。

 

 それらの交渉に当たったのは、後のレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』などの訳者となる清水俊二で、吉川の両書の出版によって、「六興出版社が戦後の出版業界に旋風をまきおこすことになった」のである。だがこれはフィリップ・マーロウと宮本武蔵の出会いのようで、出版シーンに起きる意外性を浮かび上がらせている。

 

 清水は『映画字幕五十年』(早川書房)の中で、その「旋風」に関して、次のように記している。

 

 吉川の『宮本武蔵』を手に入れたことで、六興出版社はにわかに業界の注目を浴びることになった。刷れば刷るだけ売れる。むりをして闇の金を都合しても、たちまち売り切れる。こんなうまい商売はない。取次店も六興出版社をだいじにする。当然の成り行きとして、『宮本武蔵』の次は『新書太閤記』ということになった。

 

 ただ先にこの清水の回想の間違いを指摘しておくと、『新書太閤記』が先で、『宮本武蔵』が後なので、順序が逆である。それはともかく、『出版データブック』所収の「ベスト・セラーズ」リストには48年の3位が『新書太閤記』、49年の7位、50年の6位が『宮本武蔵』で占められていることからすれば、確かに「こんなうまい商売はない」と清水にいわしめたのも無理はないと実感してしまう。既存の作品の著作権移動だけによるベストセラーともいえるからだ。

 

 しかしこれらの六興出版社の吉川作品の出版は、清水個人のネゴシエーションの力量によるものではない。それには吉川英治の実弟吉川晋が深く関与していると考えるべきだろう。吉川晋は戦前に文藝春秋社に入社し、『オール読物』編集部に在籍していたが、編集長の香坂昇、同じく編集者の石井英之助ともども六興出版社の強力なブレーンでもあった。清水の言によれば、「この三人は天下の文春にいて、どんな不満があったのだろう。三人とも、六興出版社に異常なほどの肩入れをしていた」という。

 

 戦前の六興出版部=六興出版社の設立事情は他でも書いているので簡略に記すと、清水の友人の大門一男によって担われ、41年に清水は編集部長に就任した。そして大門が召集された後の戦時下の出版に携わったのである。その一冊は清水自身が翻訳したウィリアム・サロイヤンの『わが名はアラム』で、これは1976年になって晶文社の「文学のおくりもの」シリーズに収録されたことになる。また吉川晋たちの協力もあったことから考えれば、44年刊行の吉川英治のエッセイ集『草莽寸心』は晋が持ちこんだ企画であり、これが戦後の六興出版社による『宮本武蔵』や『新書太閤記』刊行の伏線となっているのだろう。

 

 これも吉川英治の『忘れ残りの記』所収の「自筆年譜」で知ったのだが、彼が世界文庫刊行会の筆耕仕事に通っていたほぼ同時期に、晋が興文社に勤めていたことが記されている。興文社といえば、昭和円本時代に文藝春秋社とジョイントして『小学生全集』を刊行し、アルスの『日本児童文庫』と競合した出版社である。これは奇しくも、アルスの北原鉄雄は北原白秋の実弟に当たり、文春の菊池寛と白秋の戦いの様相を呈するに至った。つまりここで興文社は、文藝春秋社の別働隊の立場に置かれていたといっていい。

 

 そればかりか、興文社は雑誌『犯罪科学』の創刊者柳沼沢介、同じく『犯罪公論』の田中直樹も輩出し、田中のほうは菊池の弟子と見なしていい。吉川晋は興文社から逓信省通信学校に入り、33年に雑誌『衆文』を創刊し、翌年日本青年文化協会総務部長となり、機関誌『青年太陽』の主幹を務め、38年に文藝春秋社に入社している。これらの彼の軌跡のかたわらには兄だけでなく、菊池や興文社人脈が控えていたように思われる。

 

 そのような軌跡の延長線上に、『宮本武蔵』や『新書太閤記』の出版もあったのではないだろうか。もはや菊池の設立した文藝春秋社は解散し、46年に文藝春秋新社として再発足していた。そこで吉川晋は菊池の代理のようなかたちで、新潮社と講談社の眼玉商品を六興出版社が奪うことによって、菊池の果たせなかった夢を実現させたのではないだろうか。それはまた作家としての吉川の秘かな願いであったのかもしれない。

 

 このようにして六興出版社は社運ますます隆盛というところで、世間からもひとかどの出版社として認められていたが、金回りがよくなったことは、清水と吉川たちの間に隙間風を生じさせた。清水は自らが手がけた雑誌『野球日本』の廃刊をきっかけにして、50年に会社を辞め、字幕スーパーと翻訳者の道を歩んでいくことになる。

 

—(第11回、2016年12月15日予定)—

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