矢口英佑のナナメ読み #076『信長と鉄砲』

No.76『信長と鉄砲』

矢口英佑

 

織田信長を論じた書物や文章は相当数に上るだろう。また戦記物だけでもかなりの数になると思われる。それだけに織田信長が戦の中で鉄砲を巧みに使ったことはよく知られている。わけても武田勝頼の武田騎馬軍団と対峙した際、鉄砲の連射で完膚なきまでに武田勢を打ち破った「長篠の戦い」は特にそうだろう。

 

本書はその鉄砲と織田信長とのつながりを、敵対した相手との戦闘の記録やその他の事象から鉄砲に関する記述のみを取り出し、もっぱら分析するというこれまであまり見られなかった視点から記述されている。

 

著者は織田信長の生涯を記録した太田牛一の『信長公記』(信長に長く仕え、信長の生涯を記述した伝記としては信頼性が高いと評価されている)に基づき、そこに記載されている鉄砲に関わる記述を拠り所としている。

 

 「信長の鉄砲との係わり、鉄砲活用の変遷を忠実にたどることを試みた。世に膾炙している、信長の合理的・画期的な、しかも、独創的な鉄砲活用が突如「長篠の戦い」で開花したのではないことを確認したい」(本書「はしがき」より)

 

と著者は記している。

 

『信長公記』は「首巻」と「巻一から巻十五」までの二部構成となっていて、「首巻」は信長34歳までの上洛以前(将軍足利義昭を推戴して京に行く)の記録である。これによると信長が15、6歳の頃すでに鉄砲が身近にあり、鉄砲の師匠から訓練を受けていたらしい。日本に鉄砲が伝えられてからさほど時を置かずにすでにそれまで日本にはなかった新たな武器を信長は知っていて、しかも、それを使いこなせる技術を学んでいたのである。

 

信長16歳の時のこと、舅の斎藤道三との会見で鉄砲と長槍合計500挺の隊列を見せ,しかも信長自身は火打ち石の入った袋と火薬の入ったひょうたん7,8つを腰にぶら下げた半袴姿だったという。この時期はまだ鉄砲より弓の方が主流であったが、信長のやがて鉄砲が主流となることを予見した示威行為について著者は、

 

「信長は間違いなく舅道三の度肝を抜く事に成功し(中略)、してやられた斎藤道三は自国領に入るやいなや、斎藤氏の将来を案じており、やがてその不吉な予感は的中する。自分の息子が信長の軍門に降ることを予見している」

 

と記している。

 

優れた先見性を持った信長ではあったが、鉄砲を実際の戦闘で使ったのは道三への示威行為から5年後の1554年(天文23年)(「桶狭間の戦い」の6年前)の今川義元軍に勝利した「村木砦の戦い」であった。日本で初めて鉄砲が使われた合戦となるのだが、このとき実際に鉄砲を使ったのは信長ただ一人だったのである。著者は次のように記している。

 

「鉄砲の射手は信長一人である。標的は敵が弓で射撃する為の狭間(城や城壁に構築した射手の側を広くした窓)である。(中略)信長は自らその狭間三箇所を受け持った。攻撃の手段として、敵方の狭間の中の弓の射手をねらい討ちする目的で使われている」

 

狭間から弓を放ってくる相手を狙って鉄砲を撃ち込み、確実に敵方を一人、また一人と倒していった信長の射撃の腕前が非常に優れていたことがわかる。その際、信長は鉄砲を

 

「数挺、あるいは十数挺用意して、小姓、あるいは、馬廻りの衆数人に、銃身のすす取り、玉込めなどを次々に準備させ、自らは一戦闘員として素早い射撃に専念し、連射できる体勢を作った」

 

人間の筋力頼りの弓に比べ、飛距離が格段に伸びた革命的な鉄砲による戦闘は、「村木砦の戦い」を境にして日本の合戦の様相が一変していく歴史的な転換点となったことを教えている。

 

『信長公記』には、さまざまな場面での鉄砲の効果的な使い方についても記されている。

 

たとえば、舅の道三が子どもの義竜との骨肉の戦いで討死にした報せを聞いた信長は、兵を渡河して撤退させる。その際、みずからは最後尾で踏ん張り、義竜陣営の信長追撃をかわす手段として鉄砲の飛距離を利用し、鉄砲の射程距離を保ちつつ、刀剣などで戦う白兵戦を防いだのである。鉄砲が攻撃面だけでなく撤退を容易にする武器としても用いられていたのである。事実、信長は再三にわたって、「鉄砲を追いすがる敵を引き離す手段として活用している。鉄砲の射程距離が弓のそれを上回っている」からであり、「連射においては射手の疲労度の点で、鉄砲の方がはるかに軽微である事が認知されていった」(本書「第一部 「信長公記」首巻の部 「10 信長鉄砲を使いを完遂する」)と著者は記している。

 

さらに城攻めにも鉄砲は効果的な役割を果たしている。信長が尾張統一を成し遂げることになった織田信賢が城主だった岩倉城攻めでは、城を完全に包囲すると信長は火矢と鉄砲という飛び道具を連日、間断なく城に打ち込み、「白兵戦を避けながら包囲網を着実に狭める。自軍の損害を生じさせない」(本書「第一部 「信長公記」首巻の部 「12 鉄砲による城攻め」)持久戦によって織田信賢を降伏させている。

 

 「武器のコストは高価であっても、最終的にコストと効果の関係で最善の結果を引き出す鉄砲の活用が一番合理的である。信長の理詰めの作戦が岩倉城攻めで十分発揮されている」

 

と著者がコストと効果の関係から鉄砲を重視した信長の合理精神を評価しているのは興味深い。

 

そのほかに鉄砲が戦だけでなく鹿や鳥などを仕留める狩猟にも使われ、信長はそれを奨励するかのように自領内で鉄砲の狩猟許可証を発給していた。今では狩猟に鉄砲が使われるのは当たり前だが、信長が鉄砲を狩猟や害獣退治にも早くから着目していたのは、戦での鉄砲技術向上も視野に入れていたのかもしれない。

 

鉄砲が日本に伝来してからさほど時間を経過していないだけに、信長と鉄砲に関わる事象のほとんどすべてが、日本での初めての出来事として記録されるのは当然かもしれない。狩猟もそうだが、鉄砲による自殺や銃殺刑などの記録もそうだろう。こうした事象は見落とされがちで、鉄砲に着目しているからこそ鮮明に浮かび上がってくるのであり、本書の価値を高める要因の一つとなっている。

 

また、『信長公記』が信頼できる資料であるのを裏付けると思われるのは、都合の良いことだけでなく、次のような記述も見えるからだろう。

 

 「雨つよく降って、鉄砲は互いに入らざる物なり」

 

これは『信長公記』巻六に見えるのだが、現在は「長島一向一揆」と総称されている戦で、本願寺門徒らが蜂起した一向一揆の平定をめざしている時だった。1573年の2度目の伊勢長島侵攻(現在の三重県桑名市)で、折あしく激しい雨の中での戦いとなった。当時の鉄砲は火縄銃だったため、両軍共に強烈な武器であるはずの鉄砲が無用の長物となってしまったというのである。全天候型でない鉄砲の時代だからこそ起きた鉄砲の弱点として貴重な記録と言える。

 

『信長公記』巻八に記された「長篠の戦い」は本書の中でも、信長の戦いぶりが臨場感豊かに描かれている。無論、『信長公記』の著者である太田牛一の記述があるからだが、それだけではない。著者の浅野忠夫が鉄砲が主役の、鉄砲を中心にした戦をより詳しく伝えようとしているからである。著者は「「長篠の戦い」は既に語り尽されている」と言うが、『信長公記』の記述を併記しながらの著者の解説には従来のものとは異なる味わいがある。言うまでもなく本書が「信長」と「鉄砲」を柱としているためである。

 

織田信長の生涯を記述した『信長公記』から鉄砲に関わる部分だけを抽出した本書は、織田信長の生涯に目が奪われ、見逃してしまいがちな記述に気づかされ、異なる視点から信長を考えさせることに成功している。

 

(やぐち・えいすけ)

 

 

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