- 2020-6-1
- お知らせ, 論創通信, オイル・オン・タウンスケープ
浮浪する根拠地───町屋風景 第一号(後半)
中島晴矢
《町屋風景》2020|カンヴァスに油彩|410 × 318 mm
東京の東側に位置する町屋は、その名の通り家屋が密集した、下町の風情を残す街だ。
チェーン店に混じって小さな個人商店や古めかしい建物が並び、路地が錯綜している。市街の中央を尾竹橋通りが南北に貫いていて、すぐ北に流れる隅田川を跨げば足立区の北千住、南に行けば日暮里だ。これも下町という呼称の通り、この辺り一帯は土地が低く、ハザードマップは真っ赤である。幸い大型台風で浸水などの被害は起こらなかったが、とにかく火事が多い。この2年で、込み入った民家から煙が上がるのを数件は見た。
鉄道は、千代田線と京成線、そして都電荒川線が通っている。今は「東京さくらトラム」という名前に変わっているが、東京に現存するただ一つの路面電車だ。誰かが書いていた、「路面電車のある街は知性を感じる」という言葉がぴったりと当てはまる。この小さな電車にとことこと揺られれば、終点の三ノ輪橋まではすぐ。逆方面へ向かえば、王子の手前でぐいっと大きくカーブして、小高い飛鳥山の坂道をぐんぐんと登っていく。線路は民家の背中の間を縫うように走る。さながら身体感覚を拡張した、モビールによる路地散歩である。
散歩と言えば、駅前の複合施設は「サンポップマチヤ」。なんとも力の抜けるネーミングで、やけに気に入っている。荒川区役所の方へ足を伸ばせば、迷路じみた道中に突如、場違いなほど立派な図書館「ゆいの森あらかわ」が現れる。その中には日暮里出身の作家・吉村昭のちょっとした文学館も併設されている。
すぐ隣の三河島には、ハングル文字の看板を掲げたキリスト教会が散見される。昔からコリアンの住民が多い地域なのだろう、焼肉屋が豊富で、どの店も一様にレベルが高い。ひときわ美味しい肉が廉価で食べられる「正泰苑」には、数ヶ月に一度、ついご褒美的に出掛けてしまう。
尾竹橋通り沿いには色々な店が並ぶ。木造の格子戸を構えた鰻屋や、いつの時代のものか不明な在庫をぞろりと揃えたおもちゃ屋、土間に土鍋が展がる食器屋、きもの屋、刃物屋、なんでも屋と、専業店が軒を連ねる。
最近閉まった「百番」という町中華には、なかなか入る勇気が出なかった。店頭のガラスケースに陳列された食品サンプルには、埃が堆く積もり、磨りガラスの扉からは店内が見通せない。とはいえ祝日には客が列をなしていることもあり、意を決して足を踏み込んでみると、もやしラーメンと餃子が絶品だった。閉店が決まった最後の一週間は、毎日長蛇の列ができたほどで、この街の根強い地域性を実感する。
じじつ、地元愛によって駆動している店は多い。新しく開店する飲食店の多くは、店主が町屋出身らしく、故郷に錦を飾りに戻ってくるのだった。
最近できたラーメン屋の「千祥」は、値段も味も立地も勝り、もう少しだけ奥にあったチェーンの家系ラーメン店の客を、ほとんど持っていってしまったようだ。引っ越してすぐオープンした亀戸ホルモンの暖簾分けだという「ホルモン弘」も、若きオーナーは町屋の生まれ。この店ほど焼いて縮まらないホルモンを、私は他に知らない。
何より、いい居酒屋が多いのだった。どこも老舗の風格があり、しかし決して気取らず、肴が美味くてしかも安い。駅近くの「甲州屋」では生ホッピーが飲めて、白子の天ぷらや鳥刺が堪らない。京成駅前の「沢庵」は、看板通り若い大将タクちゃんが切り盛りしていて、貝や鯨まで並ぶ刺し盛りの気前がいい。広い座敷を有する「大内」はいつも老若男女で一杯だ。老年のご婦人方が女子会をしていたり、子連れが多かったりするのは、いかにも下町らしい。
荒川線沿いを尾久の方に進むと、いくつもの赤提灯が点っていて、もつ焼き屋「亀田」では電気ブランが飲める。尾久には、忘れられた東京とでも言うような鬱屈した静けさが漂っている。たしかあの阿部定事件も、この辺りで起きたのだった。
駅近くの路地裏にある「なりきん」は、全くもって成金感のない店構えだ。
どんな店だろうと暖簾をくぐると、オヤジさんが一人で回していて、BGMはテレビ。小さなホワイトボードにその日のメニューが書かれ、ウィスキーとホッピーの割り物だろう、「ウッピー」なる酒も置いてある。
オヤジさんは煙草を片手にテレビを見ている。客側が店主の動きに気を遣いながら注文する、それくらいで丁度いいのだ。
手洗いに立った常連らしいおばちゃんが、カウンターに戻ってくる。
「トイレにかかってるカレンダー、あれ、ゴッホ?」
「ああ、たしかゴッホだよ」
「あたしこの前、上野でゴッホ展を見てきたの」
「そりゃいいね」
大衆酒場での突然のゴッホ……そんな出会いに、言い知れぬ楽しさを感じるのだった。
*
私の住まいは、尾竹橋通りに面したマンションだ。いくつかの物件を見て回ったが、決め手となったのはその名称である。こちらはゴッホならぬ「ボナール」なのだ。ナビ派の画家であるピエール・ボナールは、これといって好きな作家というわけではなかったが、その大した意味のない符合になぜか心惹かれたのだった。
引っ越してから知ったが、実は美術家の会田誠さんが近所に住んでいる。会田さんはいつかの個展で、人は3階以上に住むべきではないという「セカンド・フロアリズム」を打ち出していたが、我が家はそれよりもやや高階にある。まさしく今の自分の根拠地である、そんな家のベランダからの風景を油彩のモチーフに選んだ。
───下方に尾竹橋通りが横切り、そこから道が奥へと伸びていて、手前の青い建物の屋上には、なぜか怪物のモニュメントが鎮座している。横断歩道を渡る人影と、グレーの自動車。背の低い建物が画面の向こうまで重なって、遠くではスカイツリーが空を支えている。……
ライブペインティングを再開すると、描くことそれ自体の心地よさにすぐ魅了された。風景の輪郭をなぞり絵具を塗り足していく、その逡巡を包摂するぬるぬるとした行為の断続。そうして筆を滑らせながら、生徒や来場者と喋っていると、美学校の講師も務める佐藤直樹さんが立ち寄ってくれた。佐藤さんはデザイナーだが、ここのところずっと「描くこと」に回帰し、鬱蒼と生い茂る樹木を長大な画面に描き続けている。
油絵を描いているんです、と言うと、匂いでわかるよ、と笑われた。
「議論をする時だってなんだって、みんなこうやって、手を動かしながら話せばいいんだ」
今日は君が絵を描いている姿を見られてよかったよ、佐藤さんはそう言って去っていった。
夕方になるまで描いたが、やはり未完成に終わった。とりあえず美学校の乾燥棚に置いて、後日アトリエで手を入れようなどと考えながら講評会になだれ込む。受講生たちは各々の作品を展示しているが、「根拠地を示す」という課題に呼応した作品が何点かあった。
例えば韓国人であり、日本に留学してから脚本の仕事に就いているナウォンさん。韓国でも居住地を転々とし、さらに日本へ移ってきた彼女にとって、明確な「根拠地」はない。しかしあえて挙げるとすれば、それは品川の入国管理局になるという。来日する際に、必ずと言っていいほど立ち寄らなければならないからだ。そこで彼女は、品川駅から外国人だらけのバスに乗り込み、多言語が飛び交う入国管理局のチャイルドスペースで、ジェンガをした。ジェンガは、バベルの塔のようにぐらぐらと揺れ動く移民問題のメタファーだ。その一連のパフォーマンスを8ミリフィルムで撮影し、映像インスタレーションとして展開している。
また、わざわざ愛知から授業に通っていた宇留野くんは、大型のオブジェを2点展示していた。滋賀の田舎出身でありつつ、金属工場に勤めていた経験から、彼の根拠地の引き裂かれた二重性──自然と人工──に焦点を当てている。作品の一つは、獣の頭骨を使ったキネティックアートだ。口腔に液晶ディスプレイが仕込まれ、頭部がモーターで動作していて、近付くと「ワン!」と鳴く。かつて飼い犬の「太郎」が失踪してしまったことを受け、近所の河原で拾った骨を機械仕掛けにして、新しい命を吹き込んだという。当然、太郎はもう死んでしまっているだろう。その亡骸がどこにあるかは、今も誰にもわからない。
*
〈骨〉の質感には、ちょうど身に覚えがあった。修了展の一週間前に、父方の祖母が亡くなったからだ。
年末から患っていた肺炎を拗らせていたが、死因はほとんど老衰に近いということだった。だいたい、ここ数年はもうすっかりボケていて、息子である父のことも判別できない有様。神奈川県大和市のつきみ野に住んでいたから、私たちは「つきみ野のおばあちゃん」と呼んでいた。
おばあちゃんの趣味は油絵で、近所の絵画教室に通っていた。だから、つきみ野の家にはたくさんの油絵が飾ってある。父や祖父の描いた絵も混じっていたが、多くはおばあちゃんの筆によるもので、そのほとんどは素朴な風景画だ。そんな家で、私は妹と絵を描くのが好きだった。油彩でこそなかったものの、鉛筆やペンや水彩で、よく漫画のキャラクターを模写したりしていた。
おばあちゃんの弟が画家だということは、小さい頃からなんとなく聞いていた。ただ、芸術家になるということで、いつかはよく知らないが、親類とは縁を切ったのだという。だから私も会ったことはないし、深追いしたこともない。父はかつて、その人、つまり父にとっての叔父に、絵を教わっていたらしい。その人は今でも、千歳烏山で画塾を運営しているということだった。
葬儀は、大和市の総合ホールで執り行われた。妻と早起きし、小田急江ノ島線の鶴間駅に降り立つ。冷たい雨がそぼふる中、郊外の味気ない大通りを歩いていくと、そのホールの前に母が立ってくれていた。私たち家族と、叔父一家、そして祖父の小規模な家族葬。パーテーションで仕切られ、告別式用に設えられた部屋に、おばあちゃんの遺体は横たわっていた。
形式的な手順を踏んで、出張のお坊さんがお経をあげると、湯灌の段になる。係の人に続き、一人ひとり布巾でおばあちゃんの頬を撫ぜていく。私はその間中ずっと、遺体というものが放つ無類の存在感に、ただただ圧倒されていた。
生前愛用していたという手製のワンピースが着付けられ、化粧が整えられる。そこから納棺の儀だ。男手で体を持ち上げると、重いようでもあり、軽いようでもある。魂が抜けて容れ物となった身体の、その名状し難い質量。
すっぽりと納まった棺桶の中に、花束、そして彼女に纏わる色々なものが入れられていく。祖父との海外旅行の写真、グラウンドゴルフのクラブ、私たちがその日に綴った寄せ書きの色紙。そして最後に、おばあちゃんの描いた油絵が胸元に据えられた。10号ぐらいのカンヴァス。一瞬、作品を燃やしてしまうことに躊躇したが、「おばあちゃんは油絵が好きだったから」と言う、祖父のたっての希望だった。キャプションも付いていて、タイトルは《乱舞》。真ん中に不死鳥が堂々と翼を広げ、その羽先から絵具が迸り、画面の端に進むにしたがって抽象的な色彩が渦巻いている。なんと力強い絵だろう、か細い彼女が描き上げたとは思えないくらい。
棺桶の小窓から、口々に別れの言葉を投げかける。喪主としてこれまで気丈に振舞っていた祖父が、おばあちゃん、今までほんとうにありがとう、感謝しているよと零すと、嗚咽が止まらなくなり、そこで私の頬にも現実感のないまま涙が流れた。
霊柩車で近くの斎場に移動する。等間隔にずらりと並んだ火葬炉の一つがうちのもので、お坊さんが再び念仏を唱えてから、おばあちゃんは炉の中に吸い込まれていった。
別室の食堂で御膳を食べ、親類と小一時間ほど世間話をしていたら、再び火葬場に呼ばれる。ガラガラと引かれてきた台座の上には、人型にお骨が寝そべっていた。
おばあちゃんは燃えていってしまった。あの油絵と一緒に。
骨の破片を箸でつまむ。ついさっきまで生々しかった肉体が、もう乾き切った物体に還元されている。大きな骨をぽきりぽきりと折りながら骨壷に渡していくと、全身の骨はあっという間に一抱えの桐箱に納まった。
私はその一連の速度を前に、ただただ眩暈に似た感覚を押し殺すので精一杯だった。
昔からよく、おばあちゃんは私に「大きくなったら油絵で肖像画を描いてちょうだいね」と言っていた。でも、私は油絵を描かずに、現代美術をやっていた。結局、その機会は永久に失われてしまったし、私が描いた油絵を見せてあげることもできなかった。
ちなみに、町屋にも立派な斎場がある。
先日ふと思い立って足を運んでみた。家からすぐ、ちょうど同じように雨の降る、まだ肌寒い日───町屋斎場を包んでいたのは、満開の桜だった。
そうだ、忘れてた、そんな時期だったと私は変に笑けてきて、でもすぐ泣きたいような気持ちになった。むろん、その樹の下におばあちゃんの屍体は埋まっていない。
(なかじま・はるや)
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