矢口英佑のナナメ読み #051〈『大熊信行と凍土社の地域文化運動』〉

No.51『大熊信行と凍土社の地域文化運動』

矢口英佑〈2022.4.27

 

書名に大熊信行、凍土社、『まるめら』と三つ並んでいる本書から、その関係性を即座に理解できる人は少数だろう。たとえ大熊信行と『まるめら』とを結びつけられる人でも大熊にとっての『まるめら』という歌誌の研究はほとんどなく、ましてや凍土社とのつながりとなると見えなくなる人が大多数にちがいない。

 

その理由は明瞭である。本書によって初めてこの三者の関係性が、そして地域の文化運動のありようが明らかにされているからである。その意味では、本書はこれまで誰も分け入ろうとしなかった曠野に足を踏み入れ、地べたを這うようにして粘り強く切り開いた先駆的な労作と言える。

 

著者の仙石和道はみずから〝大熊に狂った〟と友人に語っていたように、大熊の言説に触れれば触れるほど、次のような大熊評に大きな違和感を、もっと言えば、言いがかりと映っていたにちがいない。本書の「終章」に改造社の編集者を務め、『占領下の言論弾圧』などを書いた評論家松浦総三の大熊を批判した文を著者は敢えて引用している。

 

 戦中、大政翼賛会や言論報国会の幹部として、海軍の嘱託として肩で風を切って歩いた。しかし、敗戦になると、大熊は一転して、天皇制問題を取り扱うよう、総合雑誌編集者に手紙を書いている。戦中、あれほど〝大東亜戦争完遂のために〟〝言論報国〟した大熊が一八〇度転じて、天皇制を問題にしようとしているのだ。この変わり身の速さは、詐欺学者として大熊は一流であり、(中略)私たちが治安維持法で弾圧され、グウの音も出ないときに、かれは海軍や翼賛会や言論報国会で喜々と、はしゃぎながら活躍していた様を、目のあたり見た私たち世代には、大熊の「告白」は白けて見えた

 

この松浦の大熊評に対して著者は次のように記している。

 

 この指摘には、大熊自身の主宰していた『まるめら』や、大熊が執筆していた『同盟通信 時事解説』『時事通信社 時事解説版』の記事についての記述は何一つ見受けられない。大政翼賛会、大日本言論報国会で、大熊自身が権力を握っていなければ、松浦の論理に整合性はないのである

 

大熊が戦中、大政翼賛会や大日本言論報国会に所属していたのは事実であり、大熊自身、そこでのみずからの言論が一定の影響力を持つことを目論んでいた。だが、実際にはそうはならなかった。「国家科学」や「総力戦国家」を提唱し、大日本言論報国会理事に就任して国家権力に協力するつもりでいた。だが、内部には対立が存在し、大熊は『同盟通信 時事解説』『時事通信社 時事解説版』に大日本言論報国会について批判的言説を発表していた。結果として、機関誌の『言論報国』への文章掲載が許されず、言論闘争、そして権力闘争に敗れ、まだ戦中だったにもかかわらず、昭和19年には東京を離れ、故郷の米沢に引っ込んでしまったのだった。著者が「大熊自身が権力を握っていなければ、松浦の論理に整合性はないのである」と控えめに松浦を批判しているのは、その点を指してのことである。

 

大熊には戦争になったからには国策には従わなければならないという強い思いはあった。だが、やみくもに軍部の動向に追随し、旗振り役となって〝一億総玉砕〟を叫ぶような天皇主義者には批判的だったのである。しかし、戦中の大熊の立ち位置から言論統制を主導し、総力戦体制を唱えたとして戦後は評価の低い人物と見なされていた。しかも、戦後まもなくの1947年に発表した「告白」によって、戦中のみずからの言説を否定したことから前掲の松浦総三のような批判的な評価になっていたのであった。

 

こうした多くの批判的な評価に対して著者は次のように記している。

 

 そのような評価は、多方面の活躍をしてきた大熊の研究にとって不幸なことである。(中略)低い評価を是正するためにも『まるめら』の研究を通じて、大熊の再評価を目指す

 

と大熊研究の目的を示している。

 

その意味では、本書は大熊に低い評価を与えてきた人びとへの異議申し立てと大熊の名誉回復の書にほかならない。そして、総体としての大熊を浮かび上がらせるために著者が確かな手応えを感じた手段とは、歌人としての大熊への接近だった。この手段を著者に教えたのはほかならぬ大熊だったはずである。

 

日本が米英への宣戦布告をした1941年に出版された『国家科学への道』で、大熊は科学と生活は結びついていなければならず、「個々の知識の連鎖と配置であり、序列と系統化であり、そして総合である」と記している。さらに総合するものは「生活者の立場であり、そして生活者の立場は、現実には政治の立場である」というゆるぎない姿勢で貫かれていたことがわかる。

 

「政治の立場」の前提として「生活者の立場」があることを大熊は明確に述べていたのである。著者の仙谷はおそらくこの「生活者の立場」こそが大熊の思惟の根底にあることを見抜いたのだと思われる。一般的な評価としては経済学者、あるいは思想家と見られていた大熊だった。だが、この「生活者の立場」を彼の思惟的原点とするなら、大熊が主宰した歌誌『まるめら』による短歌革新運動での活動に著者が着目したのは慧眼であり、「大熊に狂った」著者からすれば、当然の道筋だったのかもしれない。

 

なぜなら、歌とはなによりもその歌人の心情を表出させるものであり、心の有り様を映し出すものだからである。しかも大熊は短歌革新運動で平仮名を用いて、定型から抜けだし、自由に自分の真情を歌うことを提唱していたのである。

 

こうして、これまで研究対象として追究されることがあまりなかった歌人としての大熊への接近が執拗に行なわれていくのである。ところが、この歌誌は「幻の歌誌」と言われるほど入手困難で、大熊と『まるめら』に関わる研究はほとんど手つかずのままだった。それだけに入手できた資料への著者の目配り、その分析は緻密で、片言隻句の意味をも見逃すまいとする手堅い研究姿勢には、なんとしても大熊の実像を明らかにしようとする執念すら感じさせるものとなっている。

 

まだ30歳半ばだった大熊は昭和2年から短歌革新運動に取り組み、口語による非定型短歌を提唱し始める。歌人としてみずからの歌を生み出し、みずからの短歌理論を広く展開するのに彼の情報発信の場として『まるめら』が重要な意味を持っていたことは言うまでもない。また、彼の主張に賛同する人びとの輪を広げる活動には寝食を忘れるほど積極的に関わり、人びとの中に飛び込んで行ったのだった。大熊の小樽高等商業学校時代の教え子の土田秀雄が柏崎商業学校に教員となる(昭和2年11月赴任)や「凍土社」が結成され、柏崎を中心として地域と結びついた文化運動として成果を上げていくのは、大熊との関わりがあったからである。著者の「凍土社」についての追究も執拗であり、大熊と土田の関わり、土田たちの柏崎における文化活動の実情が本書で初めて明らかになったと言えるだろう。

 

こうした短歌革新運動が一地方を中心に実践されていたことは、意想外と受け止められるかもしれない。悪評が多かった戦中の大熊の言動が広く知られていただけに、彼の地道な文芸活動を見えなくさせていた可能性は否定できない。

 

それだけに大熊の活動地域だった高岡(高岡商業学校の教員だった)や地元の「高岡新聞」「富山新報」等での言論が明らかにされているのは貴重であると同時に生活者の声が聞こえると言っていいだろう。それは著者の仙石にとっても大熊の総体を知る上で極めて重要であったはずである。

 

たとえば、大熊はこの2社の歌壇の選者でもあったが、大熊が投稿者の短歌評で「短歌とはいひながら、作者の感動にもとづかないところの固定した観念を表現した作品が多いのに、おどろきました」とした大熊評を著者の仙石は「いかにも大熊らしい評言」と指摘している。また大熊の「作品が健実なのは、生活が健実だから」として農民の歌を評価していたことから、やはり著者は「作品の技術的問題より、生活の堅実さを評価する視点」を指摘しているのである。

 

この作品評から35年後、前述した1941年執筆の「国家科学への道」で「総合するものは「生活者の立場であり、そして生活者の立場は、現実には政治の立場である」とした大熊の論述に微塵のズレもないことがわかる。

 

本書の冒頭に池田元による「序にかえて―仙石和道君の大熊信行研究について」が置かれ、次のように記されている。

 

 仙石君は、大熊その人の人間性に注目し、その活動の特質を追究すべく検討してきました

 

 仙石君の「人間大熊への執着」は深いものがあります。そこまで行けばあまりに主観的で、もう、学問ではないのかもしれません。しかし、「学問的」レベルを突き抜けた「人間的」レベルのまなざしこそが、仙石君の大熊研究の魅力なのです

 

まさに正鵠を射た言葉だろう。

 

(やぐち・えいすけ)

 

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