Ⅰ 日蓮の出自について
両人御中御書
日蓮の書簡に「両人御中御書」がある。大国阿闍梨(日朗)・衛門大夫志(池上宗仲)に与えた一二七九(弘安二)年ないし一二八〇(弘安三)年十月二十日の書簡である。真蹟は京都妙顕寺に残り、二紙二三行の短いもので、日蓮の書簡ではめずらしく冒頭に端書がある。折りたたんだ際、表書きとなるよう、本書の主旨を示したものと思われる。
ゆづり状をたがうべからず
大国阿闍梨・ゑもんのたいう志殿等に申す。故大進阿闍梨の坊は各々の御計らひに有るべきかと存し候に、今に人も住せずなんど候なるは、いかなる事ぞ。ゆづり状のなくばこそ、人々も計らひ候はめ。くはしくうけ給はり候へば、べん(弁)の阿闍梨にゆづられて候よしうけ給はり候き。又いぎ(違義)あるべしともをぼへず候。それに御用ひなきは別の子細の候か。其子細なくば大国阿闍梨・大夫殿の御計らひとして弁の阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給ひ候へ。心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそをもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすり(修理)して、ひろ(広)く、もら(漏)ずば、諸人の御ために御たからにてこそ候はんずらむめ。ふゆはせうまう(焼亡)しげし。もしやけ(焼)なばそむ(損)と申し、人もわらいなん。このふみ(文書)ついて両三日が内に事切て各々の御返事給ひ候はん。恐々謹言。
十月二十日 日蓮花押
両人御中
大進阿闍梨(日蓮の弟子)の生前の譲り状の通り、なぜ彼の坊を弁阿闍梨(日昭)に渡さないのか、と日蓮が日朗と宗仲に迫っている。「御用ひなきは別の子細候か」「心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそをもい候らめ」「人もわらいなん」「両三日が内に事切て各々の御返事」との文面から、日蓮の強い苛立ちが伝わる。
坊の所有者は大進阿闍梨であった。土地ではなく、坊を譲るのであるから、速く解体して日昭のもとに届けろ、と日蓮は迫る。
日蓮の主張は正当に思えるが、一つ大きな疑問がある。日蓮の立ち位置である。日蓮は門下に対して数多くの文書を残している。そのすべてが信仰に関係する激励や教示、供養に対する礼状である。ところが、この一書だけは、坊の移設に関することに終始する。もちろん、坊は教団の拠点となるから信仰と無関係ではないが、しかし、それは所有権が絡む問題である。たとえ弟子・檀那とはいえ、日蓮が口を差し挟める問題だったのか。
しかも、譲られる日昭と、叱責を受けている日朗・宗仲は親族である。日昭の甥の二人に、日蓮はどのような立場から強い指示をし得るのか。この文書は、「ゆづり状をたがうべからず」との表題から明らかなように、法的な権利の執行を強く求めたものだ。日蓮自身と日昭・日朗・宗仲の三者との親族関係を想定して、はじめて成立するものではないのだろうか。
—次回3月1日公開—
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