Ⅱ 日蓮と将軍家
はじめに
「日蓮の出自について」で、日蓮の父は伊東祐時、母は千葉成胤の娘であると論じたが、本論はそれに続くものである。
日蓮の血筋は源頼朝以来の将軍近臣につながっていた。門下も将軍家近くの名家に広がり、日蓮一門は、それまでに歴史の表舞台から消えたかに見えた将軍派が再結集したような教団である。この立場に立つと日蓮と教団が置かれた政治状況は、どう見えるか。この視点からの先行研究はない。
一二六六(文永三)年三月の引付衆廃止から、一二八五(弘安八)年十一月の霜月騒動までを通観し、将軍家と得宗家、得宗御内人の抗争を再考する。
日蓮と将軍家
日蓮の書簡に表れる将軍家への親近感は際立つ。頼朝が平氏を破ったことで、伊勢神宮を超えて日本第一となった東条御厨。その地から弘教を始めたことを誇る。
佐々木馨氏によれば、日蓮の書簡にみえる武士は計二七名。引用回数は一〇七回を数える。その中で頼朝一九回、清盛一八回、義時一五回の三名が群を抜く。清盛は王法を傾けた謗法の者、頼朝は清盛を破った勝者として登場する。日蓮は、自身の仏教的正統性の根拠を出身の東条御厨と頼朝に求める。佐々木氏は「日蓮における正統性とは、生地的・地理的正統性と頼朝的・歴史的正統性、および法華経的・仏教的正統性という三つの正統性が、いわば三位一体的に複合しつつ内在している」と述べる。
日蓮門下は将軍家と近かった血筋が多い。日蓮の葬儀に参列した源内三郎を筆頭に、比企氏・太田氏・工藤氏・平賀氏・池上氏がいる。太田氏を除き、日蓮の活動期には政治の表舞台から去っていた家である。
池上氏の由緒は次の通りである。摂政藤原忠平の三男忠方が将門の乱の際に下向し、現在の池上に居を構えた。六代正定は後三年の役で源義家に従って戦功があり、七代定友は石橋山の戦に参陣し、頼朝は八代友康に「蜂龍の盃」を贈る。現在も家督を継ぐ際に盃一杯を飲む。九代康光は一一九〇(建久元)年生まれ、一二六二(弘長二)年六月十六日に没し、最終官位は従五位下左衛門尉。母は三浦氏である。弟は康親で藤七郎という。康光の子が十代宗仲。母は伊藤二郎左衛門尉祐照の長女で、その弟に印東祐信と日昭。妹は平賀有国と忠治に嫁すという。
『吾妻鏡』の記事を列挙する。一二三八(暦仁元)年二月、将軍頼経の上洛で隋兵に池上康光の名がみえ、上洛中の同月、将軍の中納言任官の拝賀でも車警護十人に池上康親がいる。同年六月の頼経の春日大社社参で、将軍の輿の衛兵に康光、一二五〇(建長二)年三月の閑院殿造営の雑掌目録に、二条表の築地三本を奉仕した康光の名がある。一二五四(建長六)年六月、鎌倉中が物騒となった際、将軍宗尊のもとに参集した中に康光がいる。先の池上氏の由緒はある程度信頼してよさそうである。
池上氏も伊東氏と同様、将軍家の近臣であった。池上宗長は「御馬を預かり、御馬を出し入れする役だった」という。池上本門寺の寺域は広大で、当時であれば西に富士、東に江戸湾をのぞみ、三浦半島から房総を見渡す高台にある。北側に広がる台地は馬の調練場だったようで馬込の地名が残る。
富木常忍の父・土岐光行は、『尊卑分脈』で「実朝公大将拝賀之時隋兵」とあり、「土岐系図」(『続群書類従』第五輯下)でも「鎌倉実朝将軍近仕」と記す。母の下総局は御所の女房であり、常忍自身も閑院殿造営の雑掌を務めている。
「日蓮と政治」では、日蓮と政権との距離を決定づけた政治的な要因について、前期は反得宗の名越氏と近く、後期は安達泰盛との接近を指摘した。しかし、名越氏も安達氏もともに将軍近臣だった点を改めて考えたい。
北条義時が実力を蓄えたのは、頼朝の「家子専一」という将軍個人の信頼の高さによっていた。将軍家に仕える「家の子」は他の御家人よりも将軍に近く、子息が継ぐ。頼経が定めた近習の番で、江間(名越)光時は一番筆頭である。光時は「家の子」筆頭だったし、名越氏は将軍家の近臣として仕えてきた。
光時は祖父・義時の後を継ぎ、江間を本領として義時と同じ江間を名乗る。光時の子・親時も江間を名乗った。義時直系の本流意識の継承である。時頼が突然、義時の追号を「得宗」にして本家の証としたのは、江間を名乗れない苦肉の策だった可能性がある。
これまでも名越氏の家柄の高さは指摘されてきた。しかし、その高さの根拠は明確ではなかったと思う。それは将軍家との近さであり、官位の高さに表れているのではないか。官位の推挙は将軍の専権である。『尊卑分脈』で貞時までの執権・連署と名越氏の官位を比較する(表4)。
〈執権・連署〉 *( )は連署
従五位下:時政
上:長時
従四位下:義時・時宗・貞時・(重時)
上:政村
正四位下:泰時・時頼・(時房)
〈名越氏〉
従五位下:光時・時章・時長・時幸
上:教時
正五位下:公時
従四位下:朝時
朝時は、執権義時・時宗、連署重時と並ぶ官位を与えられ、二月騒動で殺された教時が執権長時と同位である。時章の嫡男・公時は長時を超える。
将軍頼経は一二三八(暦仁元)年十二月二十三日から二十五日まで、方違のため朝時の名越邸に逗留する。一二五〇(建長二)年十二月二十七日の近習の結番で将軍頼嗣は、一番の筆頭を時長、次いで時兼・教時として名越三兄弟を指名する。時基も一二五三(建長五)年元旦の年始の儀で、兄・教時とともに御馬を引き、その後も将軍宗尊の供奉を記す記事が多い。時章の嫡男・公時も、一二四八(宝治二)年四月二十日の三島社奉納の小笠懸で射手を務めた後、頼嗣・宗尊の近習として仕え、一二六〇(文応元)年二月二十日には廂御所(宿直警護)の一番となっている(以上『吾妻鏡』)。
名越氏は常に将軍派であり、教時のような急進派もいた。
二月騒動については議論がある。一つは、名越氏など反対勢力の排除のため得宗家が先制攻撃を仕掛けた、との説である。「日蓮と政治」ではこれに従い、日蓮の活動を前期と後期に分けることになった。もう一つは、文永年間を通じて得宗家が警戒したのは将軍家の伸長であり、二月騒動は将軍派への先制攻撃だった、との説である。
南基鶴氏が提示した後者の説は、将軍派の中心に教時を挙げる。一二六六(文永三)年七月、教時は宗尊追放の際、軍兵数十騎を率いて現れ、時宗の制止に陳謝しなかった。京で討たれた時宗の異母兄・時輔は将軍派である。所領を没収された安達頼景も一二五四(建長六)年六月に「鎌倉中物騒」となった際、池上康光と同様、将軍のもとに参集した一人だった。同じく京で召篭めとなった中御門実隆も宗尊に近侍した貴族だった。宗尊は騒動後の二月三十日に出家する。事件との関係が疑われる。南氏は指摘されないが、二月騒動は教時の兄・光時が処分された宮騒動と瓜二つの構造をもつ。
日蓮は、「ながされずして、かまくら(鎌倉)にだにもありしかば、有りしいくさ(戦)に一定打ち殺されなん」と述べ、「去年(文永八)より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦。其より今五月のすえ、いまだ世間安穏ならず」とする。得宗派から将軍派とみられていると日蓮は自覚し、一般に知るはずがない合戦の動きを早くに察知している。日蓮の情報網が将軍派に伸びていた証だろう。教時は、母(名越の尼)も妻(新尼)も著名な日蓮門下だ。
伊東氏も名越氏と似る。「家の子」だった祐時が亡くなると、後継に将軍家が六男祐光を指名する。二月騒動では、伊東祐光の甥にあたる康祐が京都で討たれるが、その父・祐景の家督は弟・盛祐が継ぐよう将軍家が指示していた。将軍家の介入と、祐光・祐景がともに千葉氏の母をもつとするのは偶然だろうか。私は、日蓮の母は千葉胤正の嫡男・成胤の娘であるとした。胤正は、頼朝が寝所の警護にあたらせた一一人の「家の子」の一人であり、成胤も死の直前に実朝が見舞い、忠義を賞して「子孫については特に目をかけよう」と約している。
日蓮は、承久の乱の朝廷の敗北を語るのが常だった。それが幕府や御家人に強い影響を持つと知っていた。日蓮は承久の乱を母の胎内で過ごし、父・伊東祐時は膨大な所領を安堵される。上皇に反抗する前代未聞の戦は、鎌倉殿の御恩に報いるとの大義が貫いていた。この主従関係は御家人に代々継承された。鎌倉末の小代伊重(宗妙)の置文は、頼朝時代の勲功も、後の不当な処分も代々将軍家は伝承しているから、時の将軍に奉公せよと遺言し、筆致に迷いがない。伊重の態度は鎌倉末の御家人の在り方として当然だった。日蓮の時代に、将軍家に忠誠を尽くす御家人の集団があって不思議はない。
日蓮没後、得宗家執事の平頼綱が奇襲により安達泰盛の軍勢を滅ぼす。霜月騒動である。安達側の死者に、日蓮門下の一族と思われる者がいる。池上藤内左衛門尉・南部孫二郎・綱島二郎入道である。伊東三郎左衛門尉の名もみえ、景祐か祐家とされる。いずれも日蓮の甥だ。日蓮が曼陀羅を与えた千葉胤宗も兵を率いて御所の警護にあたっている。
泰盛は得宗家との強い血筋を結ぶとともに、将軍「家の子」でもある。一二七〇(文永七)年三月七日、将軍惟康の元服後の方違は泰盛邸だった(『鎌倉年代記裏書』)。村井章介氏は、『吾妻鏡』の分析から「将軍の親衛軍ないし側近の名簿には、かならず泰盛の名がみえる」とし、「御所の近辺に『宿所』を構えていた」と指摘された。得宗家執事として力をつけた頼綱と、将軍家と得宗家のバランスの上に御家人統治の安定を図った泰盛とは、代表する利益がちがって当然である。その熾烈な闘争の結果として霜月騒動があった。
こう考えると、将軍家の近臣・縁者が結集したような日蓮の教団が、頼綱と泰盛の抗争に強く影響を受け、振幅したのは必然だった。「日蓮と政治」において、日蓮と幕府との距離を決定づけた政治的な要因について、前期は名越氏との近さを、後期は安達氏との接近を挙げたが、実は、前後期を通じて将軍家との近さが問題だった。
—次回12月1日公開—
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