Ⅲ 日蓮と政治
安達泰盛と平頼綱の抗争
日蓮の後期(一二七二-八二)は、時宗の治世にあたっており、この時期、幕府内では安達泰盛と平頼綱との抗争が進行していた。泰盛は、御家人の棟梁であり執権外戚として東国武家の利益を代表する存在であった。一方の頼綱は被官の立場にありながら、御内人と呼ばれる得宗家との私的な関係の強さに乗じて幕政に深く関与してきていた。
特に名越家の凋落を決定づけた二月騒動は、御内人(得宗被官)の頂点である頼綱の指揮によって準備された名越家への攻撃であったが、結局、無実の時章を誤殺したとして射手だった御内人を処刑し、事態の収拾が図られている。これは、御内人主導で起こされた事件に対して外様(御家人)の代表である泰盛らが異議を唱え、逆に御内人を処分した逆転劇であった。事件は、頼綱と泰盛との本格的な闘争の幕開けと位置づけられよう。後期における日蓮と教団に対する処遇の変化は、頼綱と泰盛の抗争と深く関連していたと考えられる。
ここで日蓮の大檀那である比企能本の存在に注目したい。能本と泰盛はもともと縁戚関係にあり、清田義英氏が指摘されたように、能本は泰盛の書の師匠でもあったようだ。この能本―泰盛の関係が、これ以降、日蓮と教団の立場を決定づけていく。頼綱による日蓮斬首の企ても、能本の尽力によって泰盛が日蓮に味方した結果、時宗が処刑の回避に動いたものであろう。また二月騒動においても、泰盛の逆転劇と符節を合わせて日蓮の弟子が入牢を解かれ、日蓮自身も塚原から一谷入道のもとに移されて待遇が改善されている。佐渡配流中、日蓮を預かった大仏宣時は、三度にわたって偽の御教書を発行して日蓮を圧迫したが、細川重男氏の指摘によれば宣時は頼綱派である。竜ノ口で夜間の日蓮斬首に失敗すると、宣時は預かり役でありながら早朝に鎌倉を離れ、熱海の湯に向かう。泰盛派の巻き返しを予測した意図的なサボタージュであろう。また、佐渡で念仏者が日蓮斬殺を謀った際、佐渡守護代だった本間重連が、「殺してはいけないとの上からの副状がある」ことを明かし、謀議を退けている。配流中も、常に両者の息詰まる攻防の渦中に日蓮の身があったことが伺える。
さらに一二七四(文永十一)年二月十四日の配流赦免も、前年に連署と武蔵守とに任官して日蓮を預かった塩田義政が、実は泰盛派だったという本郷和人氏の指摘に従えば、ここにも泰盛の影響をみることができる。日蓮が先の偽御教書の不法を時宗に訴え出て、赦免に繋がるのだが、直訴のタイミングは能本と泰盛が計ったに違いない。ちょうど赦免直前の十二日に鎌倉で合戦があり、名越親時も攻められた。親時はこれを無事に乗り越えて戦いは収束している。赦免の手配はこの合戦を契機に整えられたのだろう。日蓮は後に能本へ並々ならぬ感謝を伝えている。日蓮の待遇の改善は、いずれも頼綱派の伸張を泰盛派が押さえ、泰盛派が優位に立った時に行われたものと考えられる。
また、佐渡に配流中、門下が鎌倉で赦免を求めて動こうとするのを、日蓮は強く制止する。そしてこれを守らない者は、日蓮の弟子ではないとまで厳命した。これも門下の動きが政治的に利用されることを警戒したからに違いなく、日蓮が鎌倉の政治動向、特に頼綱と泰盛の抗争を強く意識していた証左である。蒙古の攻めは天の治罰であると政権を責め立てて門下の宗教的情念を駆り立てつつも、実際の運動をいさめる日蓮の指示には、現実政治を見極める冷徹な眼があったといえよう。
身延入山後、日蓮個人に対する弾圧は終息する。一方、建治年間には頼綱派の伸張と符節を合わせ、門弟に圧迫が加えられた。特に連署義政の遁世と処分があった一二七七(建治三)年六月、四条頼基は讒言をもとに「法華棄経」の起請文を書くよう迫られ、十月に頼綱が寄合衆に加わると、池上宗仲、宗長の兄弟も同様の圧迫を受けて、宗仲は父から勘当される。弾圧の狙いが日蓮本人から、門弟と日蓮の離間に移ったようすがうかがえる。ところが、これらの弾圧も、ほぼ時を同じく「上の御一言」で終息しており、これも泰盛派の動きと無関係ではあるまい。
一方、佐渡流罪によって衰えた教勢は、蒙古襲来の動きを受けて息を吹き返し、教線も拡大していた。日蓮はこの時期、頼綱を筆頭とする御内人を「獅子身中の虫」と言い、「守殿の御恩にてすぐる人々が、守殿の御威をかりて人々を脅し、悩まし、わずらわし候」と痛烈に批判する。これに反駁する頼綱や忍性などが、攻撃の機会をうかがっていたことは想像に難くない。背後には後家尼が、得宗家を象徴する存在として控えていたであろう。
後期の日蓮教団は、後家尼(得宗家)―頼綱(御内人)―忍性(諸僧)という御内人に連なる勢力と対峙し、泰盛と頼綱のしのぎを削る対立抗争の内に揺れていたのである。
江間浩人
—次回7月1日公開—
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