『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.010

Ⅰ 日蓮の出自について

 

母の血筋

では、日蓮の母は誰を想定できるか。祐時には系図で、祐朝・祐盛・祐綱・祐明・祐氏・祐光・祐景・祐忠・祐頼・鷺町主・伊東院主の一一男と七女がいる。そのうち母が分かるのは六人。土肥遠平の娘を母とする祐朝・祐綱、佐伯氏を母とする祐明、三浦氏か千葉氏か土御門大臣の娘を母とする祐光・祐頼、千葉氏か妾を母とする祐景である。

 

以前から指摘されているのが、日蓮と千葉氏との関係の深さだ。日蓮は富木・太田・曽谷など千葉氏と縁の深い門下と終生、強く連帯し、安房を追われた際も下総で鎌倉に向かう準備を整えている。連署だった重時を背後に持ち、日蓮を追った東条氏にはばかることなく、下総で日蓮が安全に過ごせたのは千葉氏の庇護があってのことだろう。

 

さらに、一一代当主・胤宗と宗胤の兄弟は一二七六(建治二)年に父・頼胤の一周忌に日蓮から曼荼羅を送られ、宗胤の嫡子・胤貞は子息を中山法華経寺の第三祖とする。千葉氏には、頼胤の時代から日蓮との直接的な交流が想定される。日蓮が立正安国論を与えた八木胤家は、頼胤の幼少時に後見だった相馬一族だ。日蓮の親族に千葉氏と結ぶ血縁があったと連想させる。日蓮の父・祐時の母は、頼朝が父とも慕った千葉常胤の娘であり、祐時自身も頼朝の命で千葉常重の幕紋を譲られた。祐時の子で母に千葉氏の名があがる者に、祐光・祐景・祐頼がいる。伊東氏と千葉氏の血縁は深いが、それは頼朝が望んだ結果だったと思われる。

 

日蓮が自身の母に触れた貴重な書簡がある。尾張刑部左衛門尉殿女房に宛てた一二八〇(弘安三)年十月二十一日のものだ。冒頭「今月飛来の雁書に云く、此十月三日、母にて候もの十三年に相当れり。銭二十貫文等云々」とあり、母の一三回忌と、その供養が述べられる。そして、父母の恩の重さを語り「母の御恩の事、殊に心肝に染みて貴くをぼへ候」、「母の御恩忘れがたし」として、その孝養の重要性を強調した上で、法華経こそ釈尊が孝養のために説いた経であり「日蓮が心中に第一と思ふ法門也」と記す。

 

さらに「日蓮が母存生してをはせしに、仰せ候し事をもあまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候があながちにくや(悔)しく覚へて候へば、一代聖教を撿へて母の孝養を仕らんと存し候間、母の御訪ひ申させ給ふ人々をば我身の様に思ひまいらせ候へば、あまりにうれしく思ひまいらせ候」と述べる。生前にできなかった孝養を日蓮に代わって行ったことへの感謝を伝えており、「母の御訪ひ」とは墓参の意だろう。この書は、刑部女房が日蓮の母の一三回忌を報告し、その返書だと理解できる。刑部女房と日蓮は親族にちがいない。

 

そこで伊東氏の系図で刑部左衛門を探すと、祐時の八男・祐頼がいる。祐頼は祐光と同母を持つ。日蓮と祐光・祐頼は兄弟になる。これに祐景を加えることも可能だ。「母の御訪ひ申させ給ふ人々」は、彼らの墓参を指すにちがいない。この墓参で「定めて過去聖霊も忽に六道の垢穢を離れて霊山浄土へ御参り候らん」と日蓮は記している。

 

一方、日蓮の書簡で、日蓮を昔から支援してきたと分かる女性に富木常忍の妻がいる。「たうじ(当時)とてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわびしく候し時より、やしなはれまいらせて候へば、ことにをん(恩)をもくをもいまいらせ候」とある。『御書略註』は、富木常忍の母は千葉胤正の娘で「下総局」と呼ばれたとする。

 

「胤正は実朝公に給仕し玉ふ、然るに中山四郎重政和田義盛に同意する故に処領を召し上られ、其の跡を下総の局尼等並に問注所の奉行等に賜はる。富木殿の母の知行也。問注所の役人は太田・大野・曽谷・道野辺等也。故に中山辺りは奉行博士等雑居する処也」

 

中山の領主だった重政が、一二一三(建保元)年の和田合戦で和田方について幕府軍に敗れたため、所領が召し上げられて、下総局と太田・大野・曽谷・道野辺などの問注所の役人に分配された。だから、中山周辺には問注所の役人が集まった、という。さらに続く。「然るに千葉の介頼胤は千葉の六代目にて遠といへども現に御伯母の下総の局は存命にて殊に近処なる故に相替らず往復す」。頼胤も下総局を訪ねていたという。

 

檀那の中で、日蓮と富木の近さは格別だ。太田や曽谷への教導を託し、日蓮に圧迫があると直ちに富木に知らせている。一方、他の門下にはみせない弱音さえも、富木には吐露しており、日蓮が唯一、門下の家を訪ねたことが確認できるのも富木だけである。佐渡流罪で日蓮の手元から経典・注釈書などが散逸した際、太田と曽谷に急いで収集して、すぐに送って欲しいと懇願する。その時、日蓮は二人の越中の所領内にある寺々の蔵書の豊富さを知っていて、そこから調達するよう指示した。

 

千葉氏と日蓮の間に幾重にも結ばれた深い関係は、日蓮の母の縁によるものとみて間違いあるまい。富木が母(下総局)の遺骨を日蓮に届け、現在も身延の草庵跡の裏に墓所が残る事実は重い。日蓮の存命中に、日蓮に遺骨が届けられ墓所が残るのは他に佐渡の檀那阿仏房しかいない。阿仏房の場合、本人の遺志に従ったと推察できるが、日蓮が墓所を抱えるのは極めてまれだ。富木も亡父をおいて母の遺骨を納め、日蓮と富木の母との特別な関係がうかがえる。富木の母を日蓮の伯母(叔母)としても不自然ではない。

 

私は、日蓮の母は伊東祐時に嫁した千葉成胤の娘だと考える(表3参照)。日蓮の父方の伯母が妙一尼であり、母方には下総局がいる。日昭は父方の従兄弟、富木は母方の従兄弟になる。

 

千葉胤貞は日蓮が曼荼羅を送った父・宗胤の遺骨とともに、「名越殿の遺骨」を保持していた。千葉氏と名越氏の深い関係が伺える。史料はないが、当然、血で結ばれた親族関係があったのだろう。その濃密な関係の中に日蓮もいたことになる。

 

ここで、後世のものだが、気になる文書がある。一七八五(天明五)年著作の『祖書綱要刪略』(日導著・日寿編)にある。

 

「名越に三尼あり。一にいわく大尼・名越遠江守朝時の妻なり。二にいわく中尼・名越尾張守時章の妻なり。夫婦一同に剃髪す、これを名越の尼御前という。大尼は豆司村に移り、これを豆司の尼御前という。三にいわく新尼・名越尾張守公時の妻なり。文永九年二月十一日、公時誅せらるすなわち尼となり、大尼と駿河の浮島原に蟄す。大尼はもとこれ高祖大檀越、祖を名越に居たれるは一に此の尼の手に出たり。龍口の厄に臨むにおよんで高祖を棄て損なる」

 

名越には、大尼・中尼・新尼の三尼がいて、朝時の妻・時章の妻・公時の妻だった。大尼は伊豆の司村にいたが、二月騒動で公時が誅殺されて妻が尼になったので、一緒に駿河の浮島が原に住んだという。ここで公時というのは、教時の間違いだろう。公時は誅殺されず、父・時章の家督を継いだ(表4参照)。

 

続けて、大尼が以前から日蓮の大檀那で、名越に日蓮が草庵を構えたのは大尼の手配だという。ところが二月騒動の前年九月の弾圧で、大尼は日蓮のもとを去った。この点は日蓮の書簡から確認できる。先の名越三尼の記事を全否定するのは難しい。話の骨子は、日蓮の書簡や歴史的事実に符合する箇所も多い。逆に、日蓮の書簡に合わせて物語を創作したのなら、公時と教時の取り違いは不用意に過ぎる。当時、日蓮の信徒に伝わっていた話をもとにしたものだろう。全面的には採用しかねるが、慎重に検討をすれば十分に活用できると思う。

 

日蓮が安房での難を逃れ、下総の中山で待機している間に、朝時の妻が名越の谷戸に日蓮の居宅を用意したと考えられる。当時、鎌倉の谷戸は多くの場合、幕府から御家人に与えられる貴重な宿館用地だった。仮に朝時の妻でなければ、時政の名越邸や、政子が実朝の御産所ともした浜御所があった名越の要所に、いったい誰が土地を提供できるのか。ここにも、千葉氏・日蓮・名越氏の深い関係がうかがえる。朝時の妻は北条政子の弟・時房の娘で、教時を産んでいる。

 

江間浩人

 

 

—次回8月1日公開—

 

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