『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.007

Ⅰ 日蓮の出自について

伊東一族

日蓮は、一二六一(弘長元)年五月に伊東に囚われた。伊東での預かりは、伊東八郎左衛門尉祐光だとされる。伊豆川奈の船守弥三郎に宛てた書簡に、

 

「当地頭の病悩について、祈せい申すべきよし仰せ候し間、案にあつか(扱)ひて候。然れども一分信仰の心を日蓮に出し給へば、法華経へそせうとこそをもひ候へ」

 

とある。病に苦しむ地頭から祈祷するように言われて思案したが、日蓮に一分の信仰心を示したので法華経に訴えることにした。地頭の病は治り、仏像を与えられた、という。

次に、日昭に宛てた書簡である。

 

「伊東の八郎ざえもん、今はしなの(信濃)のかみ(守)はげん(現)にしに(死)たりしを、いのりいけ(活)て、念仏者等になるまじきよし明性房にをくりたりしが、かへりて念仏者真言師になりて無間地獄に堕ぬ」

 

日蓮の書簡で、祈って命を長らえたと書くのは、これ以外に「母の寿命をのべた」とする一例しかない。前者の地頭と伊東八郎左衛門は同一人物とみてよかろう。また、他の書簡にも「弘長元年辛酉五月十二日には伊豆国伊東の荘へ配流し、伊東八郎左衛門尉の預かりにて三箇年也。同しき三年癸亥二月二十二日赦免せらる」とある。

 

ところで、なぜ日蓮は配流されたのか。原因は一二六〇(文応元)年七月十六日の「立正安国論」の提出とされてきた。しかし、日蓮の処分は翌年の五月で、少し間があり過ぎる。「立正安国論」で批判された念仏者たちは要人と謀って、一か月後の八月二十七日に日蓮を襲撃したという。鎌倉市中で騒動があるのに、その処分に一〇か月が必要だろうか。むしろ、配流翌年の叡尊の下向との関連を考えたい。

 

北条氏は一二六一(弘長元)年、律僧・良観房忍性を新清涼寺に迎えたが、忍性からその師である叡尊の高名を聞いた時頼・金沢実時は叡尊を鎌倉に招こうとした。北条一門は授戒を強く切望していた。下向の検討がはじまった時期は不明だが、同年十月、金沢実時が奈良西大寺に念仏者を使者として送る。十一月六日の極楽寺重時の葬儀では忍性が導師を務めた。十二月には時頼が寺領の寄進を申し出て、叡尊はそれを断り、翌年一月に時頼と実時が、改めて念仏者を立て下向を懇請した。懇請の理由は次の通り。

 

「近年、鎌倉では僧侶同士が争論し、在俗の者たちの性根も益々猛々しくなって、因果の理法をわきまえていない。是非、叡尊上人の化導によって安穏にしたい」

 

高木豊氏はこの僧侶の争論に、日蓮と念仏僧・道教房念空の法論を想定した。現在、確認できるのは一二六一(弘長元)年十二月の内容だが、懇請理由が二転三転するとは考えられない。当初から日蓮の争論は問題視されていたと思われる。

 

叡尊に高評価を得ることは、京と鎌倉の力関係に直結する政治問題だった。北条氏は、周到に準備を進めたはずである。ところが日蓮は鎌倉で盛んに「念仏は無間地獄の所業」と訴えている。叡尊下向の立役者である忍性は、念仏も唱導していた。叡尊に懇請する際の使者も念仏者である。政権が日蓮を鎌倉から遠ざける判断をしたのは当然だろう。

 

日蓮は、「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に、親の御心を知りて理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ」として、執権長時の配流決定は、親の重時の心を知っていたからだ、とする。「両火房は百萬反の念仏をすすめて人々の内をせきて、法華経のたねをたたんとはかるときくなり。極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給ひ」。忍性は念仏を勧めて人々を囲い、法華経の種を断とうとした。重時は素晴らしい人だが念仏者に騙されて日蓮を怨んでいた、という。重時は、一二六一(弘長元)年十一月に亡くなる。発病当初から、ひたすら念仏を唱えての臨終だった。忍性に厚く帰依していた証だ。その後の日蓮との敵対関係を考えると、叡尊下向を検討した当初から、忍性は日蓮の放逐を迫っていた可能性がある。

 

日蓮は、伊東への放逐について、「日蓮去る五月十二日流罪」、「禁獄を被る法華の持者」、「此の流罪の身になりて」、「弘長元年辛酉五月十二日に御勘気をかうぶりて、伊豆の国伊東にながされぬ。又同しき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ」とあり、流罪・禁獄と認識している。そして一二六三(弘長三)年二月二十二日、わずか一年九か月あまりで赦免されている。

 

この間に幕府は叡尊を鎌倉に迎え、数多く授戒され、京に帰している。特に北条一門の叡尊への帰依は著しかった。日蓮の伊豆流罪は、明らかに日蓮を鎌倉から一時的に遠ざける目的で行われており、幕府に日蓮の処刑という意思はなく、伊東から戻った日蓮も宗教的態度に変化は見られない。

 

幕府は、御家人への処罰として、しばしば鎌倉からの放逐を命じ、その政治活動を停止させた。後の日蓮の評定でも、「御評定に僉議あり。頸をはぬべきか、鎌倉ををわるべきか」と鎌倉追放が挙がっている。その場合の放逐先が本貫地の場合がめずらしくない。鎌倉での政治活動の停止が目的だから、自分の本領に戻り、大人しくしていろ、ということだ。牧氏の乱や宮騒動・霜月騒動で配流された北条時政や江間(名越)光時・金沢(北条)顕時も、本貫地の伊豆の北条邸や江間邸・下総国埴生庄に追放された。それから類推して、日蓮が流された伊東は、実は日蓮にとって本貫地ではなかったのか。

 

日蓮は伊東にいる間に、本朝沙門日蓮として「教機時国抄」と「顕謗法抄」の論文を仕上げ、その後の宗教活動の理論武装に努めている。手元に置いた経典・注釈書の資料も多かったに違いない。紙料や筆・硯をはじめ必要な物資もそろい、学究生活を送るにふさわしい静謐な環境が整えられていた。

 

佐渡でも身延でも、日蓮には弟子が身近にいて、下人が細々と世話を焼いている。伊東でも、同様の生活が担保されたはずだ。佐渡では、日蓮の身柄を預かった本間六郎も一の谷入道も、命を狙う者から日蓮の身を護った。処分者の安全を守り、処分を完遂する。それが、身柄を預かる者の役割だった。伊東では、祐光にその責があり、幕府には祐光に預ける理由があった。それは、日蓮の本貫地だったからと考えるのが自然である。

 

江間浩人

 

 

—次回5月1日公開—

 

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