『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.017

Ⅱ 時宗と日蓮

 

 

時宗と日蓮

 

日蓮の活動期は時宗の成長と執権期に重なる。将軍は宗尊と惟康。この時代に時宗と日蓮は何を目指していたのか。最後に、この点を考える。

 

細川重男氏は、時宗が描く理想は将軍・源頼朝と執権・北条(江間)義時の治世だとされた。細川氏は、得宗専制政治の論理を次のように提示する。

 

「源頼朝の後継者である鎌倉将軍の『御後見』として、北条義時の後継者である得宗は、八幡神の命により鎌倉幕府と天下を統治する」

 

この理想のために、将軍だった惟康は七歳で皇族から離れて源氏賜姓を受け、「源朝臣惟康」となり、親王将軍ではなく源氏将軍になる。これで「源頼朝の後継者である鎌倉将軍」誕生の準備を整え、頼朝をなぞり官位も正二位、右近衛大将へと昇る。源氏将軍惟康を後見するのが、義時の後継得宗の時宗だ。将軍源惟康・得宗北条時宗の体制を準備したのは、時宗自身だと細川氏は指摘された。清和源氏の氏神の八幡神を、鎌倉幕府・関東の守護神として鶴岡八幡宮に勧請した。時宗の理想には、八幡神の守護により、将軍・得宗体制は国を安穏に統治するという論理を含む。

 

この指摘を踏まえて、次の日蓮の書簡を見たい。一二八〇(弘安三)年、四条頼基に送ったものである。

 

「八幡大菩薩の御誓ひは、月氏にては法華経を説て正直捨方便となのらせ給ひ、日本国にしては正直の頂にやどらんと誓ひ給ふ。(中略)かならず国主ならずとも正直の人のかうべにはやどり給ふなるべし。然れば百王の頂にやどらんと誓ひ給ひしかども、人王八十一代安徳天皇・二代隠岐法皇・三代阿波・四代佐渡・五代東一條等の五人の国王の頂にはすみ給はず。諂曲の人の頂なる故也。頼朝と義時とは臣下なれども其頂にはやどり給ふ。正直なる故か」

 

八幡神の誓いは、月氏では法華経を説いて正直に方便を捨てよと宣言し、日本では正直の人を守護すると誓った。だから、たとえ国主でなくても正直の人は守護される。源平・承久の乱で敗れた上皇・天皇には八幡神の守護がなかった。心が曲がった人だからだ。頼朝と義時は、臣下の身分だが八幡神の守護があった。正直だったからである、と日蓮は言う。さらに、

 

「此を以て思ふに、法華経の人々は正直の法につき給ふ故に、釈迦仏猶ほ是をまほり給ふ。況んや垂迹の八幡大菩薩争でか是をまほり給はざるべき。(中略)我一門は深く此心を信ぜさせ給ふべし。八幡大菩薩は此にわたらせ給ふ也」

 

このことから考えて、法華経の信者は正直の法についたから釈迦仏が守護する。どうして垂迹の八幡神が守護しないことがあろうか。日蓮一門は、深く八幡神の誓いを信じなさい。八幡神は我々を守護します、と記す。頼朝・義時・日蓮一門は正直であり、だから八幡神が守護するという。先にみた細川氏による時宗の理想と、日蓮の説く世界が重なっているのは明らかだ。日蓮は、頼朝・義時の列に加わり、安達泰盛らとともに時宗の理想を共有していた。頼朝・義時を範とするのは当時の御家人、特に将軍家に仕える人々には当然だったはずである。その共通認識がなくて、日蓮が先の書簡を注釈なく将軍家に仕える四条頼基に与えるとは思えない。

 

時宗没後に、泰盛が進めた幕政の改革(弘安徳政)も、貞時を時宗の後継として理想を追及した結果にちがいない。一二八四(弘安七)年五月二十日に発布された「新御式目」は、将軍の直轄地の確保をはじめ、惟康が将軍として持つ権限の尊重をあえて規定する。これを村井章介氏は「泰盛が将軍権力の実質化を徳政の根本に据えた」とされ、本郷和人氏は「泰盛は武士の主人として源氏将軍の復活を意図していた」とされた。

 

一方、泰盛と対峙した平頼綱は、霜月騒動で将軍派を一掃した後、細川氏の指摘の通り、一二八七(弘安十)年九月二十六日、惟康の大将を辞任させて再び皇室に戻し、改めて親王宣下を受け、源氏将軍から親王将軍にした。この後、いかに頼綱が得宗家に権力を集中したかは、得宗家の私的機関の寄合が評定に代わったことを指摘すれば十分だろう。

 

一二四六(寛元四)年の宮騒動も、頼朝・義時の真の後継は将軍頼経・執権江間光時であると、経時の死を契機に将軍執権の復古を目指したのではないか。処分されたのは将軍派だ。日蓮は、「宝治の合戦すでに二十六年、今年二月十一日十七日又合戦あり」と述べ、二月騒動と一二四七(宝治元)年六月五日の宝治合戦を併記する。つまり宝治合戦から二月騒動、そして霜月騒動まで対立軸は一貫していた。日蓮と門下の視点に立つと、そう見える。

 

宝治合戦直後の十月十四日、三浦氏を滅ぼした時頼は御所移転を計画する。義時・泰時も自分の邸内に御所を取り込もうとした。時頼も当時八歳の将軍頼嗣を抱えようとした。しかし、この計画は頓挫する。これを将軍派の抵抗の結果と考えたい。また、一二五一(建長三)年十二月、頼経・頼嗣の近臣だった足利泰氏が突然出家し、所領を没収され本領に逼塞する。直後、九条家とも近かった千葉氏の了行法師や千葉頼胤近親の矢作常氏らが謀反の企てを理由に処刑される。翌年、これに頼経が関係したとして頼嗣の廃立が決まる。泰氏の出家も将軍派としての動きにちがいない。臼井信義氏は、泰氏の孫・家時は将軍惟康が久明に代わった一二八九(正応二)年ごろに自殺したと推定され、網野善彦氏は、泰氏から家時へと続く足利家が「独自な伝統をひそかに保持していた」とされた。「独自の伝統」とは、将軍家への忠義ではないか。「ひそかに保持していた」ように見えるのは、当時、将軍家忠臣の存在は当たり前で記録に残す必要がなかったか、それを記すことが危険だったからだと思う。

 

一方、二月騒動以降、頼綱を筆頭とする御内人が目指したのは、得宗家への権力の集中と得宗の無力化である。自己権益の増進にそれが必要だった。「新御式目」は得宗被官に、毎日の出仕・礼儀礼法・訴訟介入の禁止・廉直を要求した。得宗被官に得宗への奉仕と礼節を求めたのは、得宗被官が得宗をないがしろにし、横暴に振る舞い、幕政に介入した証左である。後深草院二条による『とはずがたり』には、一二八九(正応二)年三月から翌年九月までの鎌倉の体験記が載る。そこに頼綱一家の異様さが語られる。子息たちは得宗の威を傘に関白のように振舞い、将軍といえども敗者には徹して冷酷であり、ことさら官位を誇り、御所よりも絢爛豪華な館に住み、乳母として得宗を顎で使う着飾った妻、下品な主人である。二条は驚きのなかで活写する。

 

一二七一(文永八)年の時点で、日蓮は頼綱を「天下の棟梁」とする。すでに幕政を左右する力を持っていた。ここから彼らを得宗御内派と呼んでいいだろう。時宗をはじめ、泰盛・日蓮などは将軍執権派と呼ぶのがふさわしいと思う。

 

この視点は、一二八三(弘安六)年の業時の連署就任、時宗・泰盛の徳政改革の準備、一二八四(弘安七)年四月の時宗の若すぎる突然死、五月から開始された改革、六月の佐介時国の南方探題解任と殺害、それによる大仏宣時の上昇、十月以降に打ち出された改革の後退と撤廃、そして翌年の霜月騒動が、一連の抗争の内にあったことを語り始める。

 

業時は、一二八三(弘安六)年四月十六日に連署に就任すると、七月に従五位上、二か月後の九月に正五位下に昇進する。時宗は一二六五(文永二)年の従五位上任官から、正五位下(一二八一年)まで一六年かかった。業時の異例の昇進は将軍惟康の意志によるものだろう。業時の就任から一年後に時宗は没し、得宗は無力化された。一四歳の執権貞時の乳夫は頼綱だ。頼綱の望み通りにちがいない。ところが霜月騒動の後、惟康が泰盛の準備に沿って一二八七(弘安十)年六月六日に右近衛大将に任官すると、追うように六月十八日に業時は出家し、八日後の二十六日に没する。頼綱にとって不都合な動きは、宣時が連署になって解消する。そして九月二十六日、惟康の大将辞任と親王宣下に続く。時宗の理想は破断する。この流れが頼綱と無関係には思えない。

 

頼綱は貞時邸の郭内に館を構え、「角殿」と呼ばれて貞時を囲う。御内御領(得宗領)の支配は公文所を頂点に整備され、一二八三(弘安六)年には「御内法」も作られて公文所執事を「内管領」と称し、御内人を統制する「御内侍所」も設けられた。莫大になった御内御領の統治に必要だったからだろう。幕府内に、新たな御内幕府を作るに等しい。幕府法と御内法は混同され、御内人は地頭代職として全国の御内御領を得宗から給与・安堵された。「将軍―御家人」に代わる「得宗―御内人」体制の出現といえる。惣領制がいきづまり、零細御家人の保護を目指す泰盛の弘安改革だったが、それを阻む頼綱が、逆に零細御家人を御内人に取り込み、泰盛討伐の実働部隊とする。

 

細川重男氏は、「時国事件は安達泰盛・佐介家の勢力と平頼綱・大仏家の勢力との霜月騒動に至る最初の衝突」とされた。本郷和人氏は、平岡定海氏所蔵『東大寺別当次第』一条に記された「(十月)二日、六波羅南方(時国)誅されおわんぬ、物狂の間、祖母の結構としてこれを打つ、打手は平左衛門尉(頼綱)」が、細川説を裏付けたとされた。ここでいう「祖母」は、葛西殿ではないか。葛西殿の承認ないし指示と頼綱の実行が、日蓮の場合と共通である。葛西殿は貞時の祖母である。

 

一二八四(弘安七)年十月二十二日の「追加法」には、御所の倹約・簡素化の規定がある。なかに正月三が日の女房の服装に対する次の指示がある。「女房らの衣裳は粗品を使用すること。小袖の浮線料・綾立紋・格子など懸織綾は禁止、筋・染綾・錬貫を使用すること。将軍の側に侍る上童や美女は重ね衵(中間着)をやめて薄衵を着用すること」。これは誰に対して発せられたのか。服装の華美・贅沢をいさめているが、その風潮を先導した者がいたはずで、ファッションリーダーは誰だったのか。寝殿以外で畳に高麗縁を禁止、との一項もある。葛西殿だろう。時頼由来の得宗領を相続し、莫大な財力と大陸貿易で最新の文化を吸収して得宗家の背後にいた女性である。この規定は政所に張り出し、広く周知した。葛西殿はどう受け止めたか。泰盛の想像を超える反発があって不思議はない。霜月騒動は一年後である。

 

日蓮は、頼朝が開き、義時が固めた将軍執権政治を誇りに思い、承久の乱で敗退した京政権を鎌倉幕府の下におく。その鎌倉政権が、将軍家が嫌った宗派や僧を重用し、日蓮が是とする法華経の王道から外れるのを更生しようとした。そうしなければ八幡神の加護はないという。武家政権の鎌倉には、鎌倉にふさわしい仏法の王道があると訴えて自身の起用を求め続け、将軍執権の守護者たらんとした。これについては本書「Ⅲ 日蓮と政治」、「Ⅳ 日蓮仏法論」で論じる。しかし、その訴えは敵が多過ぎた。心ある者の与力で命脈はつないだものの将軍執権派と運命をともにする。

 

残された日蓮の書簡の分析から、将軍家と得宗御内人の相克がみえるのであれば、日蓮研究は新たな鎌倉史を拓く可能性がある。その意味で、日蓮を単に鎌倉新仏教の教祖の一人という宗教的な側面の評価にとどめることなく、得宗御内派と切り結んだ将軍執権派の一門であった点から捉え直す必要があると思う。

 

おわりに

まず、日蓮と門下が将軍家に近いことを提示して、教団に対する弾圧の動機が将軍家との距離にあると論じた。そして、日蓮の書簡にあらわれる「上」が将軍家を指すものであると指摘し、日蓮門下の再評価を試みた。

 

これを踏まえて、日蓮の目に写った二月騒動から霜月騒動までの幕政の動きを整理し、得宗御内派の伸張と将軍派の対抗を再考した。最後に、細川重男氏による「得宗専制政治の論理」を手掛かりに、執権時宗・安達泰盛らと日蓮の描く理想の共通性を指摘し、日蓮研究が示す鎌倉史の新たな可能性について問題提起した。

 

 

—次回3月1日公開—

 

バックナンバー 日蓮誕生

 

特別付録 〈日蓮と池田大作〉

 

 


好評発売中!

関連記事

「二十四の瞳」からのメッセージ

澤宮 優

2400円+税

「西日本新聞」(2023年4月29日付)に書評が掲載されました。

日本の脱獄王

白鳥由栄の生涯 斎藤充功著

2200円+税

「週刊読書人」(2023年4月21日号)に書評が掲載されました。

算数ってなんで勉強するの?

子供の未来を考える小学生の親のための算数バイブル

1800円+税

台湾野球の文化史

日・米・中のはざまで

3,200円+税

ページ上部へ戻る