Ⅲ 日蓮と政治
日蓮仏法の政治性
題目と念仏
前章では日蓮教団の政治的立場を見てきた。次に日蓮が唱える教説が、当時の政治権力にどのように映ったかを考察したい。
鎌倉時代初頭、仏教界は他宗を否定する専修念仏を邪教であると断じ、さらに幕府に念仏禁制を徹底するよう直訴していた。しかし念仏の流布は衰えず、幕府の禁制を凌駕して広まっていく。一二五九(正元元)年、日蓮は「念仏者追放宣状事」を著し、過去からの幕府の通達を守り、念仏者を追放するよう主張している。この時点で日蓮が確認しているのは、念仏者の宗教的、政治的不法性と日蓮の正当性である。ところが「立正安国論」の提出後まもなく、日蓮の名越の草庵が襲撃される。この経緯について日蓮は、浄土宗の良忠(然阿)が真言律宗極楽寺の良観房忍性に讒言したことによると認識している。安房、下総での対立の延長といえよう。
念仏信仰の魅力は、端的にその平易さにある。日蓮が安国論で指摘するように、当時は相次ぐ天変・疫病・飢饉・戦乱によって社会は荒廃し、末法の到来を肌で感じる時代相であった。にもかかわらず鎮護国家を旨とする既存の仏教界は、仏の救済を願う個人の要求に応じられず、唯一、念仏信仰だけが時代の要請に応えていた。経巻の入手に膨大な費用を必要とし、しかも御家人でさえ漢文の素養に恵まれなかった時代である。仏典を読める者は貴族出身に限られていた。このように財力と教養に富む貴族・武家にしか許されなかった法華経の読誦や書写などと違い、念仏は万人に開かれた宗教性を有していたのである。
一方、鎌倉初期には篤く受容されていた法華経信仰は、宗教的素養に未熟な武家の台頭と符節を合わせた念仏の普及によって急速に衰退していく。日蓮が法華経信仰を再興しようとした時、南無妙法蓮華経の唱題という形態をとったのは偶然ではない。法然の念仏流布から遅れること八十年、後発の日蓮は南無阿弥陀仏の易行に対して南無妙法蓮華経という法華経の題目を唱える易行をもって、法華経信仰の再興を図ったのである。
念仏は法然以前から行われていた修行だが、日蓮もこれに対し、すでに平安時代に一部で行われていた南無妙法蓮華経の唱題を、法華経修行の易行として理論化する。妙法蓮華経の題目五文字に法華経のすべてが集約されていると論考した智顗(天台大師)の「法華玄義」を根拠に、題目の信受は法華経全体の信受と等価であると主張した。
南無の二字は、神仏に対する帰命、信服を表す言葉で、信仰の対象に南無を冠して帰命を誓う形式は一般化しており、阿弥陀信仰も法華経信仰もこの点に変わりはない。日蓮は、帰命の対象を阿弥陀仏とした南無「阿弥陀仏」に代え、南無「妙法蓮華経」と法華経を帰命の対象として題目を唱えたのである。唱題の提唱は、それ自体が念仏に対する折伏であり、法華経信仰も万人に開かれた宗教性を有することになった。日蓮は「権経の題目流布せば実経の題目もまた流布すべし」として、こうした信仰形式の変化を、仏法が人々の願望に応えてより広く一般化するための知恵であると歓迎している。
江間浩人
—次回8月1日公開—
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