本を読む #008〈中島河太郎と柳田国男〉

⑧ 中島河太郎と柳田国男

                                         小田光雄

 

 続けて、時代小説や探偵小説と民俗学の、まだ解明されていない密通的関係にふれてきたが、柳田国男とミステリーの関係を象徴する人物がいる。その人物について、かつて「ある図書館長の死」(『図書館逍遥』所収、編書房)という一文を書いたことがあった。これは1999年に亡くなったミステリー文学資料館初代館長の中島河太郎を追悼したものだった。

 

 この資料館は日本で唯一のミステリー専門図書館で、その蔵書は中島が長年にわたって収集してきた三万冊を中心として成立し、開館に至っている。彼の蔵書の貴重な内容に関しては、ミステリー文学資料館編の光文社文庫版「幻の探偵雑誌」「甦る推理雑誌」(いずれも全10巻シリーズ)などから、その一端が想像できるであろう。

 

 中島は戦後に江戸川乱歩の勧めによって推理小説の研究に入り、『宝石』に連載した「探偵小説辞典」(後に『日本推理小説辞典』、東京堂)で、1955年に第1回江戸川乱歩賞、66年に『推理小説展望』(東京創元社)で、第19回日本推理作家協会賞を受賞している。これらの受賞や蔵書からわかるように、中島の推理小説研究は豊富な文献収集と書誌学に基づく実証的なものであり、その収集にしても、文学作品よりもはるかに労力を必要としたことはいうまでもないだろう。

 

 これは原田裕『戦後の講談社と東都書房』(「出版人に聞く」シリーズ14)でも言及されているが、中島はそうした評論、研究のかたわらで、多くの全集、大系、編集、監修に参画し、それらの代表的なものとして、『日本推理小説大系』『世界推理小説大系』(いずれも東都書房)、『現代推理小説大系』『大衆文学大系』(いずれも講談社)がある。

 

 しかし中島の文献収集や研究対象は推理小説だけでなく、柳田国男や正宗白鳥に関しても同様で、新潮社や福武書店のふたつの『正宗白鳥全集』の実質的編集者だった。だが筑摩書房の『定本柳田国男集』の編集や資料提供にはなぜか関わっていなかったようで、その索引にも中島の名前を見出すことができない。それは柳田国男研究会編著『柳田国男伝』も同様である。それでいて、『定本柳田国男集』完結後に出された神島二郎編『柳田国男研究』(筑摩書房)の「柳田国男研究文献目録」は中島編となっている。この事実は中島以外にこのような「目録」を編める研究者がいなかったことを示している。

 

 ところが中島の死に際して、柳田の側からも、推理小説や文学研究の分野からも、追悼の言葉はなきに等しかったといっていい。管見の限り、目にしたのは福武書店版『正宗白鳥全集』の共同編纂者だった紅野敏郎の「中島河太郎氏と正宗白鳥」(『文学界』、1999年6月号所収)という回想の小文が出ただけであったように思う。

 

 同年には江藤淳が自死し、辻邦生や後藤明生も亡くなり、またミステリー関係でも、稲葉明雄や瀬戸川猛資といった翻訳者や評論家の死があり、彼らは文芸誌やミステリー雑誌などで丁重に追悼されていた。それなのにどうして中島だけは紅野の追悼しかなかったのだろうか。紅野によれば、中島が東大国文科の出身であり、同窓の研究者が多いのにもかかわらず、中島の名前と仕事はまったく語られたことがなかったという。推理小説研究という事柄をもって、アカデミズムから排除されていたようで、それは柳田民俗学の周辺にあっても同じだったと思われる。

 

 そのことがずっと気にかかっていたのだが、しばらくして中島の柳田に関するいくつかの回想と論考を読むに至って、中島の置かれた研究者としての位置がわかるように思われたので、ここでそれを書いてみたい。ちなみに中島の回想と論考は「柳田学の命運」「海とニイルピト」「『『定本柳田国男集』」(『柳田国男研究資料集成』第5巻所収、日本図書センター)「『海南小説』」(同第9巻所収)である。この『資料集成』コンセプトにしても、前述の中島の「研究文献目録」に由来していることは明白だ。中島の先の三編は『定本柳田国男集』が刊行される以前の1960年代の初めに書かれたもので、中島の個人史と柳田の関係を語っていて、とても興味深い。それらをトレースしてみる。

 

 中島は小学生の時にアルスの円本『日本児童文庫』収録の、柳田による『日本神話伝説集』や『日本昔話集』で、その名前を覚えた。そして中学生になってから『海南小説』(大岡山書店)や『秋風帖』を読み、高校時代に『民間伝承論』(共立社)や『郷土生活の研究法』(刀江書院)で、柳田民俗学の体系に接したのである。また中島によれば、柳田の随筆論文が『昔話と文学』や『木綿以前の事』などを始めとして、「創元選書」(昭和十三年創刊)に収録されるようになってから、その読者が激増したという。

 

 そして戦後まもなく、中島は成城の柳田を訪ね、民間伝承研究のための木曜会、その後身の談話会にも加わったが、柳田の読者であっても、民俗学研究者ではないことを自覚し、足が遠くなってしまったと述べている。それはおそらく柳田ではなく、彼を取り巻く民俗学者や研究者人脈と肌が合わなかったことにあるのだろう。そのことを示唆するように、中島は『定本柳田国男集』の中で、「在野の学問として独力で開拓し、建設する」に至った柳田とその民俗学について、次のように書いている。

 

   昭和四十年来、学会の冷嘲と黙殺に耐えながら、日本全土の探訪のかたわら、着実な成果を積み重ねられた。欧米学会の糟粕をなめるにすぎなかったわが国の学者にとっては、まことに気味悪い存在であった。外国の物さしを、しいて日本にあてはめて疑わなかった連中も、その実証主義の前には脱帽せざるをえなくなった。そしていわゆる民俗的研究法が、欠くべからざるものとして認識されたのは、ようやく戦後のことである。

 

 これを読むと、三島由紀夫が『遠野物語』にふれ、民俗学は発祥からして死臭の漂う学問であったといったことを想起する。そして図らずもここで、中島は柳田に重ねて自分のことを語っているように思える。民俗学や近代文学研究者から見れば、柳田と正宗と推理小説を三位一体として、「実証主義」的文献収集に励む中島は「まことに気味悪い存在」であったにちがいない。それゆえにアカデミズムからも、またミステリーの分野からも、追悼の言葉が出されなかったのではないだろうか。このことは20世紀末において、ミステリーもまた、江戸川乱歩的な「まことに気味悪い存在」ではなくなっていたことを意味していよう。

 

—(第9回 2016.10.15予定)—

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