本を読む #026 〈エパーヴ、白倉敬彦、『même/borges』〉

㉖ エパーヴ、白倉敬彦、『même/borges』

                                         小田光雄

 

 前々回は鈴木宏が『幻想と怪奇』のための「三号分の特集企画」を提出するところで終わってしまったので、その続きを書かなければならない。

 

 その最初の号は「ボルヘス特集」で、鈴木はラテンアメリカ文学の研究、翻訳者である鼓直を訪ね、協力と関係者の紹介を依頼し、特集の内容も固まっていった。ところがスポンサーの歳月社が『幻想と怪奇』の休刊、すなわち廃刊を決めてしまったのである。そこで困ったのは編集者としての仕事を始め、特集のための原稿を集めていた鈴木で、自力で刊行するしかないと考えるようになった。

 

 しかし鈴木にしてみれば、同人雑誌体験しかないわけだから、師事していた宮川淳に相談することにした。すると宮川は自分の知っている「小さい出版社」を紹介してくれた。それは社員が数人の零細出版社のエパーヴで、当時現代美術専門としてよく知られていた南画廊のカタログ制作を主な仕事とし、宮川はこの出版社の企画に協力していたのである。

 

 鈴木はその企画の内容にふれていないが、それは「叢書エパーヴ」のことで、1974年から77年にかけて、6冊が刊行されている。それらをリストアップしてみる。

 

1  宮川淳『紙片と眼差とのあいだ』

2  豊崎光一『余白とその余白または幹のない接木』

3 清水徹編『これは本ではない』

4  豊崎光一『砂の顔』

5  フーコー・ドゥルーズ、蓮實重彦訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』

6  清水徹=宮川淳『どこにもない都市・どこにもない書物』

 

 これらのうちの3は未見だが、すべてがフランス装のB6判で、新たなフランス現代思想を送り出そうとする意気込みが造本にもうかがわれる。鈴木は『風から水へ』で、エパーヴの経営者を「Sさん」と呼んでいるけれど、これらの1と2の発行所はエディシオン・エパーヴ、発行者は白倉敬彦と明記されているので、「Sさん」は白倉と見なしていいだろう。白倉との話を鈴木は書いている。

 

 二、三回話し合っているうちに、この「ボルヘス特集」は一応、雑誌の特集のスタイルになっているので、ともかく雑誌の創刊号ないしは創刊準備号のようなものをだして、ひきつづいて、その雑誌の本格的特集号の第一弾としてこの「ボルヘス特集」をだそう、ということになりました。

 誌名は“même”(メーム)ということになりました。私の案です。

 

 この「même」に関して、英語の「even」にあたるフランス語の副詞で、マラルメやシュルレアリスムに淵源が求められると鈴木は説明している。

 

 その第1号は目にしていないが、1975年に刊行された『même/borges』が手元にあり、これが「季刊第2号」と銘打たれている事情を了承することになる。扉には「ホルヘ・ルイス・ボルヘスへのオマージュ」というタイトルが置かれ、ボルヘスの「パスカルの球体」を始めとして、18本の作品や論考が並び、日本で初めての「ボルヘス特集」にふさわしい仕上がりになっている。奥付の編集は鼓直、牛島信明、土岐恒二と並んで、「鈴木宏(紅い花工房)」とある。この「紅い花工房」は『漫画的』という同人誌の発行として命名した「書肆紅い花」の「後継組織(?)」のつもりだったとされ、そのメンバーだった藤田豊も制作として名前を連ねている。

 

 また付け加えておけば、鈴木は国書刊行会に入って、「ラテンアメリカ文学叢書」を企画編集するが、この「ボルヘス特集」がベースになっているとわかる

 

 そのようにして鈴木が製作費を負担し、できあがった『même/borges』は宮川からほめられ、エパーヴは取次の注文口座しかなかったけれど、都内の大型書店の店頭に並び、少しは売れたように思われた。だがその後しばらくして、エパーヴは事実上倒産してしまい、鈴木は製作費の回収が不可能になってしまったのである。

 

 それ以後のエパーヴと白倉の詳らかな事情はわからないのだが、「叢書エパーヴ」はそのまま編集を白倉とし、小沢書店に引き継がれ、4以降の奥付発行者は長谷川郁夫、発行所は小沢書店との記載が見えている。これに伴い、『même/borges』も小沢書店経由で書店に出回り、私もそのルートで、同誌の刊行を知ったのである。それを鈴木に伝えたところ、彼は驚き、自分は了承していないとの言をもらしたが、その真意までは尋ねなかった。だが『風から水へ』での証言において、40年ほど前の出版事情を理解したことになる。

 

 それとほぼ時を同じくして、その白倉敬彦の名前にも出会ったのである。このことについては拙稿「白倉敬彦とエディシオン・エパーヴ」(「古本屋散策」177、『日本古書通信』2016年12月号所収)でも既述しているが、これは白倉側からのものなので、要約してもう一度ふれてみる。

 

 16年にたまたま出たばかりの吉増剛造の『我が詩的自伝』(講談社現代新書)を読んでいると、吉増が1970年に彫刻家の若林奮との「リーブル・オブジェの共同作業」の試みにふれ、次のように発言していたのである。

 

  それを仕掛けたのは、北海道から出てきた、早稲田で哲学をやった白倉敬彦さんね。あとでは春画のほうで有名になって、去年(二〇一四年)に亡くなったけどね。

 

 これはまったく思いもかけない指摘で、所持している正続『春画』(「別冊太陽」、平凡社)の編集者白倉が同一人物だとは想像すらしていなかった。だが確認してみると、本当に白倉敬彦とあり、まさに本人だったのだ。吉増によれば、白倉はイザラ書房から谷川雁のテックに移り、平岡正明と親しく、それからエディシオン・エパーヴを始めたとされている。またこれもたまたま手元にあった田中優子の『春画のからくり』(ちくま文庫)を繰ってみると、その「はじめに」において、1993年の大英博物館での春画ワークショップにふれ、「今は春画研究の第一人者で、当時は浮世絵専門の編集者であった白倉敬彦が加わっていた」との一文が記されていた。フランス現代思想の「叢書エパーヴ」から、どのようにして白倉は浮世絵と春画に向かったのであろうか。それは春画以上に関心をそそられるというしかないように思われる。

 

—(第27回、2018年4月15日予定)—

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