矢口英佑のナナメ読み #058〈『さだじいの戦争かるた』〉

No.58「さだじいの戦争かるた」

 

矢口英佑〈2022.8.31

 

1868年の明治維新以降、日本は天皇を中心とした中央集権国家として、脱亜入欧をめざして、封建国家から近代国家への転換を図った。富国強兵を急ぐ日本は、海外の政治動向にも敏感に反応し、明治維新から僅か26年後の1894年には清国(中国)を相手とした日清戦争、それから10年後の1904年にはロシアとの日露戦争、さらには、1914年の第一次世界大戦では連合国側として参戦した。いずれの戦争でも、アジア地域での日本の権益拡大を意図していた。

 

そして、1937年には日中戦争が、1939年9月に英独戦争によって第二次世界大戦が起きると、1941年12月には連合国を相手に日中戦争を継続させたまま太平洋戦争に突入していった。

 

このように見ると、日本は江戸時代が終わってから1945年8月15日まで、30年という間も置かずに戦争を繰り返してきていたのだった。しかし、その後の77年間、日本は「戦争放棄」を謳った憲法のもとで、戦争のない時代を継続してきていることになる。

 

本書の著者・岩川洋成が「おわりに」で、「77年間、戦争をしてこなかったことは、日本が世界に誇るべきことです」と記していて、そのとおりだろう。だが、現在の日本では、77歳までの日本人は誰も戦争経験を持っておらず、「1945年8月15日」がどのような日であるのかを知らないだけでなく、アメリカと戦争をしたことさえ知らない若者が多く存在する。それだけでなく憲法改正への動きも活発化し、自衛隊の海外派兵が名目はなんであれ現実となっており、軍備拡張への抵抗感も弱まってきている。それが現在の日本にほかならない。

 

一方で、戦争の悲惨さ、むごたらしさ、辛さ、悲しみをみずからの体験として知っている日本人が、年々減ってきている。その結果、理屈無しに戦争を忌避するといった空気がこの日本からは、ますます希薄になってしまっている。

 

だからこそ、著者は「もし日本がなにかを間違って、他の国と戦争をしそうになったら、

 

全力で反対してください。少なくとも私はそうします。戦争でもっともつらい思いをするのは子どもたちです」(本書「おわりに」より)

 

と語りかけるのである。

 

こうした記述や本文中の漢字にルビが付けられていることなどから、著者は本書の読者対象を小学生高学年あたりとしているらしいことがわかる。

 

77年前までの日本が戦争を繰り返してきていた歴史を知らず、中国や朝鮮半島、台湾、東南アジア諸国を侵略し、やがては、転がるように敗戦の坂道を一直線に進んだ日本を知らない子どもたちへの〝戦争反対〟のメッセージが本書には込められている。

 

このメッセージを伝えるためには、戦争がどのようなものなのかを伝える必要がある。そこで著者が本書の土台としたのが、子供のころ、父親から何度も繰り返し、聞かされてきた父親の子ども時代の戦争に関わる体験談であった。

 

「さだじいは、生きていたら今年90歳になるおじいさんです。大阪で生まれ育ったので、大阪弁でしゃべります。怒るとこわいですが、ふだんはニコニコしていて、おもしろいことばかり言っていました。でもときどき、子どもたちに真剣な顔で話すことがありました。それは自分が経験した、戦争の話です」(本書「はじめに」より)

 

著者の父親は1932年生まれとのことで、日本が敗戦を迎えた1945年には13歳だった。つまり、「さだじい」が経験した戦争の話とは、戦争中に日本国内で体験したり、見たり、聞いたりした子どもの目を通した日本の状況である。

 

「さだじいの話は、戦争が終わってからのこともたくさんありました。大きくなって、記憶がよりはっきりしているということもありますが、戦争が終わってから、つまり戦後も戦争中と同じくらい、いや、それ以上に大変だったとさだじいは話していました」(本書「はじめに」より)

 

戦争は終結すれば、特に戦争に敗れた場合、社会の状況や個人の生活がただちに戦争以前に戻ることなど不可能である。制度は乱れ、人心は荒廃し、物資の不足は生命を脅かすほどであり、子どもたちにとっての最大の敵は〝飢え〟だった。

 

本書では、こうした戦中、戦後の様子が五七五のリズムに乗せるように、「かるた」となって、「あ」から「わ」まで44枚によって表出されている。たとえば、

 

「へ 兵隊さん どうかご無事で 千人針」

「ま 丸暗記 「コーソコーソー」と 教育勅語」

「な 泣きながら 学童疎開の 子どもたち」

「む 無差別の じゅうたん爆撃 焼夷弾」

「ふ 浮浪児に ならへんだけでも ましやった」

「や 闇市も お金がないから みてるだけ」

 

といったかるたの言葉に続いて、「さだじい」の思い出話が大阪弁で語られていく。

 

「千人針いうもんがあってな。白いもめんの布にな、赤い糸で一針一針、縫い目をつけてもらうんや。縫うのは女の人やないとあかんね。一人一針で千人分。それを戦争に行く兵隊さんに持たせたら、お守りになるいうてな」

 

まるで「さだじい」が今、語って聞かせてくれているような錯覚にとらわれるのは、四角四面の書き言葉ではなく、大阪弁によるしゃべくり調の味がよく出ているからだろう。

 

こうした「さだじい」のしゃべくりの内容から、かるたは作られているのだが、子どもだった「さだじい」の目に映った戦争の様子だけでは、現在の子どもたちに知っていてほしい戦争の実情を伝えきれない。

 

そこで著者の岩川洋成が解説や補完説明を加えることになる。上記の「千人針」では、次のような補足説明が加えられている。

 

「「とらは千里を行き千里を帰る」ということわざにちなんで、とらの絵がらのものもつくられた。同じ考えから千人針を縫うとき、とら年の女の人は自分の年の数だけ縫うことが許されたという。五銭銅貨や十銭銅貨を縫いつけたのは「死線」(四銭)を越える」「苦戦(九銭)を越える」という合わせだった」

 

本書では「さだじい」の大阪弁によるしゃべくりが土台になっている。そこには戦争中に使われていた、現在では、日常生活であまり使われることのない、あるいは死語と言ってもよさそうな言葉が必ず出てくる。したがって、漢字で表記する場合はルビがつけられている。そのほかに敢えて音だけで表記されている言葉も登場する。上述した「ま 丸暗記 「コーソコーソー」と 教育勅語」などがそうで、おそらく今の日本で、このカタカナ部分を漢字で誤記せずに書ける人はそう多くないだろう。

 

「教育勅語いうのは明治天皇の「お言葉」や。「チンオモウニワガコーソコウソ―」いうてな」

 

という「さだじい」のしゃべくりについて、著者はこう説明を加えている。

 

 「教育勅語は1890年、当時の天皇が国民のあるべきをしたものとして、第2次世界大戦が終わるまで国の道徳教育のとなった文書だ。「(天皇が自分のことを指して言う言葉。「私」の意味)フニカ国ヲムルコト……」と始まる、大変しい文章で、まるでみたいだ。その中には国民のなあり方として、をし、兄弟なかよく、は協力し合い、よく学び、仕事を身につけて……といったえがあげられている」

 

かつて子どもだった「さだじい」が耳にし、口にしていた「戦争用語」を、父親となった「さだじい」から聞かされた著者にとっては、「がくどーそかい」「くーしゅーけーほー」「しょーいぐんじん」「きちくべーえー」「しんちゅーぐん」「ぼーくーごー」といった言葉は、まるで外国語のように受けとめながら体の中に丸ごとしみ込んだという。

 

その著者も今年60歳。

 

戦中・戦後の経験がなく、子どもたちに戦争についてあまり話したことのないみずからを振り返ったとき、戦争の記憶が多くの日本人から消えてしまう怖れを抱いた。「戦争を経験した人の記憶が、戦争をさせなかった」という思いは強く、自分の父親が語って聞かせてきた〝戦争〟と結びついていたことはあらためて言うまでもないだろう。それだけに鮮烈であり、鮮明な記憶として残されていたにちがいない。

 

本書は、小学生向けに執筆されている。だが、戦中・戦後の日本を知らない親たちが先ず手にとって読むべき一書と言えそうである。そして、「さだじい」となって子どもたちに語って聞かせるなら、著者の執筆動機となった、戦争の記憶を消さず、後世に受け継ぎ、伝えていく目的は十分に果たせそうである。

 

子どもだった「さだじい」の目を通した戦争体験は、大阪弁のしゃべくりによって、温かみと身近さを覚え、実に生き生きと読み手の心に届く抜群の効果を上げている。

 

(やぐち・えいすけ)

 

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