矢口英佑のナナメ読み #038〈『西部邁』〉

No.38 『西部邁』

矢口英佑〈2021.4.21

本書を手にして、最初に目に留まったのが副題として付されている「非行保守」という文字である。西部邁という知識人が「保守」の思想家として広く知られていることはあらためて言うまでもない。ところがその「保守」に「非行」が付けられていたからである。

 

西部邁という思想家を深く知る人には、この「非行」の意味するところが理解できるのだろう。だが、私のような浅薄な理解しか持たない者には、「非行」と「保守」がどのように結びついていて、それにはどのような意味が込められているのかわからない。それだけに、西部邁になぜ「非行保守」の文字が付されるのか知りたいという欲求が、にわかに湧き上がってきた。

 

その意味では、私のような者に本書を手に取らせる強い吸引力がこの副題には秘められていたのかもしれない。

 

さてこの「非行保守」だが、手っ取り早くわかりたいという私の横着な思いから「まえがき」と「あとがき」、そして、「あとがき」の直前に置かれた「私からの西部邁へのメッセージ」に目を通してみた。しかし、「非行保守」の言葉はあるものの、これらでその意味するところを、私が十分に理解することはできなかった。ただ、手っ取り早く知りたいと読み出したこれらの文章から、著者が本書を著わそうとした意図がよく理解することができた。

 

 西部さんの人生には、数々の悲喜劇の事件事実が溢れているといっていい。そのどれもが大きな意味、存在感を放つ。あらゆる事件事実が、必ずといっていいほどに、時間をこえて関係をもっているからである。事実の重みがゆえに、西部さんの思想を批評しようとすると、いつのまにか彼の人生の出来事に言葉を奪われてしまう。この不思議な傾向にあえてはまること、そのことに西部さんを論ずる方法があるべきだというのが本書の立場とするところである。つまり「思想」から入るのではなく、「エピソード」から西部さんについての評伝を書き起こす

 

人物評伝なるものは、作家、思想家、芸術家に限らず、あらゆる領域に及んで書籍化され、その数も多い。これらの書籍の特色は、その大多数が対象とする人物がいかなる人間なのかを知りたいという執筆者の欲求があり、そうした強い思いに突き動かされ、文章化されている。そのため、対象とする人物の誕生から丹念に調査、分析し、作家や思想家であれば、その人物の書き残した(残しつつある)文章、言葉、さらには関連資料、周囲の証言などを多用して作家論や思想家論が展開され、人間像を著者なりに描ききろうとする。それだけに、ややもすると〝のめりすぎ〟とも言えそうな評伝も少なくない。

 

だが、本書は多くの評伝が採用するそうした手法を採らない。

 

 西部さんの思想の脆さ、弱点については自分は充分に承知をしているつもりである。だが(中略)私は正面から西部さんの思想を批判することは生産的ではないと考えている。脆さや弱点の背後にある西部さんの悲喜劇のエピソードにまず関心をもっていただき、それを感じつくす。彼の思想を批評するのはその後でも少しも遅くないのだ

 

このようにして西部邁に接近する手法は、この人物について深い知識を持たない者や近寄りがたい思いを抱いてきた者には、〝西部邁ワールド〟に足を踏み入れるきっかけを与えるものとなっている。その意味では大いに人間臭さに満ちた西部邁の一面を知ることができる。

 

本書の第一章に置かれた「エピソードの中の西部邁」は、この思想家を近寄りがたい一人の思想家というイメージから解き放ち、あらためて人間・西部邁への接近を試みさせようと仕向けていると言えそうである。とはいえ、語られている内容は西部邁の主義、思想にかかわっているだけに、読む側にも姿勢を正した読み方が必要かもしれない。そうでないとエピソードの向こうに見えるはずの西部邁の主張や考え方がぼやけてしまう恐れがあるからである。著者が「思想」に敢えて括弧を付けているのは、思想だけをひたすら追究するのを避けるという意味であって、思想を語らないということではないはずだからである。

 

再度「非行保守」にもどるなら、第一章の最後に置かれた「不良少年U君」がこの言葉を理解する入り口と言えるだろう。この文章は西部邁の『大衆への反逆』というエッセイ集に収められている。

 

著者はこの本を「オルテガやサルトル、ケインズなど西部が二十年間の知的蓄積の中で格闘した思想家たちへのすぐれた論考」と評価する一方、「西部の心情の根底には、アウトサイダーへの消すことのできない思い入れが継続しつづけた」として、「不良少年U君」がこの本に収録された意味づけをしている。

 

西部の親友とも言えるU君は暴力団に入り、入獄と出獄を繰り返し、覚醒剤中毒に苦しみつづけ、最後には自殺するような人物だった。アウトロー、アウトサイダーの典型とも言えそうなこの人物に絡む西部の思想的営為は、第四章「ニヒリズム・死生観・自死」で一気に広がりを見せ、そして核心に迫っていく。

 

そのため、第四章の冒頭に置かれた「1「非行」としての保守」「2「不良少年U君」の自死」「3ニヒリズムとは何か」の三篇には、いずれも「U君」の生き方に深く切り込みながら西部を「非行保守」と位置づける由縁が明らかにされていく。

 

そもそもこの言葉は哲学者であり評論家の小浜逸郎の西部邁追悼文(『表現者・クライテリオン』西部邁追悼号掲載)を拠り所としていて、小浜は「西部の保守主義とは、「非行としての保守」だとしていたのである。そして、著者はこの言葉こそ、「マフィア(任侠)と海野(U君のこと―筆者注)という永遠絶対のアウトサイダーをも含有する西部思想を形容するに相応しい言葉なのではないか」と記している。

 

しかし、著者の本書における最大の関心事は、言い換えれば本書を著わした目的は見当はずれを恐れずに言えば、〝西部邁はなぜ自死に至ったのか〟を見届けるためだった。

 

第四章でのニヒリズムへの言及では当然、U君との間で織り上げられた心の交流に重い意味が内包されていたことが記されている。

 

 ブントという無政府主義的な青年集団だけが西部の理想とする「個人をこえたもの」なのではなかった。様々な人生の価値選択を毎日のように迫られ、究極的には死の選択も覚悟しなければならない任侠集団もまた、西部の良しとする世界だった。ただし日本の任侠集団を全面的に賛美するほどの短絡を西部は犯すことはなかった。任侠集団というアウトサイダー集団の中にいるアウトサイダーを決して見逃してはならない。すなわち、アウトサイダーを貫くためには、アウトサイダーの中にあっても孤立した存在でなければならない

 

アウトサイダーの中のアウトサイダー、それがU君であり、常に自死を意識したにおいをU君から嗅ぎ取っていた西部の強い共感は、著者の〝西部邁はなぜ自死に至ったのか〟の核心に迫る太い伏線となっている。

 

核心に迫ろうとする著者は、ハイデッガー、サルトル、ニーチェ、さらにはドストエフスキーの『悪霊』のキリーロフの言葉などを比較、論じながら西部の自殺論のテーゼは「人間は意識をもっているうちに、自死を選択し、ニヒリズムを克服しなければならない」だったとしている。そして、西部邁の「自死の思想」について、著者は西部の次の言葉を拠り所とする。

 

 結論を先にいうと、思想的に一貫せる唯一の死に方は、シンプル・デス(単純死)、つまり簡便な自死を選ぶことである。自分が精神的存在としてもう活動できない、あるいはそれ以上活動する自分のあるべきと思う精神の在り方を裏切る、という単純なことがありありと見通せたとき、そのときには自死を選ぶしかない。簡単にいうと、精神が死んだときには人間も死んでいるとみなし、そこでなお生き延びようとすると、自分の生命を目的なき手段に貶めることだ、と考えることである

 

人間が「自死」に向かう一つの「考え方」として、大いにあり得るし、きわめてわかりやすく、説得力がある。ただし、この考え方に共感を抱く人間は多く存在しても、「自死」を実行するとなるとそれは希有な行動となる。

 

しかし、西部邁はそれを実行した。だが、著者には大きな謎がそこにも横たわっていたのである。第四章の「8「助けられた自殺」の難問」がそれである。

 

では、著者はこの難問にどう答えを見出しているのか。

 

著者は「本当の事実を私は知る由もない。しかし推測であるからこそ」としながら、「西部らしい観念的図式が「ありうる真実」として成立しうる」と述べ、次のように結論づけるのである。

 

 西部は自殺する幇助をする人間を必要としたのではなく、自身の死を看取る思想的同志を必要とした

 

著者がたどり着いたこの結論に誰一人として明確な「否」を出せる者はいないだろう。著者が言うように推論でしかない。だが「ありうる真実」になっているからである。

 

(やぐち・えいすけ)

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