オイル・オン・タウンスケープ 第五号(後編)

丘の上のバレーズ───麻布風景 第五号(後編)

中島晴矢

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《麻布風景》2021|カンヴァスに油彩|606 × 410 mm

 

 私が麻布学園に入学しようと思ったのは、文化祭に心を奪われたからだ。

 

 中学受験を考えていた小5のゴールデンウィーク、訪れた麻布の文化祭で目にしたのは、色とりどりの髪型やファッション、そして並々ならぬ活気だった。殊に惹かれたのは、中庭で開催されていたイベントだ。『Wild Style』みたくグラフィティの描かれたステージ上で、生徒たちによる出し物が催される。その、ほとんどカルチャーショックと言っていい祝祭性を目にした時、私はこの学校の文化祭に感染したのだ。

 

 他に見学していた私立校の文化祭は、研究成果を発表した展示がメインだったりと、どこか生真面目な秩序が感じられた。しかし、麻布の文化祭は過剰なまでに荒唐無稽で、いわば最も自由を謳歌しているように見えたのである。

 

 そうして確固たる志望校が決まると、私はあの文化祭をやりたい一心で受験勉強に励み、合格を手にした。おそらく当時の脳細胞は、私の人生で一番フレッシュだったはずだ。まだ思春期の手前、酒も煙草もセックスも知らず、煩悩のないすっきりとした心持ちで勉強に集中できた。

 

 入学するとすぐ、硬式テニス部に入る。中庭のコートでテニスに興じる先輩たちが優雅に見えたから、という単純な理由で。ただ、実際は厳しい体育会系で、球技が不得意だと気づいたこともあり、中3の秋に退部した。代わりにのめり込んでいったのは、やはり文化祭だ。中1から高2まで、ずっと中庭イベントを司る部門に所属し、最終的には部門長を務める。かつて仰ぎ見ていた、あの「ブンジツ」の一員になれたわけだ。

 

 普段の授業では、皆たいてい机に突っ伏して居眠りしていた。決して教師陣の授業がつまらなかったわけではない。むしろ、ほとんど規定の教科書を使わずに、オリジナルのプリントを用いた、意欲的な授業だったはずだ。だがその熱意を上回るほど、私たちは徹底して怠惰だった。その背後には、受験の燃え尽き症候群や、自分たちの学力への傲りがあったのだと思う。

 

 一方で、教員たちものんびりしたものだった。放任主義というか、勉強をしたくないのならご自由にどうぞ、という牧歌的な雰囲気が漂う。私はその湯船に肩まで浸かって、6年間ぬくぬくと微睡んでいたから、必然、卒業前後にしわ寄せがきた。でも、別に後悔はしていない。それは自分で選んだ自由の代償であり、至極まっとうな「自己責任」と言って差し支えなかったからだ。

 

 もちろん、定期テストは決まって一夜漬けである。典型的な理系音痴で、数学など全く手につかない。だからよく試験では、解答用紙の表に大きくバツをつけ、裏面の余白に、時事評論のような文章を書き殴って提出した。先生は、それでギリギリ赤点にならない点数をくれたのだ。

 

 つまり、とうに私はエリートコースからドロップアウトしていた。目の前に広がる空白を好きに埋めていくこと。ただそれだけに専念していたのである。

 

 ところで戦前、講演に来た東條英機が開口一番「麻布中学の生徒はお坊ちゃんである」と断じたらしい。たしかに「お坊ちゃん」は少なくない。中でも、度を越した金持ちは見ていて気持ちいいくらいだ。

 

 同級生で一際ボンボンだったのは、やはり小田原の開業医の一人息子・ゴージだろう。毎日地元から麻布まで新幹線通学を敢行。しかも、別宅として神谷町に一軒家を貸し与えられていた。彼ももう立派な医者になったのだろうか。運動会でクーラーボックスいっぱいのジュースを、なぜか個人の負担で差し入れていたように、今でも羽振りよくあってほしいものだ。

 

 またOBには、政治や行政、学問に携わる者が多い。同時に、表現者も散見される。フランキー堺、小沢昭一、倉本聰などの演劇人。吉行淳之介、北杜夫、安部譲二をはじめとする小説家。ジャズの山下洋輔や若きラッパー・Tohjiといったミュージシャン。美術家では、日本で初めてモヒカン刈りにした男、ギューチャンこと篠原有司男がいる。ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを率いた、ボクシング・ペインティングを代名詞とするアーティストだ。

 

 麻布卒の表現者たちは、洒脱であると共に危険な匂いを放ち、その知性の根っこには、権力への抵抗を意味するレヴェルが垣間見える。にもかかわらず、皆どこか隙があって、それが愛嬌になっている。そうした先輩たちに私は強く憧れた。もちろん、綺羅星のような彼らには遠く及ばなかろうが、しかし私も、何か表現する者になりたい、そう漠然と考えていたのだと思う。

 

 そんな文化的と言い得る空気の中、交わされるコミュニケーションはスノッブだった。教養主義を土台として、ただ勉強ができるだけでは話にならず、その上でどんな個性を持っているか、誰もが日々突きつけられるような空間。他方で男子校ということもあってか、上下関係は強固だった。在学中も卒業後も、何人の先輩にお世話になり、何人の後輩に甘えてきたか分からない。

 

 もとより同級生たちとは、たくさんの時間を共有した。親友と言っていい奴の一人に伊藤がいる。頭の切れるツッコミ肌で、私はしょっちゅう彼に弄られており、それはそれで心地いい関係性だった。ただ、一度だけ伊藤に泣かされたことがある。

 

 たしか中学3年の授業中、私はプリントの切れ端に落書きをした。それは、漫画『ワンピース』のキャラクターである三刀流の使い手・ゾロが、両手と口元に刀を携えた状態で、ヒロインであるナミに隆起した陰茎を咥えられながら「よ、四刀流……」と呟いているイラストだった。今こうして自分で書き出していて、迫り来る猛烈な虚しさに飲み込まれそうになるが、なにはともあれ、その紙を伊藤の席に回すと、一笑い起きてその場は終わった。だが、翌日になって彼が言うのである。

 

「昨日のゾロの絵だけどさ」

「ああ、四刀流の」

「あの紙、昨日お前の弁当箱に入れておいたんだけど、どうだった?」

「え。弁当箱って、食べ終わった後の弁当箱に?」

「そう。まさか、気づかなかったのか……」

 

 すぐさま記憶を遡ると、その細工にまるで気づかず帰宅した私は、母親へ何事もなく空の弁当箱、いや息子の描いた猥画入りの弁当箱を、習慣的に差し出していた。そうか、だから今朝、俺に弁当箱を手渡す母さんはどこかぎこちなかったのか……。名状し難い羞恥に襲われ、血の気が引いた私は、そんなの分かるわけないだろ、あんまりだ、と涙ながらに訴えたのだった。その有り様を見て、奴が腹を抱えて笑っていた光景をよく覚えている。むろん私はその件について、まだ母親に言質を取れていない。

 

 浮かんでは消える泡のように、脳裏を掠める無数のエピソードを全て書き留めることはできない。結局、中学高校を通して最も熱中したのは文化祭だったのだろう。私はほとんど、その中毒に陥っていたと言っていい。しかも、年に一度の開催日のみならず、文化祭準備という名目において、一年中その非日常的な営みに淫することができたのだ。

 

 私たちは、時間と労力の無意味な浪費という、祭りの根本原理に則って行動する。文化祭シーズンになると、髪型や髪色を変えるのが慣例化していた。私もまたスタッフジャンパーを着込み、逆モヒカンの金髪にして、必死で粋がった。そうして仲間と有栖川公園の広場に溜まっては、夜ごと街へと繰り出していく。

 

 もちろん、今振り返ればそれは、向こう見ずで恥ずかしい若気の至りだったかもしれない。しかし、とにかくそんなハレの日々に、本気で身を窶していたのは確かなのだ。

 

 それは無限に感じられるような、終わりなき祝祭だった。

 

 

《ママン》の股ぐらを潜って、六本木ヒルズを後にする。

 

 時空のねじれを少しずつほぐすように、首都高の日陰になった大通りを歩く。行き先の当てはない。ただ、病床に伏した現下の東京を、この足で踏みなし、この目で見ておきたいだけだ……そう思ったのも束の間、六本木交差点に差し掛かると、自然と足は我善坊谷へ向いていた。あそこに行けば、気が狂いかけているこの街を見つめ直せるような気がしたから。

 

 交差点を右に曲がり、東京タワーを正面に見据えて、ドン・キホーテやおかめ団子跡を抜け、飯倉片町を越える。狸穴坂に隣接するロシア大使館、道路を挟んだその向かい辺りで、左手の路地に折れた。この先に、崖下を一望できる三年坂がある。

 

 だが、坂の手前まで来て、ようやく事態を把握した。そこには、道幅いっぱいの仮囲いが嵌め込まれていたのだ。フェンスの前には警備員が立っていて、その先に進むことも、中を覗くこともできない。そう、既に開発は始まっていた。張り出されたパネルには「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業施設建築物等新築工事」の文言。設計者は、言うまでもなく森ビルである。

 

 気持ちを落ち着けて、ひとまず来た道を引き返し、谷の外周を回ることにする。飯倉の交差点に戻り、麻布通りを北へ。路傍には赤いパイロンとトラ柄のバーが続く。行合坂に至ってようやく視界が開けると、そこで目にしたのは、町が丸ごと消滅した我善坊谷だった。

 

 つい数年前まであった崖下の集落は、全て土に埋まってしまっている。その盛土の丘の上に、重機が軋み、足場が組まれて、セメントが流し込まれつつあった。屑屋になって眺め歩いた町並みは、もうそこにない。

 

 やはりこの町も沈んでしまった。かつての麻布谷町がそうであったように。

 

 一生終わらないと思っていた文化祭は、高2の春、当たり前のように終わりを迎えた。

 

 その年の秋になると、運動会も終わり、部活動も引退になって、大学受験一色のムードになる。祭りのあと、友人たちの多くは実にスムーズに受験生へと転身を遂げた。たしかに例年、学年の半数近くが浪人するとはいえ、しかし私は、それこそ地に足がつかなかった。その地に足のつかなさは、惰性で通った代々木ゼミナールの休み時間に、教壇へ上がって一発芸をしていたほどのレベルだったのである。

 

 私は相変わらず、麻布学園で味わった「自由」に苛まれ続けている。それはちょっとみっともないくらいの執着かもしれない。でも、どうしたってあの学校に魅了され、影響されたことは、私の中で疑い得ない。

 

 文化祭が終わった時、私は日常に着地できなかった。でもここだけの話、未だにうまく着地できていないままだ。ずっと文化祭の前日をループする『ビューティフル・ドリーマー』みたいに、私は今も麻布の麻に酔いながら、終わらない祭りを勝手に続けている。

 

 ──麻布学園のグラウンド裏手にも谷地がある。本光寺の敷地として再開発を免れている、昭和の遺跡みたいな町。坂の上から見下ろすそこは、小さな家屋が密集し、向こうの空には六本木ヒルズが突き立った、SFのような風景。この谷もいつか丘になり、その丘の上には、ヒルズ、否、バレーズが建つだろう。そうして東京は空っぽになって、最後に、丘の上のバレーズだけが残されるのだ。……

 

 六本木ヒルズを去り際、下りのエスカレーターから目端にとらえた電子時計は、五輪開催までの時間を着実に縮めていた。刻一刻と時を刻む、どこに辿り着くかも不明瞭なカウントダウン。東京はその時刻の向かう先へと止まることなく加速する、危うい脱線を繰り返しながら。そして病は不可逆に進行していく。感染症も、この都市を蝕むILLな病も。

(なかじま・はるや)

 

 

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