矢口英佑のナナメ読み #042〈『マダム花子』〉

No.42 『マダム花子』

矢口英佑〈2021.8.17

 

 「マダム花子」という呼び名に聞き覚えはおありだろうか。彫刻家ロダンのモデルとなった人であり、森鴎外の小説『花子』のヒロイン(のモデル)でもあると説明すれば、思い当たる方もいらっしゃるかもしれない

 

本書の「はじめに」で著者はこう語り始める。知る人ぞ知る人物ではあるかもしれないが、多少は役者の世界や芸能界に明るいという日本人でさえも「マダム花子」という女優は知らないにちがいないことを承知した言葉である。

 

それもそのはずで、「マダム花子」という役者は海外で誕生し、帰国後はみずから「マダム花子」を完全に消し去ってしまったのである。

 

「マダム花子」、本名 太田ひさは江戸から明治へと大きく国体が変わる1868年4月15日に愛知県中島郡上祖父江村(現 一宮市上祖父江)の裕福な農家の長女として生まれた。そして、日本が連合国に無条件降伏する4カ月前の1945年4月2日、78歳の誕生日を目前にして亡くなった女性である。

 

この女性がなぜ海外へ向かい、なぜ海外で、特にイギリスの演劇界・社交界で「マダム花子」の名を知らない者はなく、当時の著名演劇人の人名録『Who’sWho in the Theatre』にその名が記されるまでになったのか。

 

多くの人物伝がそうであるように、本書にも有為転変の波にもまれ、数奇な、通常の人が経験することのないであろう人間ドラマが記されている。しかし、多くの人物伝と大きく異なるのは、「マダム花子」は逆境での辛酸をなめ、危難に直面して悪戦苦闘し、緊迫した生活を送りながら、波乱に満ちた怒濤の人生の最後は「日本に戻って家族に囲まれて幸せに暮らした」(本書「あとがき」)のであった。

 

著者によると、こうした彼女の人生の結末を「少なからずの方が「え?」と、がっかりしたような顔をする。ドラマチックな終わり方ではないからだそうである」(本書「あとがき」)と記している。確かに評伝として取り上げられるたいていの人物は、あまりにもドラマチックであり、その最終形は大団円とはいかないことが多い。

 

それだけにそうした評伝を閉じるや、その人物は書物の中に留まり、現在に生きる読み手からは離れ、同体化することなどはあまり起こらない。ドラマチックとは小説的ということであり、通常の生活ではめったに体験し得ないと承知しているからである。だからこそ、読者は文章を通してその人物の人生を体験し、多少なりともその生き方を学び、そのドラマチックな世界から現実の世界に戻るのである。また評伝なるものを執筆してきた多くの著者たちも、みずからの体験や思想を反映させて対象とした人物像を描くが、その人物とは一定の距離を保とうとするのも、これまた一般的である。

 

だが、著者は人物伝の執筆者として、この一般性からは異なる位置に立っているように見える。

 

「この人のように自分は生きられるだろうかと、何度も花子の立場に身を置いて考えてみた」(「おわりに」)という言葉がそれを教えてくれる。

 

著者はこうも言う。

「その人生は、まさに試練やチャレンジの連続であったように思われる(中略)普通の人間であったら、その一つでも尻込みしてしまうような大きな挑戦に、花子は果敢に取り組み、成功を積み重ねていった」(「第五章 名声を博したマダム花子」)。

 

「花子は、旅芸人や芸者としての経験を恥じるどころか、そうした過去に自信と誇りを持っており、「自分には無理だ」と考えることはなかった。また少々ひどい目に遭ったり、失敗したりしても、「もういっぺんやってみよう」と再び試みる大らかさも持ち合わせていた」(「第五章 名声を博したマダム花子」)。

 

著者は「太田ひさ」から「マダム花子」に変わっていった一人の女性の生き方に強い共感を覚え、著者自身が常に花子に身を寄せながら、その稀有な生涯を書き上げたにちがいない。

 

本書は十分に揃った資料を縦横に駆使して、筆者の客観的な視点で書き上げられる人物評伝とは異なっている。それは冒頭の一文で了解できるだろう。

 

 「その日、花子は身じろぎもせず船の甲板に立ち、遠ざかっていく母国の地を見つめていた。心の中では何度も同じ誓いの言葉を繰り返していた。きっと成功してみせる。それまでは決して日本には戻らない、と」

 

まるで講釈師が花子の人生譚を語り始めているような語り口である。

 

無論、著者はそれを百も承知している。

 

 「花子との出会いは、今からかれこれ二〇年ほど前のことになるだろうか。宮岡健二氏の『異国遍路 旅芸人始末書』という本をたまたま手に取り、「花子という役者は詳しく調べあげれば、一つのおもしろい伝奇物語が書けそう」だという一文を目にし、「それでは自分がそれをやろう」と思ったことを鮮明に覚えている。

 

研究書というよりも、本書のような形にまとめることにしたのも、この最初の出会いによる。「伝奇物語」が頭から離れなかったのである」(「おわりに」)。

 

「伝奇」と言えば、中国の唐、宋時代の短編小説を総称して唐宋伝奇と呼んでいることが想起され、その前身が一つ時代を遡った六朝時代の志怪小説である。「志怪」とは、不思議なこと、珍しいことを記録するという意味であり、「伝奇」もほぼ同様の意味である。日本での「伝奇」には幻想的、空想的な話という括り方が現在では大勢だが、著者の言う「伝奇」は本来の「珍しいこと、想定外のこと、優れていること、興味深いことなどを伝える」意味であるのは言うまでもない。

 

つまり著者は本書の性格を「花子の伝記」ではなく「花子の伝奇」と位置づけているのである。とはいえ、著者の花子に関わる資料への執拗さは端倪すべからざるものがある。

 

日本で活躍することのなかった花子に関わる資料は国外での新聞などに掲載された演劇評や人物紹介、あるいは劇場での公演パンフレットなど断片的なものが多い。だが、ロダン自身の花子評など、当事者からのその時、その場所での貴重な証言も駆使されており、著者の地道で飽くなき資料への探求心なくしてはたどり着けなかったのではないかと思われる。

 

しかも花子は役者だけにイギリスを始めアメリカ、ロシア、フランス、イタリア、オーストリア、ドイツほか北欧、東欧諸国での公演が日々の生活であった。それらを可能な限り跡づける作業にかけた著者の労力と時間は想像をはるかに超えていたはずである。そのめまぐるしいほどの花子の活動ぶりは、本書の目次をざっと見るだけでも十分に理解できる。

 

著者の執拗な資料への探索があったにもかかわらず本書の記述に推測調が散見されるのはやむを得ないところであり、決して瑕疵とはなっていない。しかも、それらの推測は事実とそうかけ離れてはいないように思える。なぜなら推測に至る資料に基づいた事実の裏づけがしっかりあるからである。

 

著者が本書を研究書ではなく伝奇物語と位置づけているのは、すべてが第一次資料に基づいて記述されていないことの自覚があったからではないのか。

 

だが、「伝奇物語」としたからこそ「マダム花子」のパワフルな人生が描ききれたのである。

(やぐち・えいすけ)

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