『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.020

Ⅲ 日蓮と政治

 

二月騒動と日蓮弾圧

 

一二六八(文永五)年、蒙古からの国書によって勘文の予言が的中すると日蓮の教団は急速に拡大し、国内に一割を超える勢力を形成したと日蓮はいう。後年、日蓮は当時を回顧し、政権はこの時点で日蓮を国師として処遇すべきだった、と述べる。具体的には、①日本第一の褒章、②朝廷による大師号の下賜、③軍議への招聘、④異国調伏の祈祷の要請、との四点を挙げる。実はこれが、日蓮が政権に待望する処遇だったという点は重要である。日蓮の唱える立正安国の理想は、すでに日蓮自身の処遇に対する政治目標を含んでいたのである。

 

一方、日蓮から一段と激しい批判を受けた高僧らは、日蓮教団が悪口・放火・武器の集結などを行っていると訴える。当時、鎌倉には悪党と称される集団が蛮行を働き治安を乱しており、幕府は蒙古への防御からも治安には神経を使い、悪党の追放を命じていた。高僧らは、日蓮教団をその一群に加え、処断を求めたようである。さらに重時の娘であり、時頼の妻であり、現執権・時宗の母である後家尼御前(葛西殿一二三三-一三一七)に取り入り、時頼と重時は地獄に堕ちたと日蓮が喧伝している、との作り話を聞かせ、日蓮に対する敵愾心を高揚させた。後家尼に縁ある人々は後々まで「亡き時頼、重時殿のかたき」と日蓮を恨み、一二七九(弘安二)年の富士における熱原法難にも後家尼の介在が疑われる。

 

一二七一(文永八)年九月の竜ノ口処刑と、続く佐渡流罪についても日蓮は、「御尋ねあるまでもなし。但須臾に頸をめせ。弟子等をば又或は頸を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給ひしかば、そのまま行はれけり」と述べ、後家尼らの意を受けた問答無用の処断だったという。

 

御成敗式目によれば、日蓮の斬首が可能になるのは「殺害刃傷」があった場合である。悪口咎の罪状では、流刑が最も重い処分であった。日蓮は、無法な斬首の企てについて「外には遠流と聞へしかども、内には頸を切ると定めぬ」と述べ、政治的な謀略と認識している。後家尼の意を受けた処刑の指令者は、侍所所司であった平頼綱である。

 

この企ては、執権時宗が下した「立て文」によって、かろうじて回避された。時宗の処断について日蓮は、時宗の正室が臨月を迎え、僧侶への無法な処刑を嫌ったからであるとの伝聞を記している。しかしこの話は、時宗自身の意志というよりは、むしろ何者かが時宗を説得する口上にふさわしいように思われる。とかく過剰な処断に走る頼綱を、寄合衆の安達泰盛が抑止するという、その後も繰り返された当時の幕政中枢の振幅の一環と捉えた方が自然ではなかろうか。いずれにしても、後家尼と頼綱の連携が日蓮弾圧の重要な要素になっていた点を指摘しておきたい。

 

さらに、日蓮斬首の企てと二月騒動もまったく無関係ではなかったと思われる。一二七二(文永九)年二月に、執権、連署に継ぐ第三の要職にあった名越時章、その弟の教時が謀反の疑いで殺されて名越家は力を失うのだが、攻撃の首謀者は頼綱であり、これは日蓮配流の四か月後に起こっている。この事件で日蓮門下にも伊沢入道など死傷者が出たようで、京都と鎌倉で死亡した人々の名前を知らせるよう門下に求めており、日蓮自身も後に「もし流罪されずに鎌倉にいたならば、私は二月騒動で間違いなく打ち殺されていたであろう」と述懐している。また、名越氏の殺害についても、「日本国のかためたるべき大将ども由なく打ちころされぬ」、「文永九年二月の十一日に、さかんなりし花の大風におるるがごとく、清絹の大火にやかるるがごとくなりし」と述べ、その無念を表明する。先に触れた「名越の尼」はこの時期に日蓮のもとを一旦は去ったものの、後に後悔し、嫁の新尼(誅殺された教時の妻)とともに日蓮に本尊を請うたようである。

 

こうした一連の経過は、日蓮と名越家の結びつきの深さを示しており、それが日蓮に対する処遇にも直結していたといえよう。

 

江間浩人

 

—次回6月1日公開—

 

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