矢口英佑のナナメ読み #043〈『労働弁護士「宮里邦雄」55年の軌跡』〉

No.43 『労働弁護士「宮里邦雄」55年の軌跡』

矢口英佑〈2021.9.9

 

本書は総評弁護団から日本労働弁護団の幹事長、会長を務め、現在も働く側の権利に係わって弁護士活動を続けている、法曹界で労働弁護士としておそらく知らない者はいないであろう宮里邦雄の「55年の軌跡」が記されている。

 

宮里は1939年に大阪で生まれ、敗戦直後、両親とともに故郷である沖縄の宮古島に戻り、そこで育った。東大法学部卒業後、1965年(昭和40年)に弁護士となって以降、一貫して労働弁護士として雇用者側と常に対峙し、労働者たちに寄り添い、雇用者側に決してなびかない粘り強い戦いを続けてきている。その戦いぶりは労働者側からすれば全幅の信頼を寄せるに足る弁護士であり、雇用者側からすれば実に手強い相手にちがいない。

 

また宮里が東大に入学する頃、沖縄はまだアメリカの施政下にあり(施政権が日本に返還されたのは1972年)、通貨はドルで円ではなかった。つまり当時、沖縄は外国であったため、宮里は国費留学生として日本の大学に進学したのであった。したがって否応なしに高校時代まではアメリカの統治政策を日々眼にし、おのずと沖縄という特殊状況下での政治、経済、社会問題に関心を持つことになった。その関心は現在までも薄れることはない。それゆえ沖縄のアメリカ軍基地問題などで、沖縄に係わる訴訟にも関与し、戦いを続けているのである。

 

本書は宮里に対するインタビュー形式で記されている。インタビュアーは高井 晃、高橋 均、棗 一郎であり、この3人が本書の編集委員でもある。彼らは全国ユニオン元事務局長(高井)、元連合副事務局長(高橋)、日本労働弁護団闘争本部長(棗)とそれぞれ雇用者側との幾多の戦いを経験し、労働界事情に精通している人たちである。

 

それだけに宮里への質問や取り上げる事件(宮里が係わった多くの労働争議、訴訟問題、公判内容など)では、その時代ごとに何を取り上げれば宮里の戦いとその姿勢がより鮮明になるのかを十分に理解していることがよくわかる。さらにインタビュアーたちが労働者たちの戦いに深く関与してきているだけにその質問は表面的ではなく、係わってきた者だけが知る中身の濃い、的確な核心を突いたものとなっている。

 

そのため誤解を恐れずに言えば、読者は取り上げられている事件や訴訟の実態にすんなり入っていけるだけでなく、たとえば、その結果がどのようになったのか考えるまでもなく、インタビュアーたちに道案内されていることに気づかされるのである。

 

通常、インタビューされた者は取り上げられた話題のどこまで話せばいいのか、言い換えれば相手はどこまで話題の内容を求めているのかわからない場合がよくある。しかし、本書のインタビュアーたちは上述したように労働運動に精通しており、宮里も身構えて答え方を慎重に探しながら応ずるということはなく、みずからの思いをストレートに表出させることができたのではないだろうか。

 

本書は第Ⅰ部 インタビューで聞く55年 第Ⅱ部 裁判をめぐる随筆 第Ⅲ部 折々の記の3部構成となっている。

 

宮里によれば、1960年代後半から80年代にかけては労働運動の高揚期で、労働組合活動も盛んで、労働争議も非常に多かったという。確かに宮里が弁護士として活動を始めた時期は国家として壊滅的な損傷を負った敗戦後の経済から立ち直り、高度成長期を迎え、産業構造、そして就業構造も大きく変化してきていた。それだけに雇用に関わる問題も多様化し、労働者側が声を上げるケースも増えてきていた。

 

そのような状況の中で宮里が弁護士となって初めて担当したのが、日本教育新聞社を相手取った不当労働行為として東京都労働委員会に救済を申し立てた事件だった。新米弁護士が担当した最初の事件で宮里は労働事件での雇用者側との戦いの難しさをいきなり学んだようである。それは裁判等で完全勝利を手にしたとしても、必ず〝めでたし〟にはならないという苦い経験をしたからだった。この事件は組合結成の中心人物が出向命令を拒否して、解雇されたのは不当労働行為だとして争われ、解雇撤回、現職復帰を獲得するという完全勝利だった。だが、結果が出るまでの3年間に職場の空気はすっかり変わってしまっていたのである。組合はつぶされ、当人は仲間だったはずの人たちから村八分にされ、精神的に追い込まれて自殺してしまったのである。

 

宮里にとって忘れられない事件となり、そこから得た重く貴重な教訓は「「勝つ」ということは、そのことを通じて組合の団結が強化されること」だと語っている。宮里という弁護士が労働争議で何を大切にしながら労働弁護士を続けているのか、よく理解できる言葉だろう。言い換えれば、それは働く人びとの心のありようにこそ何よりも眼を注いでいかなければならないという教訓だったのである。

 

この心のありようということでは、23年間にわたって戦った「国労」(国鉄労働組合)問題は、多くの闘争事案が現れてくるとともに、働く側にもさまざまな矛盾を表出させていった。それだけに、いかに組合員の心を一つにし、組合をまとめていくのか、大きな困難に満ちた戦いだったはずである。

 

現在の民営化されたJRの前身である国鉄は言うまでもなく国が運営する鉄道会社だった。この23年間の戦いとは、大雑把な言い方をすれば、巨大な労働集団である国鉄職員の団結力が雇用者側の国鉄(政府)からすれば脅威となってきていただけに、その力を弱体化させようとする国鉄からのさまざまな要求、術策、手法との戦いだったとも言える。

 

官公職員にはストライキ権はないという公労法のなかでストライキを決行し、大量処分を受けると、公労法は違憲でありILOからは日本のストライキ禁止法制はILO条約に違反するという勧告が出された。そうした中でこの法制撤廃を狙ったのが1971年11月26日から国労が8日間に渡って各地でストライキを展開したのがスト権ストだった。

 

また、大変個人的な記憶になるが、一つの戦術として用いた「遵法スト」は、決められたとおりの運行規定に則って電車を運行させるという戦術で、電車の到着、発車が常に遅れることになった。当時、電車通学していた私などはおかげで家を早めに出る習慣が身についてしまったほどだった。

 

今では考えられない組合員の団結力と激しい戦いが繰り返され、それは国鉄民営化の過程での職員の雇い止め問題など不当労働行為に対する戦いにも繋がっていった。当然、そうした戦いの中に労働弁護士としての宮里の姿があった。

 

解決に向けての長い戦いの中で弁護士の役割について、宮里は、

 

 労働運動そのものの当事者じゃない私たち弁護士が、ちょっと一歩引いて(中略)問題提起や助言ができるわけです。運動と共にありながら一歩離れたところで冷静に見るというのは、大切な弁護士の役割

 

と語っていて、経験がもたらした実に正鵠を射た言葉だろう。当たり前のようだが、激しい闘争の渦中に引きずり込まれると冷静さを失い、こうした自覚を持ち、みずからを律し続けるのはそう簡単ではない。こうした宮里の冷静さが働く側の人びとからは無類の信頼を得、同じ弁護士たちからは頼られ、日本労働弁護団の会長に推挙されたのはむしろ当然だったのである。

 

宮里が弁護士となりさまざまな事件と関わり、解決してきたその後の日本は、経済的に減速、停滞という時代を迎え、労働者が戦って労働条件を勝ち取るという闘争力が薄れていく。現在では労働者がストライキを決行するなどという時代ではなくなっていて、多くの企業での組合の組織率が著しく低下している。宮里が言うように集団的労使紛争から個別的労使紛争の時代になっていて、社会主義的なイデオロギー性も弱まってしまっているのはまぎれもない事実だろう。

 

企業内での組合活動が不活発になってしまっているのは、雇用形態がさまざまな形となり、労働者側が一致団結することが難しくなっているのも一因としてある。現在ではフリーランスという言葉に象徴されるように雇用されない働き手という新たな労働者問題が浮上してきている。

 

こうした状況に対して日本の労働運動の行く末に危機感を持っていることを宮里は隠さない。いやだからこそ、これからの労働運動は企業別・産業別の枠を超えた広範な労働組合の総結集を図る視点を持て、労働運動が社会運動、市民運動との連携を図れ、と言うのである。「労働者は市民でもあるのだから、労働者と市民の総体的な利益とか権利を視野に入れた運動を展開する」という言葉は実に説得力がある。誰もが理解できるはずである。

 

「労働弁護士に必要なのは〝熱き志〟であり、〝クールヘッド〟と〝ウオームハート〟」と言い切る宮里の労働弁護士としての戦いはまだまだ続く。

 

 

(やぐち・えいすけ)

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