矢口英祐のナナメ読み#015〈『ふたりの村上』〉

No.15『ふたりの村上』

矢口英佑〈2019.8.8

 

 本書の著者が吉本隆明で、書名に〝ふたりの村上〟とくれば、この〝ふたり〟が村上春樹と村上龍であることは、まず察しがつくだろう。

 

 本書に収録されているこの二人の作家、および作品への吉本の評論文は、小川哲生の「編集後記にかえて」によれば、

 

 本書は、吉本隆明氏が書きためてきた、村上春樹・村上龍論のすべてを収録したものである。

 最初に村上龍について書かれたものは、『作品』一九八一年一月号に「イメージの行方」として発表され、のちに『空虚としての主題』として一書にまとめられたもので、本書はこの作品からはじまり、『群像』一九九七年六月号の「村上春樹『アンダーグラウンド』を読む どちらがわでもない」(『思想の原像』に収録)にいたる二〇の作品から成り立っている。

 吉本氏五十七歳から七十三歳にかけて十六年間にわたって書き継がれたものであるが、平均すれば、ほぼ一年間に一作強のペースである。

 

 と要領よくまとめられている。

 

 吉本隆明は2012年に亡くなっているので、73歳以降の14年間、彼は〝一年間に一強〟のペースから完全に降りてしまったわけで、この空白の追究からも吉本隆明の〝ふたりの村上〟観が窺えるかもしれないなどと思ってしまうのだが、本欄の主旨から外れるのでひとまず措くことにする。

 

 それにしても本書は、吉本隆明、そして村上春樹と村上龍に関心を持つ人びとには堪えられないのではないだろうか。

 

 吉本に絡ませて三者に関心を持つ人もいれば、二者に対する人もいるだろう。いずれにしても本書一冊で村上春樹、村上龍に関する吉本の評論文がすべて読めるのだから。小川哲生が「本書収録の論考は吉本氏が生前に刊行した単行本に二篇を除いて収録済みのものであるが、これをすべて読むには、およそ一〇冊ほどの本を手に入れる必要がある」と通読の困難さを敢えて言うのも当然だろう。

 

 吉本の全集を企画出版してきた大和書房の仕事(小川哲生が関わっていたのだが、退社によって中断)の完結が難しくなって、これに「ふたりの村上」という書き下ろしが収録される予定になっていたが、脱稿しなかったようである。かえすがえすも残念である。

 

 それだけに今回、幻の「ふたりの村上」を除いて「一冊に丸ごと収録」して刊行できたことは、間違いなく吉本隆明ワールドをこよなく愛する人びとには大きな意味があるはずである。ましてやそれが村上春樹、村上龍だけを論じた評論となればなおさらだろう。無論、村上春樹、村上龍に関心を持つ人びとにとっても、吉本隆明による二人への評論がこの一冊で手軽にすべて読めるのだから、なんとも心憎い一冊と言えそうだ。

 

 吉本隆明という一人の評論家が一人の作家(ここでは二人の作家)を14年間にもわたってその視野から外さず、息長く関心を注ぎ、新たに作品が発表されるたびに誌上で取り上げてきたのには、それなりの理由があったはずである。

 

 ひたすら一人の作家について研究を積み重ね、常にその作家に密着してきたのであれば、14年間という時間は格別長いとは言えないし、珍しいことでもないだろう。しかし、文芸評論家であっただけに、吉本隆明の〝ふたりの村上〟への迫り方には、一つの特徴が見られる。それはもっぱらその時、その時代の作品として存立する意味への接近と言っていいだろう。「作家論」的要素よりは「作品」の分析、読み解き方に重きが置かれる「作品論」がほとんどである。

 

 これは、同時代的に批評することが求められる売れっ子の文芸評論家であってみれば、避けがたかったと思われる。しかも注目し続けてきた作家も当代きっての売れっ子作家二人であってみれば、作家自身もその時代に感応して作品を生み出してきているわけで、〝ふたりの村上〟論がその集積になっていてもむしろ当然だろう。

 

 見方を変えれば、吉本隆明の批評の姿が時代状況と合わせて、連続的に感得できると同時に、吉本が俎上にのぼらせる〝ふたりの村上〟作品から、両村上が日本のその時代の状況をどのように捉え、どのように描いていたのかを実に明確に再確認させてくれるのである。

 

 たとえば、1973年前後に駅などに設置されているコインロッカーに新生児を段ボールなどに詰めて遺棄する事件が多発して、大きな社会問題となったことがあった。いわゆる捨て子事件だが、場所が場所だけに死亡して発見されるのがほとんどだった。これに注目した村上龍は、遺棄され、仮死状態で発見された新生児二人を主人公とした『コインロッカー・ベイビーズ』を世に送り出した。

 

 また村上春樹は1970年前後の安田講堂事件に象徴される大学闘争時代を背景に若い男女の生と死を描いた『ノルウエーの森』を書いているし、『アンダーグラウンド』は1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件を扱っている。こちらは被害者たちへのインタビュー記録で、地下鉄に乗り合わせて被害に遭った被害者と家族たちから取材して、事件の全貌を探ろうとした実録である。

 

 これらの作品を吉本はどのように読み解いたのか。それは是非とも本書を手にとっていただくことを願うしかないが、ただ『アンダーグラウンド』はフィクションではないのだが、吉本は小説として読み解こうとしている。しかも文芸評論家の顔に特に思想家の顔を大きくかぶせるようにして、ということだけ記しておく。

 

 本書に収録された20の評論の視点は、「解説」を書いている松岡祥男が「吉本隆明の村上龍と村上春樹への接近は、その時のモチーフによって〈視座〉が違っている」と指摘していて、私もその点に異論はない。

 

 でも、吉本隆明はなぜ14年間もこの二人の作家を追い続けたのかと私に問われたとして、作家として優れていると認めていたから、では答えになっていないような気がする。

 

「編集後記にかえて」を書いている小川哲生は

 

 〈現在〉を象徴するに足る作家であると感じたと同時に、たとえば江藤淳が両村上をサブ・カルチャーと切って捨てたのと違い、彼らが当時の文学状況に、ある新しさとインパクトを与えたことを評価しないのでは、なんの文芸批評家かとの覚悟から論じ続けた

 

と見ている。

 

 確かに1980年代、1990年代を象徴する作家として二人が存在したことは否定できないし、それを吉本が評価していたことも疑いを入れない。しかし、吉本はこの二人にのめり込んでいるわけではなく、時にはまるで親が子を見るようなまなざしであったりもする。また、時には村上龍の『愛と幻想のファシズム』を「ハードボイルド風の劇画小説」などと身も蓋もない言い方をしてみたり、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では「御苦労さん作者さん、御苦労さん読者さん。まず衆目のみるところ、もっとも希望をつなげる意欲的な若い世代のホープたる作者が、精いっぱい物哀しく、明るく軽い抒情をみなぎらせて、知的なたわむれの世界を繰りひろげてみせてくれた」などと半分からかい気味の批評にぶつかると、やはり吉本隆明という文芸評論家にして思想家、詩人はそう一筋縄では理解しえないことをあらためて思い知らされる。

 

 

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〈次回『黙示録論 ほか三篇』2019.9月上旬予定〉

『ふたりの村上』 四六判上製272頁 定価:本体2,600円+税

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