矢口英佑のナナメ読み #053〈『アンリ・ベルクソンの神秘主義』〉

No.53「アンリ・ベルクソンの神秘主義」

 

                   矢口英佑〈2022.6.17

 

本書は書名から理解できるように、フランスを代表する哲学者アンリ・ベルクソン(1859〜1941)が思索の積み重ねの中でたどり着いた神秘主義とはいかなるものであったのかを読み解いたものである。

 

ベルクソンの神秘主義とは何か、本書では1932年に著わした彼の『道徳と宗教の二源泉』に着目する。著者はベルクソン哲学の全体像から彼の神秘主義を理解するのではなく、ベルクソンの神秘主義に光を当てることで彼の哲学全体像を見ようとしている。

 

そもそも神秘主義とは何か。その回答が一筋縄でいかないことは哲学者や思想家,神学者ばかりでなく社会学者や文化人類学者、文学者なども取り上げ、それぞれが追究を試みていることからもわかる。さらに〝そもそも論〟的にいえば、〝神秘〟とは日常的に体験できない、超自然的で、理屈では説明できないものであり、したがって、あり得ない体験をしたと言う者が精神的疾患者と見なされてしまうことさえある。それほどに常人の日常的生活上では〝超常現象〟とも言える不可思議な、あるいは奇異な事柄となるものである。

 

ベルクソンが神秘主義という言葉を著書に登場させるのは遅く、60歳を迎える1919年に刊行された論文集『精神のエネルギー』にも記されていない。これからも理解できるように著者の言葉を借りれば、ベルクソンはみずからの哲学の主要テーマである「物質から独立する精神」、「内的経験と言語との軋轢」、「運動の単純さの顕現」を追究する過程で次第に神秘主義に近づいていったことがわかる。ただし、言葉として神秘主義が使われていなかっただけで、この言葉を使う以前からベルクソンの思索と神秘主義の交錯があったことは言うまでもない。なお、ベルクソンが本格的に神秘家と呼ばれる人びとの著作を読み始めるのは1907年以降のことであった。

 

なぜベルクソンは神秘主義、あるいは神秘家に惹きつけられていったのだろうか。ベルクソンの哲学的思索の中に見いだそうとすれば、次のような点が挙げられるだろう。

 

神秘主義は深遠な生命へのある種の呼びかけ

神の存在を意識し、神を動的な創造と同一視

人間の生命の創造を伝えることがベルクソンの考える道徳

この道徳を波及させる者が神秘家

 

ベルクソンにとって「呼びかけ」をし、「道徳」を伝える神秘家は通常の人間でありながら、精神の豊かな創造性を持つ選ばれた者で、「新たな道」を切り開き、通常の人間に「生命原理」という根源的な真理を経験させる者であった。

 

このような神秘家や神秘主義をどのように捉えるべきか説いたのが、著者が本書で注力する『道徳と宗教の二源泉』にほかならない。

 

常人の生活では〝超常現象〟とも言える不可思議な、あるいは奇異な事柄の神秘経験をどのように証明するのか。その方法として彼が提示したのが「事実の複数線」というものだった。ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』で述べている説得力のある検証方法の一つとなっている。

 

神秘経験に「確実性」を持たせるには神秘家の経験が一つだけの孤立した状態ではなく、複数の経験の「蓋然性」が集積されることで「確実性」が出てくるというのである。経験の事実から延長されたそれぞれの線が交差する点に「確実性」が得られるというのがベルクソンの「事実の複数線」というものである。

 

「真理」についてもベルクソンは「すぐさま経験的に検証できるわけではなく、ときには真理の周囲を回り、真理へ向けて数多くの道を開かねば」ならず、そのいずれもが「真理を規定するに不十分だが、「事実の複数線」におけるこれらの線の交差によって真理を規定する」と説明している。つまり私たちが時には使うことがある「真理」などという言葉もベルクソンの解釈によれば、「神秘性」と同様の「蓋然性」を積み重ねる経過を経て、確実性を獲得していることになる。

 

「蓋然性」の積み重ねが「確実性」に到達するという解釈は、おそらく私たちの周囲のあらゆる場面で受け入れ可能と言えるものだろう。このベルクソンの検証方法に従えば、一般的に〝超常現象〟〝超常体験〟と言える神秘経験も決して〝超常〟ではなくなる可能性があるということになるのだろう。

 

次いで、ベルクソンはこの「事実の複数線」を用いて身体の滅亡後も魂が存続する彼独特の「生き延び」について語る。この「生き延び」は神秘経験の蓋然性を積み上げることで得られると言う。魂の存続などと言われると、まさに宗教的、神秘的でいかにも理解不能に陥りそうだが、ベルクソンの解釈によれば、確かに「事実の複数線」の上に成り立っていることが了解できる。

 

では、死後にもなお存続するものとは何か。ベルクソンのそれは「記憶」にほかならない。生存中に語られた神秘家の経験が記憶によって受け継がれ、「人類の記憶」という共同体記憶として残され、それが人びとに影響を与えていくことになり、「生き延び」は可能になるという。

 

記憶によって受け継がれた神秘家の魂によって、生命の根源に触れることで人びとをさらに前進させるのは、神の愛とも言われる生命の創造的エネルギーである。神秘家はこの生命力を拡散させる役割を担っている。

 

それではその拡散方法とはどのようなものなのか。ベルクソンは「創話機能」という概念を提示している。この「創話」という捉え方はベルクソンが初めてではなく、病理学的見地から見た宗教的幻覚研究を行なったジャネの『苦悶から恍惚へ』からの影響が大きいと見られている。この「創話機能」を持ち出すために、ベルクソンはその入り口論として人間と社会、そして宗教について、その関係性を説いている。

 

人間が社会を築く第一の目的は、生命活動の維持だが、人間が知性に基づいて活動する以上、自己を優先して社会を軽視しがちになる。人間社会を作るのが知性なら人間社会を崩壊させるのも知性だとベルクソンは言う。だが、人間社会が崩壊に向かわないのは、宗教の力があるからだとも言う。

 

ところが、社会を崩壊させる危険性をもたらすのは「個人的自主性」だけでなく、死の不可避性(「死の確信」)も人間活動の衰退を招くというのである。さらに知性は予測し計画することを可能とさせ、存在しない対象にもそれに向けて行動を起こせる能力がある一方、予測を超えた「偶発事」に直面する場合がある。

 

「個人的自主性」「死の確信」「偶発事」という三つの障害に私たちは意気消沈し、知性ではこれらを乗り越えられず、それを救済する生命の力に結びつけるのが「創話機能」だとベルクソンは言う。

 

そして、「創話」を「フィクション」と呼ぶベルクソンだが、小説などの芸術的営為という枠内に止まることなく、あらゆる「語り」が「創話機能」と捉えている。知性が乗り越えられない現実に直面したとき、「フィクション」という「経験の模造品」によって知覚も「模倣」するという。「フィクション」の基盤となる言語は内的感覚や現実を完全には表現できないが、他者への伝達機能としては有益な能力であることは言うまでもない。こうして「フィクション」は知性の危機に対する実利的な対応として生まれるものであり、しかもその際には本能との交錯も起きているという。

 

私たち人間が神話に惹きつけられたり、創作を試みようとしたりする営為を思い起こせば、ベルクソンのこの「創話機能」の解釈は大いに納得がいくのではないだろうか。

 

このような「創話機能」によって、人間はなんらかの現象の背後に人格が潜んでいると感じ、禁止し、警告し、処罰する道徳的な力が「人間の形態」として現われるという。つまり「創話機能」が宗教の根本的な構造をかたち作っているとしている。たとえば人間は死の恐怖に対しては死を乗り越えて存続する人物を創造することでこの恐怖に打ち勝つのである。

 

社会体制を崩しかねない「個人的自主性」「死の確信」「偶発事」という三つの障害に対して「個人的自主性」にはそれを罰する人格、「死の確信」には死後にも存続する人格、「偶発事」には交流可能となるような人格が与えられことで社会の安定が保たれるとベルクソンは考える。

 

神秘家の経験は「創話機能」によって人格としてのイメージと言葉としてのシンボルが融合し、それが神秘家の声となって人びとに呼びかけるのである。創造的エネルギーの神の愛を分有する神秘家はそれを人びとに届ける役割を担い、それらは「事実の複数線」「生き延び」「創話機能」といった装置によって伝えられるとベルクソンは確信している。

 

最後にベルクソンは神秘家の役割として神秘家と「機械」とが築く関係について触れている。社会の機械化によって人間は尽きることのない欲求を増大させ、他国の国土や原産物の獲得のために戦争等までも引き起こす。ベルクソンはその問題解決を神秘家に託そうとした。第一次世界大戦がベルクソンの思索に影響を与えたことは間違いないが、現在のロシアによるウクライナ侵略戦争を考える一つの道筋を与えているのではないだろうか。

 

本書が取り上げている『道徳と宗教の二源泉』は神秘主義や神秘家についての思索だけに、著者にとってそれを読み解き、分析し、解説するのはなかなか難しい作業だったはずである。著者自身だけでなく、本書を手にする読者に理解できるように、著者が精魂込めて咀嚼したベルクソンの神秘主義や神秘家の役割について、わかりやすく説明しなければならないからである。

 

一般的に哲学に関わる書物の理解はそう簡単ではなく、読み手にも一種の覚悟が必要で、緊張した読書姿勢が求められる。その意味では,著者のベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』への斬り込み方は一歩ずつ慎重に歩みを進め、みずからが理解した内容を時には振り返り、確認し、そして前に進むといった観がある。こうした読み解き方は読者にもありがたく、著者の理解の道筋をたどりながらベルクソンの神秘主義や神秘家の存在とその役割に著者とともに近づいていくように感じられる。

 

神秘主義や神秘家と宗教との関連性は日本人には理解が及びにくいテーマであるかもしれない。それだけに本書によって分析され、解説されたベルクソンの神秘主義への接近は、新たなベルクソン哲学世界を拓く一書となったと言えるだろう。

(やぐち・えいすけ)

 

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