矢口英佑のナナメ読み #070〈 『ボヌール・デ・ダム百貨店』〉

No.70『ボヌール・デ・ダム百貨店』

 

矢口英佑〈2023.4.12

 

フランスの作家・エミール・ゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』を日本に初めて翻訳、紹介したのは大衆小説で流行作家として大正、昭和前期まで多くの作品を書き、代表作『雪之丞変化』を残した三上於菟吉だった。大正11年(1922年)に『貴女の楽園』として天佑社から刊行されたが、抄訳で英語訳本を底本としていた。その後、1999年に本の友社より「ルーゴン=マッカール叢書」セレクション6『貴女の楽園』として、三上のそれが復刻されていた。しかし、完訳本は論創社が2002年に刊行するまで、実に80年間も日本には存在しなかったのである。

 

この小説は1883年に刊行されたが、この時代は産業革命によって人びとの生活に大きな変化が起き、工業社会への転換は都市生活者を増加させていた。生産力の向上は個人収入の増大をもたらし、農耕社会に比べて豊かになり、生活形態を一変させていた。女性たちは生産活動に加わらなくなっていき、商業主義の中で女性は消費者、購買者となっていった。競争社会の出現は富める者と富まざる者を生み出し、格差が急速に社会に広がってきていた時期だった。

 

そのような人間を取り巻く社会のありようを敏感に感じ取ったゾラは「自然主義文学」を提唱し、社会や人間の行動、思考、生き方をより自然科学的、客観的に描くことを目指した。ありのままに描こうとする描写方法は日本でも島崎藤村、田山花袋、国木田独歩などに受け入れられ、すぐれた作品が生まれていた。とはいえ自然主義文学の退潮も早く、1910年前後には白樺派のような人道主義を掲げる文学などが台頭してくるのだが、それでも三上が『貴女の楽園』をたとえ抄訳であっても、翻訳出版する社会的意義は決して小さくなかったと言えるだろう。

 

しかし、その後は社会の変動と文学主張の変化などから次第にゾラへの関心度が薄れるという流れになっていったと思われる。ただし、研究者たちの周辺では、ゾラへの思いを強く持ち、作家研究、小説研究、翻訳・紹介の刊行への熱意が出版社などにも伝えられてきていたはずである。とはいえ、これまた日本の出版界の当然の成り行きだろうが、商業的に考えて、多くの出版社が〝儲かるほど売れない〟と判断してきたのではないだろうか。

 

あるいは『ボヌール・デ・ダム百貨店』は、ゾラが22年間をかけて描き続けた一族の物語である「ルーゴン・マッカール叢書」全20巻の11巻目で、主人公に視点を当てれば、「ボヌール・デ・ダム百貨店」の経営者・オクターヴ・ムーレは第10巻の『ごった煮』の主人公でもあり、少なくともこの2巻を一作品と見なしてきた向きもあったのかもしれない。

 

断っておくが、ゾラの描く小説世界は決してつまらない内容ではない。むしろゾラが生きた社会のありようを克明に映し出し、そこに生きる人間の赤裸々な姿が鮮やかに描かれていて、まさに時代を活写している。いかにも自然主義文学の先導者、実践者に相応しいと言えるだろう。それを証明するように、いくつもの作品がこれまでに映画化され、「居酒屋」「ナナ」などがそうだが、『ボヌール・デ・ダム百貨店』も1943年にフランスで映画化されている。

 

いずれにしても、以上のような商業主義的な日本の出版界の事情があることは、善し悪しを別にして理解できる。だが、また日本の文化を育て、豊かにし、あるいは文化を創り出す牽引車となる一翼を出版界が担っているのもまちがいない。それだけに、時には〝儲け〟を二の次にして、出版する心意気を持つ経営者もいて、そうした〝英断〟によって日本の文化事業が支えられてきている一面があることを本書の刊行で改めて知らされた。

 

『ボヌール・デ・ダム百貨店』に限って言えば、2002年の論創社による完訳本刊行に続いて2004年には藤原書店が『ボヌール・デ・ダム百貨店—デパートの誕生』という邦訳題で刊行している。2社とも〝儲け第一〟をもくろんでの刊行ではなく、出版人としてこの作品の価値を認め、またこうした作品の翻訳紹介を働きかけてきた研究者やその周辺の人びとの熱意に応えようとした結果だったに違いない。

 

実際、2社ともこの小説だけでなく、論創社は「ルーゴン・マッカール叢書」の翻訳刊行に取り組み、2002年11月の『ボヌール・デ・ダム百貨店』刊行以降、『ルーゴン家の誕生』(伊藤桂子訳)、『ごった煮』(小田光雄訳)、『獲物の分け前』(伊藤桂子訳)、『夢想』(小田光雄訳)、『壊滅』(小田光雄訳)、『パスカル博士』(小田光雄訳)、『大地』(小田光雄訳)、『生きる歓び』(小田光雄訳)、『ナナ』(小田光雄訳)、『プラッサンの征服』(小田光雄訳)、『ジェルミナール』(小田光雄訳)、『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』(小田光雄訳)の13冊を2013年3月までに刊行していた。一方、藤原書店も『ボヌール・デ・ダム百貨店—デパートの誕生』『パリの胃袋』『ムーレ神父のあやまち』『愛の一ページ』『獣人』『金』の6冊などを収める「ゾラセレクション」全11冊を刊行している。

 

そして、2023年2月、論創社としては『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』刊行から10年を隔てて、再び『ボヌール・デ・ダム百貨店』が20年ぶりに前回と同じ訳者の伊藤桂子が改訳して世に送り出したのである。この新版では旧版にはなかった31点の挿絵が加えられ、読者の目を楽しませ、想像の世界を膨らませるのに役立っている。

 

両親を失い、叔父を頼って二人の弟を連れて田舎町からパリへ出てきた20歳のドゥニーズ・ボーデュは、初めてデパート見て、

 

 「不意に出会ったこの店と巨大な建物は、胸をときめかすものであり、感動と興味でいっぱいになり、呆然としてしまった。ガイヨン広場に面した一角の高い入り口は中二階にまで達する総ガラス張りで、金箔張りの複雑な装飾が周囲に施されていた。店の象徴である一対の女性のレリーフは、にっこりと微笑み、胸をあらわにして「ボヌール・デ・ダム(夫人たちの幸福)百貨店」と店の名を記した巻物を展げている」

 

「夫人たち」に「幸福」をもたらすきらびやかなデパートにドゥニーズが呆然とするこの小説の冒頭部分は印象的である。大量消費社会を迎えた大都会パリと女性をターゲットにし、彼女たちの欲望を満足させようと魅力的な商品を揃えたデパート、そして田舎出の20歳の娘がこのパリの魅惑的なデパートとどのように関わり、どのように生きていくのか、読者の目を惹きつける書き出しとなっている。

 

ストーリーは二つの軸足を持つ。一つはデパート経営者オクターヴ・ムーレが豊富な商品を取りそろえ、宣伝と過剰なほどの顧客サービスによって、都会に住む女性を惹きつけ、激しい競争と商業主義によって、周囲の商店を呑み込み、急激に躍進していくデパートの発展物語である。もう一つはこのデパートの売り子として働くドゥニーズ・ボーデュへの思いを強くするオクターヴ・ムーレの意のままにならない恋の行方である。

 

デパートの売り場で働く若い娘とそのデパートの経営者との恋の物語は、絶大な権力を持つ経営者が一人の従業員にすぎない娘に翻弄され、右往左往するストーリー展開は読者を大いに楽しませてくれる。

 

しかし、今回再刊されたのには、上記のような本書の魅力以外に日本の状況に照らして見れば、〝現在的な意味〟がそのほかにもありそうである。

 

本書は大衆消費社会の始まりを強烈に教え、顧客をいかに惹きつけるか、あの手この手の販売戦略は現代にも通じており、こうした社会現象はさらに勢いを増して、猛烈な勢いで驀進中と言えるだろう。また物流と消費は経済を支える重要な要件となっていることは現在を生きる私たちはよく知っているはずである。さらにはどこにいても、何をしていても飛び込んでくる広告宣伝とその効果が絶大であることもこの小説は教えているが、これに関連して訳者の伊藤桂子は、「新版『ボヌール・デ・ダム百貨店』に寄せて」で、

 

 「広告に洗脳される群集心理の描写はル・ボン『群集心理』に先立ち、百貨店を徘徊する暇な客はリースマン『孤独なる群衆』の登場を早くも予想させる。コロナ禍における群衆の一人として興味が尽きることがない」

 

と、この小説が再刊される意義を説いている。

 

確かに広告に洗脳される群集心理はデパートだけのことではない。今や私たちの日常生活は溺れるほどの情報の海に浮かび、絶え間なく押し寄せる広告宣伝の大波に見舞われている。スマホをいっときも手放せない人びとは歩行中もその画面を見続け、会話を失った孤独な群衆が街を行き交っている。

 

そのような中でデパートは『ボヌール・デ・ダム百貨店』時代ほどの勢いは失われてしまっているとはいえ、現在も「商品の質」「高級感」「品揃え」「安心」「信頼」といった特色を売りにしている。

 

激しい大衆消費社会を驀進中の現在、130年前のパリのデパートに惹きつけられた夫人たちの人間模様と顧客心理をみごとに描いたこの小説世界は決して色褪せていないことが理解できるはずである。

 

論創社が20年ぶりに新たな訳文世界によって『ボヌール・デ・ダム百貨店』を再刊したのは、日本の文化創造の一翼を担い、さらには社会の木鐸となる責任を出版社が担っていることを十二分にわきまえている証左であるように思える。

 

その意味で、本書が新訳によって20年ぶりに再刊されたことを喜ぶとともに、それを実践した論創社に敬意を表したい。

 

(やぐち・えいすけ)

 

 

 

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