Ⅲ 日蓮と政治
日蓮仏法の政治性
寺社利権と弾圧の動機
ここで、忍性など高僧らが日蓮を排撃した理由を考察しておきたい。
そもそも日蓮排撃の理由が教義上の問題なら、なぜ日蓮が切望して止まなかった幕府による公場の法論が実現しなかったのだろう。日蓮の教義の排他性や選択の論理が問題だとしても、畢竟これも論争の枠を出ない。実は彼らには教義問題以上に切実な日蓮排撃の動機が存在した。政治的、経済的権益の問題である。
社寺は多くの寺領を領有しその経営にあたる領主であった。当時の祭礼は武力にも匹敵するもので、社寺は、天災や戦闘に際して祈祷を行い、日時や方角の吉凶を占い、法令や天災について進言する勘文を通じて、幕府や有力者を助けると認識されていた。御家人は論功によって所領が安堵されたが、社寺は幕府や有力者の帰依によって、所領の安堵が約束されていたのである。
日蓮は安国論で、念仏への「施を止めよ」と主張する。そして一二六八(文永五)年、蒙古からの国書が届いて安国論での予言が的中し、さらに一二七一(文永八)年には、忍性による祈雨の祈祷が叶わなかったことから、日蓮の忍性攻撃は激しさを増した。いずれも祭礼に関わる問題であり、忍性の経済基盤に直結する問題であった。
日蓮が佐渡に配流中、その布教によって佐渡の念仏者が相次ぎ日蓮門下となっていく事態に対し、念仏僧たちは「日蓮を殺害しなければ、我らは餓死してしまう」と嘆いている。ここに日蓮を弾圧する動機が端的である。念仏僧たちが恐れたのは「餓死」であり、日蓮門下の拡大は、既存の仏教者がその経済基盤を失うことを意味していたのである。
日蓮が殊に激しく批判した忍性を例示してみよう。当時、鎌倉には天変・飢饉によって多数の流人・非人が押し寄せた。石井進氏の指摘によれば、極楽寺の別当だった忍性は流人・非人を鎌倉境界で押しとどめ、これを組織し、その労働力を使って大規模な建設事業を幕府から請け負って利益を上げていた。また港湾施設である飯島の維持管理、および関料徴収の特権も認められていた。さらに由比ヶ浜と材木座海岸一帯での殺生禁断の励行、取り締まり権も付与され、ときには港湾に運ばれる木材などを、その品不足に乗じて買い占めて暴利を得たようである。これらの利権は、すべて幕府から極楽寺に与えられていた。忍性は、連署・重時の帰依を得たことで、膨大な特権を享受していたという。
このように当時の寺社は、時の政権に強く依存していたがゆえに、政権内の抗争から直接的な影響を受ける存在であった。別の例を挙げる。宮騒動と宝治合戦の際、時頼は、ほとんどの僧らが反時頼方に加担して祈祷・呪詛したことから、これらの僧を放逐し、唯一、味方した隆弁を鶴岡八幡宮別当・園城寺別当として重用した。当時の僧がいかに政治抗争のうちに存在し、政治的・経済的影響力の保持と増進をはかっていたかが分かる。
同様に、重時の帰依によって膨大な特権を受ける忍性を、名越家に近いとされる日蓮が激しく批判し、しかもその批判は極楽寺の利権にも向けられた。得宗家と極楽寺家が日蓮を政治的な脅威とみたのは当然であろう。池上宗仲は父・康光から忍性の意向に添って勘当され、後には八幡宮の造営に際して職を外される。これも池上家が木材を扱う作事奉行として、極楽寺の強い影響下にあったからである。
江間浩人
—次回9月1日公開—
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