『コロナの倫理学』 ⑦コロナ禍の心理学
森田浩之
5人会食の是非
行きつけの店で頻繁にモーニングかランチを食べていると、よく2組のお客さんが対面ではなく、横並びに座る光景を目にする。以前述べたように、飛沫のかかり方は正面よりも左右のほうが多くなる。今回は産経新聞で紹介すると(2020年10月13日)、「理化学研究所のスーパーコンピューター『富岳』で新型コロナウイルス対策の評価を進める同所などのチームは13日、『飲食店の4人掛けテーブルで最も飛沫をかぶるリスクが高いのは、感染者の正面ではなく横に座る人』などとする飛散シミュレーション結果を発表した。隣り合う席の間に仕切りを設けるなどの対策と換気を組み合わせるのが重要だとしている」1)とのことである。
複数の報道機関で流されているニュースがこんなにも多くの人に共有されていないということは、いったいどういうことなのだろうか。むしろ毎日毎日、何時間もコロナ検索をしている私のほうが異常人物ということであろう。確かに、多くの人が富岳のシミュレーションについて知ることはないかもしれないが、会話の際に自分の口から出る飛沫が感染経路だという話は、もう常識なのではないだろうか。そして知り合いどうしの場合は、対面よりも、横並びのほうが、お互いの顔と顔の距離が近いから、飛沫も多く届くと推測することはできないのだろうか。
これは知り合いどうしの話であり、たとえば大きいテーブル(カフェのコミューナルテーブルなど)では、他人どうしのそれぞれ別々のひとり客を座らせる場合は、対角だろうと横並びだろうと、ほとんど変わらない。独りでいるかぎり、しゃべらないからである。しかし、もしどちらかを選べと言われれば、くしゃみや咳、独り言の危険性を考慮して、横並びを提案したい。飛沫は正面に行くから、もしかしたら風に乗って対角の人に向かうかもしれないが、真横の人には到達しにくいからである。
しかし、おしゃべりを目的にした知り合いどうしが横並びで座ることに関しては、見るたびに、いまでも不思議である。申し訳ないが、正真正銘の単なる好奇心から「どうして、そんなこともわからないんですか?」とたずねてみたいところだが、喧嘩を売っていると誤解されるので、黙って憶測するしかない。
このように、科学的根拠と日常感覚とのあいだには大きな隔たりがあり、多くの誤解がまかり通っているが、そのひとつに、まだ5人以上の会食が続いていることが挙げられる。本稿を書き始めた2021年4月後半に、大阪市の職員が5人以上の会食をしていたというニュースがあった。読売新聞(2020年4月24日)によると、「大阪市の松井一郎市長は23日、市職員が3月1日から4月4日の間に5人以上での会食などを行っていたケースが200件以上確認されたと明らかにした。出席していた職員は1000人を超えるという」2)とのことである。
なぜ会食は4人まででなければならないのか。2020年末、菅首相が5人以上の会食に出席し、謝罪したことで話題になった。毎日なめるように見ているNHK NEWS WEBがこれについて特集したが(2020年12月17日)、西村経済再生担当大臣の発言として、クラスターの多くが5人以上の会食だったと報じている3)。大臣は「飲酒を伴って、長時間、大人数でマスクを外しての会話が最近のクラスターの特徴的な事例だ。会食のクラスターの8割以上は、5人以上だということを頭に置いて、長時間、大人数はできるだけ避けていただくようにお願いしたい」と述べている。
NHKは感染症の専門家に4人と5人の線引きの根拠についてたずねている。専門家によれば「4人までだと話す相手は、正面か隣、対角線だけですが、5人になると1人の席が離れることになり、どうしても声が大きくなり、飛まつが飛びやすくなります。離れた人どうしが話をすると、なかなか静かに会食することは難しくなります」と。
さらに「なるほど!」と感じたのは、人間の心理である。専門家は続ける。「マスク会食が呼びかけられていますが、飲食の場で『マスクをしなくてもいい』という人が複数いると、そちらに流れる可能性が高くなります。人数が多い時のほうがそうしたことが起きやすい。現在のひっ迫した医療体制などを考えると感染リスクが上がる5人以上の会食を控えるということは守ってもらいたいと思います」。
マスクのいろいろ
ここからコロナ禍の人間心理の探究に進む前に、私の好きな富岳のシミュレーションの続きをしたい。マスクの効果である。マスクが飛沫防止に最適なのは、すでに何度も述べているが、それはあくまで「自分の飛沫を人に浴びせない」ためであり、「他人の飛沫を防ぐ」は二次的な目的である。もちろんウイルスが入ってくるのを防ぐ効果はあるが、これに関しては必ずしも万能ではない。
「入るのを止める」よりは「出るのを止める」を主眼に、みんながマスクをすれば、感染拡大は防止できる。どれくらいか。日本経済新聞(2020年11月20日)は「世界保健機関(WHO)のハンス・クルーゲ欧州地域事務局長は19日、新型コロナウイルスの感染対策で『マスクの着用率が95%に達すれば、ロックダウン(都市封鎖)は不要になるだろう』と述べた。着用率はアジアで高く欧州で低い傾向にあり、有効性の度合いに関心が高まっている」4)と報じる。日本の感染者数が各国に比べて格段に少ない理由は、日本人がマスク好きだからであろう。
マスクが「出るのを防ぐ」ためのものであることを念頭に、富岳のシミュレーションに戻ると、理研のサイト5)によれば、街で一番よく見かける不織布マスクが一番いいようだ。シミュレーションは不織布マスク、綿製の手作りマスク、ポリエステル製の手作りマスクで、どれくらい飛沫を止める効果があるのかを調べた。それによると、「不織布マスクが約8割、手作りマスクが約7割の飛散を抑制」できるという。そして手作りマスクのなかでは「綿製よりもポリエステル製の方がフィルター性能が高いこと、一方で、綿製の方がマスクを透過する飛沫の量が多い分、隙間から漏れる量が少ないことがわかりました」とのことである。
NHK NEW WEB(2021年4月24日)によると、政府の分科会の尾身会長も「一般の人たちが注意することとして、これまで感染しなかったことに基づく油断は禁物であることや換気に今まで以上に注意し、感染防御効果の高い不織布のマスクを着けること、それに人と人との接触を減らすため生活に必要な最低限の外出にすることなどを強調」6)している。
なお、不織布マスクのつけ方についても、まだ誤解があるようだ。私はこれについても調べたが、正解を知って以降、不織布マスクをしている人をじっと見つめるクセがついてしまい、たまに「なんだ、こいつ?」という顔をされることがある。不織布マスクはあんなに薄いけど、多層構造になっており、上下だけでなく、表裏もある。
上下は簡単で、マスクと鼻の隙間を小さくするために針金が入っているが、それが上である。しかしこれを守っていながら、表と裏が反対の人がいる。ちょっとネット検索すればいいのに、と思うが、答えはプリーツ(襞)が下に向くほうが表である。というのも、不織布マスクはもともとの用途として、花粉症対策にも使われる。プリーツに花粉が入って留まらないようにするためには、襞がつくるくぼみは下に向いているほうがいい。だからこれに合わせて、重層構造にも表側/裏側がある6)7)。
コロナ禍の人間心理
この1年、私は感染することをそれなりに怖れてきた。「それなり」なのは、過信かもしれないが、健康であるため、感染しても無症状か、せいぜい軽症だろうと高をくくっていたからである。しかし最近の変異株の話から、40から50歳代の比較的若い世代でも重症化するリスクが指摘されるようになり、後遺症の報道も多くなってきた。前者については、時事通信(2021年4月25日)によると、大阪の数字として「40、50代の重症化率も高く、重症者に占める50代以下の割合は23.8%と、第3波を約6ポイント上回っていた」8)という。後者に関しては、日本経済新聞(2020年4月23日)が「コロナ後遺症『ブレインフォグ』 免疫異常が関与か」9)について解説している。
健康面での心配は最近のことで、それまで心配していたことは、差別であり、仕事を失うことであった。会社などの組織に所属している人は、感染しても戻るところがあり、その組織がしっかりしていれば、世間の誹謗中傷に毅然とした態度で臨み、感染した社員やメンバーを守ってくれるだろう。しかし私はフリーランスであり、守ってくれる組織はない。感染して2週間隔離しているあいだの仕事は失われ、単発の仕事をしているため、以後、お呼びがかからなくなるかもしれない。
確かに、仕事を失うという実利的な面は大きい。しかしニュースの見過ぎなのかもしれないが、差別や誹謗中傷の話を読めば読むほど、“感染者”と見なされることの恐怖におののく。一時期は「感染者=犯罪者」のような扱い方がされていたような気がする。いまはもう、これほど感染者が増えてきたし、政府も毅然とした態度で人権問題として扱うようになったので、風評に関する懸念は収まっている気がする。
しかし私がコロナ禍の人間心理として一番注目するのが、上でも5人会食で軽く触れたが、感染を導く意識である。私は感染せずに済んだが、それは会食で濃厚接触した相手が偶然に、幸運なことに、ウイルスを持っていなかったからに過ぎない。だから「全員がウイルスを持っているかもしれない」という想定で行動すべきだったはずなのに、相手の気分を害さないように、と自分に妥協してしまった。その人間の弱さが感染を拡大させていると思う。5人会食で引用したように、人数が多いと「マスクなしでいいよね」という流れになりやすい場合もあろう。しかしこれは会食参加者の力関係にもよる。上司がその会の方針を決めてしまうからだ。
自分を振り返ってみて、私を会食に誘ってくださった方は、仕事面でもお世話になっている。その方が「マスクを取りましょう」と言ったら、私は取らざるを得ない。この場面に限らず、日々、行きつけの店で私が目にするマスクなし会食の心理はどのようなものか。私が自称“コロナ・オタク”だから普通の人の心理が理解できないのだろうが、これほど「マスクをしろ」と言われていて、どうして座った途端にマスクを外して会話を弾ませることができるのか。
私はひとつの仮説を立てている。大前提として、大半の人がまだ感染していないこと、周りの人も感染していないことが挙げられる。まだ他人事である。次にそこから類推して、感染の確率が低いため、コロナの話を聞けば怖くなるが、実感として差し迫ってはいない。東京に住んでいるとして、1日の感染者の平均が500人の頃ならば、私の勝手な計算で、感染する確率(正確には、無作為に選ばれた人と濃厚接触するとして、その人がウイルスを持っている確率)は0.03%に過ぎない。私は宝くじを買ったことはないが、私の身近にいる定期的に買う人で、10万円が当たったという話は聞いたことがない(隠すほどの大金ではない)。
このような全般的な「まだ他人事」という前提に上に、次の層が被さる。それは「感染すること=悪いこと」という意識である。一時期「自己責任論」みたいなことが言われていた。私の情報源であるNHK NEW WEBも「『どうせ飲みに行っていたんだろ』感染者苦しめる偏見」という特集をしていた10)。感染後、職場復帰しても、職場の偏見に苦しめられているというニュースである。これは悲痛な話なので、当事者の言葉を引用しておきたい。「職場復帰してすぐ、『迷惑かけてすみません』と謝ったのですが、社長からは『元気になってよかった』とか復帰を歓迎する声かけはありませんでした。そればかりか、他の店舗の従業員に『(自分が書いた)感染前2週間の行動記録のつじつまがあわない。本当のことを言っていない』『どうせ飲みに行っていたんだろう』などと話していると聞き、ショックを受けました。」
感染者は悪い人、目の前の友だちはいい人、だからその人が感染しているはずはないので、マスクを外しても大丈夫、という心理なのだと勝手に解釈している。もし私の仮説が正しければ、相手がマスクをしたままだと、「オレのことを疑ってんのか?」と勘繰るのかもしれない。そういう雰囲気がなんとなく浸透していると、「相手に『疑っている』と悟られないようにするためには、さっさと外したほうが……」と思い、みずから最初に外してしまうのかもしれない。このように、二重三重に相手の気持ちを忖度することによって、参加者全員が気づいてみたら、みんなマスクを外しているということになるのだろう。
この点、政府は頑張ってきたと思う。「感染することは悪いことではない!」と感染者の汚名を取り除く広報活動をちゃんとやってきたような気がする。もし効果が薄かったのならば、それは政府の努力不足ではなく、人びとの思い込みの強さに勝てなかっただけである。ただ、むずかしいのは、マスク着用を求めていて、マスクなし会食で感染が起きたら、やはり多くの人が「自業自得」と感じてしまうことである。「感染することは悪いことではない」と言いつつ、マスクなし会食に参加して感染した人を擁護できないことは、多くの人にとって両立しないことと思われる。
いずれにせよ、感染=悪、友=善、ゆえに友人との会食ではマスクは要らない、という図式になるのだろう。さらに、マスクをすることで、相手との距離をつくってしまうことを心配している人もいるかもしれない。マスクどうしで会話することの違和感を取り除く方法はいまのところない。ただただ慣れるしかない。
私はさらにその先を空想してしまう。もし仮に、友人との楽しい会食でウイルスをうつされてしまったら、その後の友人関係はどうなるのだろうか。それはその後に起こった出来事によって大きく変わるだろう。無症状のまま「濃厚接触者」として検査を受けて陽性になった場合は、2週間隔離される。そのまま問題なく職場復帰できたら、自分にうつした友人との関係が壊れることはないかもしれない。
しかし自分が肺炎か、さらには重症化したら、友人関係は終わりになるだろう。さらに家族に感染させることもある。小説家みたいに細かい状況設定にこだわるが、AさんはBさんとの会食で、Bさんからウイルスをもらう。気づかないまま家に帰るが、その家は3世代が同居しており、毎晩、Aさんは祖父母と食事をする。もちろんマスクなしで、料理は大皿を直箸でつつく。AさんがBさんと会食した翌日からウイルス量は増大し、Aさんが38度の熱を出すまでの6日間、Aさんの家でウイルスは拡散される。Bさんとの会食から8日目に祖父が突然倒れて救急車で運ばれ、その日のうちに集中治療室に入り、夕方には完全に意識がなくなって、のどの奥まで管が通される。Aさんは二度と大好きなおじいちゃんに触れることなく、ガラス越しに生気のない顔を涙で曇る目で見続けるしかない。
ドラマ仕立てに思われるかもしれないが、1年間、コロナ報道を追い続けた者にとっては、これは架空ではなく、現実である。ただ典型例として簡略化しただけで、こんなことはいままで何千件と起こってきた。人間の心理の隙が引き起こした悲劇である。
1)https://www.sankei.com/photo/story/news/201013/sty2010130017-n1.html
2)https://www.yomiuri.co.jp/national/20210424-OYT1T50106/
3)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201217/k10012769271000.html
4)https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66451980Q0A121C2I00000/
5 https://www.r-ccs.riken.jp/highlights/pickup2/
6)https://www.hi-ad.jp/press/detail.html?eid=463
7)https://jp.unicharm-mask.com/ja/wear-no-space.html
8)https://www.jiji.com/jc/article?k=2021040701107&g=soc
9)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC211RI0R20C21A4000000/
10)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210301/k10012891221000.html
森田浩之(モリタ・ヒロユキ)
東日本国際大学客員教授
1966年生まれ。
1991年、慶應義塾大学文学部卒業。
1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。
1996~1998年、University College London哲学部留学。
著書
『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)
『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)
『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)
『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)