『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.002

Ⅰ 日蓮の出自について

はじめに

鎌倉期の日蓮研究には、大別して二つの視点が想定される。一つは、主に教義・教理を中心にした宗教学・思想史的な視点、あと一つは門弟を含め、教団の運動や政治動態に焦点を当てた歴史学・政治史的なそれである。

 

先に「日蓮と政治」(『法然思想』四号、草愚舎、二〇一六、本書所収)において、この二つの視点を踏まえて新たな日蓮像を提示したが、その際、日蓮の出自に関する考察の不足を痛感した。日蓮は二度の流罪にみられる通り、幕府から強い圧迫を受けつつ、しかも 二度とも赦免されている。この幕政の振幅は、日蓮の宗教的態度の変化が原因ではない。無法な処刑や殺害の企てを日蓮に与力する政治力が防御したのを考慮すれば、幕府中枢での親日蓮派と反日蓮派の政治力学が影響した結果であろう。では、日蓮はなぜ幕府の中枢を二分する立場に身を置いたか。この疑問に先の論考では答えが出せなかった。

 

日蓮が幕政中枢の政治力学に直接影響を受けるのは、その出自が幕政と無縁ではないということである。無名の僧の悪口を封じるのに、幕府がこれほど苦慮するとは思えない。日蓮の出自について以前から父は貫名氏、母は清原氏として、近年でもそれを踏襲している。川添昭二氏は浅井要麟氏の「日蓮聖人家譜の研究」を取り上げて、日蓮宗内での伝承で、父を貫名重忠、母を清原氏としてきたことを注釈なく紹介する。しかし、浅井氏の詳細な研究の結論は、次の通りである。

 

「長禄・寛正から文明年代(一四五七-八六)へかけて、相前後して現れた聖人の姓氏系譜に関する根本史料の間には、一貫した定説がない。(中略)根本の史料既に然りである。これに追随し敷衍した諸説が入り乱れて、異説紛々たるも寧ろ当然というべきである。思うにこの事実は伝説発生の当時に於て確乎たる定説なく(中略)その人と處とを異にするに従って、遂に異説紛々たるに至った経路を暴露するものである。然るにそれ等の異説は次第に統一せられ、その矛盾は漸く整理せられた跡の歴然たるものがある」

 

日蓮没後二〇〇年前後を起源とするいずれの系譜伝にも根拠がなく、その後のものは操作した伝記であることが明らかだ、というのだ。そこで本論では、これまでの研究とは違う視点から、日蓮の出自を探ってみたい。最初の視点は、日蓮の教線である。特に、日昭と日朗の二人の高弟に注目する。日蓮の葬列でも二人の地位は特別で(巻末「史料1」参照)、それは日蓮との血筋に関係していると思われる。

 

次に、最初の流罪地である伊東について考えてみる。この地は二度目の流罪地である佐渡と違い、政治的隔離として本貫地だった可能性が高いと思う。また日蓮が育ったとする安房についても考察する。

 

—次回12月1日公開—

 

バックナンバー 日蓮誕生

 

 


関連記事

「二十四の瞳」からのメッセージ

澤宮 優

2400円+税

「西日本新聞」(2023年4月29日付)に書評が掲載されました。

日本の脱獄王

白鳥由栄の生涯 斎藤充功著

2200円+税

「週刊読書人」(2023年4月21日号)に書評が掲載されました。

算数ってなんで勉強するの?

子供の未来を考える小学生の親のための算数バイブル

1800円+税

台湾野球の文化史

日・米・中のはざまで

3,200円+税

ページ上部へ戻る