『コロナの倫理学』 ⑪確率論的な思考
森田浩之
4つの風景
ニュースの接し方は人それぞれである。私の場合はNHK NEWS WEBでヘッドラインだけ眺めて、必要な場合はクリックして中身を読み、さらに深めたい時はNHKが依拠している原典(政府・研究所・学会など)のサイトに行ったり、新聞など別のサイトに移ってみる。
自分がいつも最初に見るサイトをどこにするのかはまったくの好みで、多くの人が自分の好きなSNSを中心にしているかもしれない。ツイッターなら右横に関心のありそうなニュースが並ぶし、フェイスブックも投稿から推察された興味関心に基づいた項目が閲覧できるようになっている。
本稿を書き始めたのは、4月から5月にかけての緊急事態宣言が延長されることが決まった頃である。大型連休が明けて、数が少なかったニュースのアイテム数も増え、今後の展望が議論されるようになり、連休明けの5月6日には、堰を切ったように多くのニュースが飛び込んできた。それらをすべて読んでいるうちに、奇妙な感覚に襲われたので、ぜひ共有していただき、そして可能なら一緒にお考えいただき、さらに可能ならご意見をお聞かせいただきたい、という思いで、5月6日から7日にかけて私が触れたニュースを列挙したい。
要するに、サイトで読んだニュースをコピー・アンド・ペーストしているだけで、引用元を明示していなければ著作権侵害になるような事態だが、以下の諸アイテムを並べて読む人は少ないだろうし、むしろ切り貼りして編集する人も必要だろうと、一応、自己弁護しておきたい。
NHK NEWS WEBだけでなく、たいていのニュースサイトは、アップした時系列に並んでおり、とくに上から下に向かって時間を遡っていく。以下のニュースも、最新のものから時間を前に辿っていくが、まさにこれが私が読んだ順番なので、僭越ながら、私の生の感覚を追体験していただければ幸いである。
私はアップされたニュースのすべてのヘッドラインは読むが、コロナ関連だけは開けて記事全体を読む。ということで、最初に中身を読んだのは「想像と違いすぎた“風景” 新人看護師 この1年」1)という記事である。
岡山県の病院の話で、そこは「県内に4つしかない感染症指定医療機関の1つ」だが、院内クラスターが発生してしまった。そして「病院の取材を続けるなか出会ったのが、当時、新人看護師の川島さん(仮名)です。クラスターが発生した病棟で働いていました。」
「川島さんが語ってくれたのは、胸の内にある悔しさです。感染後、10日間の自宅療養中に受け持っていた患者が亡くなりました。……川島さんには4人の同期がいます。……同期の『一緒に乗り越えよう』ということばが力をくれたといいます。」
続けて「しかし、過酷な現実を受け止めきれなかった同期もいます。新型コロナの重症患者の対応にあたってきた武田さん(仮名)です。」
「武田さんに異変が起きたのは、去年の大みそかでした。院内クラスターが収束し、ほっとしたのもつかの間、朝、ベッドから起きられなくなりました。その後、食欲がなくなり、ひどいときには食べ物を見ただけで吐き気を感じる日々。それでも、責任感から休まず仕事を続けていましたが、やがてマイカーで出勤しても車から降りられなくなりました。」
「武田さんは1年目の病棟で、極度の緊張と重圧を感じていました。自分が感染しないか、患者に感染させないか。新型コロナで重症化する患者にどう対応すればいいか。不安や心配は次から次に襲ってきます。」
この看護師さんは3か月間の休職後に復帰し、「自分がこんな状態で患者さんに接していいのかと悩みましたが、患者さんの役に立てていると感じられてうれしいです。患者さんから学ぶことばかりです」と述べている。
あとは現物をお読みいただくことに越したことはないが、私は久々に文字のニュースを読んでいて涙が出てしまった。そして次のアイテムに移ると、タイトルは「大阪府 緊急事態宣言の延長を国に要請」2)。ニュースの中心は大阪府知事の決断と感染状況だが、最後に「焼き鳥店『納得できない』」という見出しで飲食店の反応が載せられていた。
地の文の「大阪府が緊急事態宣言の延長の要請を決めたことについて、大阪 ミナミの焼き鳥店は経営状況のさらなる悪化を懸念しています」という説明の後、次のようなコメントがあった。
「ただ延長と言われても、どうしたらいいのか分からず私たち商売人にとっては納得できません。私たちは日々の暮らしで命をかけているので、国や府にはそういうつもりで対策を講じてほしいです。」
飲食店の大ファンとしては、ただただ悲しみでため息をつくしかないニュースである。そして「前ページ」をクリックして、ヘッドラインが並ぶページに戻り、スクロールダウンすると「百貨店協会 “特段の配慮”政府に求める 宣言延長の場合も」3)というタイトルに目が止まる。冒頭の説明は次のようにある。
「4都府県への緊急事態宣言をめぐって、デパート各社でつくる日本百貨店協会は12日以降、宣言の期限が延長された場合も感染対策を徹底したうえで、可能なかぎり営業を拡大したいとして、政府に対して『特段の配慮』を求める要望書を提出しました。」
確かにデパートでクラスターが発生したなんて話は聞いたことがないし、実際に私もこの間、何度か訪れたことがあるが、対策は万全だと思う。あるデパートは駅地下から続く入り口の手前からアルコールとともに、非接触型の体温計を設置しており、客みずから前に立てば、自動的に体温を測ってくれる(半数は素通りしていたが…)。対策に手間とカネをかけているのだから、それで「休業要請は理不尽!」と思うとしたら、それは当然であろう。
そしてまたヘッドラインのページに戻り、下の項目を追っていくと、「『無観客開催の要請 撤廃を』舞台や音楽の団体が声明を発表」4)というタイトルに出合う。冒頭で次のように説明する。
「4都府県に出されている緊急事態宣言の延長が検討されていることを受けて、舞台芸術と音楽の業界団体がそれぞれ声明を発表し、現在の宣言に含まれている『無観客開催』の要請を撤廃するよう求めています。」
実際に「緊急事態舞台芸術ネットワーク」5)のサイトに飛ぶと、NHKも引用している次の説明が掲示されている。
「公演に従事するものたちの生活は、時々刻々と、危機的状況に追い込まれています。一人ひとりは、文化創造を支え続けるという誇りを胸に、真摯(しんし)に取り組んでおりますが、残念ながら、限界は近づいているように感じております。」
同じ記事の下のほうには「映画館や演芸場も声明『一定の制限下の元で営業を』」という見出しで、両者の「一定の制限下の元で緊急事態宣言下でも営業を続ける陳情をして参ります」という見解も紹介している。
すでに以前書いているように、私は音楽ファンなので、演劇や映画ではないものの、エンターテインメント業界の苦境にも心を痛めている。そして昨年は一部のシアターでクラスター発生というニュースもあったが、気の毒なことに対策のしようのないところもあるものの、対策ができるところは最善の努力で公演を続けて感染者を出してこなかった。「ここまで努力したのに…」と悔しい思いをされている方は多いだろうし、私もその心痛を共有する。
5つめの風景
病院、飲食店、百貨店、エンターテインメントという4つの悲痛な叫びを熟読して、重苦しい気持ちになったが、さらにヘッドラインのページに戻って、下の項目を追っていく。すると「宣言の効果と経済的影響 “強い規制を短く” 専門家が指摘」というタイトルの記事が出てきた6)。NHKがよく紹介する東京大学の経済学者グループのシミュレーションである。それによると「グループでは『強い規制を短く実施するほうが、総合的にはよい』と指摘しています」とのことである。
前提条件として「シミュレーションでは、変異ウイルスの感染力を従来の1.4倍とし、宣言の効果を去年春の1回目の宣言と同程度と想定しました。」これにより、ふたつのシナリオが導かれた。
1.「東京では5月の第4週に新規の感染者数が1日500人を下回った時点で宣言を解除した場合、感染者は再び増加に転じ、7月中旬には緊急事態宣言が必要なレベルになるという計算となり、経済損失はおよそ3兆5000億円となりました。」
2.「宣言の期間を延長して7月の第1週に200人を下回った段階で解除した場合は、10月の第3週に1000人を超える計算になりましたが、想定どおり高齢者へのワクチンの接種が進んでいれば、医療への負担が少なくなるため、宣言を出すレベルには達しないという結果になったということです。」この場合の経済的損失は1よりも5000億円少ない3兆円とのことである。
そして東大の先生は次のようにコメントしている。「緩い規制を長く続けるよりも強い規制を短く実施するほうが、総合的にはよい。先週の人出は去年5月ほどには減っていないと思うので、感染者数が横ばいとなり、緊急事態宣言がダラダラと続く状況が心配される。」
これら5つの風景は共存できるのだろうか。私はいままでも、そしていまでも、人の命には代えられないし、医療現場の惨状こそ、第一優先課題として取り組まなければならないと考えている。しかし「コロナ→重症化→死」ほどダイレクトではなく、あいだに「商売」が入るものの、飲食店や百貨店やエンターテインメントも生死がかかっている話であり、軽視することはできない。それで食っている人が「営業するな!」と言われ、それも当初の期限からどんどん先延ばしにされていくことは、生殺し状態で、見るに堪えない。
ではどうすべきか。私に答えがあるはずがない。私よりも優秀な人が大勢いる政府が手をこまねいているのである。一介の研究者に万能薬が発明できるはずがない。しかしそれでも、たぶん何か別のことを考えたほうがいい時期かもしれない。
偶然を再考する
毎朝、散歩していると、徹夜で飲んでいたと思われる若者たちが、マスクを外したまま大声で話し込んでいる姿を見かけることがある。政府も専門家もマスコミも、みんなが「マスクの着用・手洗い・3密回避」をくり返しているが、している人はしているものの、していない人は気にしていない。ほぼ毎日というくらい、マスクなしでコンビニに入っていく人を見かける。それで感染するとは思わないが、「まだそういう人がいるのか」と呆れてしまう。
しかし「徹夜でマスクなし飲み会をした若者が感染させたのか、重症化させたのか、医療崩壊を引き起こしたのか」と質問されたら、私は「No」と答えるしかない。緊急事態宣言で、飲食店には酒類の提供を停止した上で時短営業するよう要請し、百貨店には生活必需品以外は休業して欲しいと求めて(化粧品って必需品?)、スポーツやエンターテインメントには無観客でやるようお願いしている。これらは「人の流れを止める」ことを目的にしているが、それは「マスクなし徹夜飲み会」を防止するための策でもある。
改めて、こういう若者が感染させたのか。原因と結果を結びつける「因果関係」で考えるなら、私が目撃した若者のひとりがウイルスを持っていて、それを仲間内でばら撒いて、それぞれが自分の家庭に持ち帰り、親に感染させて重症化させた、という経路になるだろう。こういう具体的な因果関係をもとに「若者が感染させたのか?」と質問されたら、答えは「No」である。
では、なぜ人の流れを止めなければならないのだろうか。それは、マスクなし徹夜飲み会をまったく野放しにしていたら、感染を止められなくなるからである。「だれが」やらかすかはわからない。しかし「だれかが」やらかすことは事実である。特定の因果関係は辿れないが、コロナ前の飲み会を続けていたら、「どこかで」「だれかが」感染し、それを広げてしまう。そして「だれが」当たるかはまったくの偶然である。
ウイルスが発生したのは偶然で、ウイルスが進化したのも偶然だ。そして人が普通に生活していて、そこにウイルスが入り込むかも、悲しいことに、まったくの偶然である。昨夜も(どの「昨夜」でもよい)緊急事態宣言を無視してマスクなし飲み会をした人は多いだろう。しかし大半の人は感染せずに、何事もなく日常を続けている。
この「偶然」を引き受けられるかが、倫理レベル(みずからの行動規範というレベル)で感染を防止する思想的カギだと思っている。それを感じたひとつのきっかけが仙台市の感染者数である。仙台市は3月半ばから急激に感染者が増え、3月31日は123人にもなり、この日は宮城県全体で200人の陽性者が発表された7)。
これは仙台市の問題ではない。仙台の人びとは、ほかの地域の人と同じ生活を送っていたはずである。しかしほかの地域では感染者はここまで大幅に増加したわけではなく、ただ運悪く、仙台のどこかにウイルスが入り込んだという偶然の産物で、この数字になってしまった。
仙台市の発表によると3月中に19件ものクラスターが発生したが8)、同じような生活をしていて、ほかの地域ではこの数のクラスターが発生したわけではなかったことを考慮すれば、仙台市の惨状は単なる偶然でしかない。ちなみに、いまこの箇所を書いている日の前日(5月6日)に仙台市が発表した感染者数は15人である9)。一度、人の流れを止めれば感染が収まる見事な成功例だ。
しかし人間は「だれかのせい」にするためには、因果関係で考えないと気が済まない。「あなたがこう行動したから、ビリヤードで球と球が当たって、後者が別の球に当たって云々、という単線的な原因と結果の関係で、こういう事態に至った。だからあなたの責任だ」というのが追究のための正当な理由になる。
だがコロナの場合は、あなたのマスクなし飲み会が直接的な原因で医療崩壊を引き起こしているわけではない。問題は「総体として」こういう飲み会を野放しにしていたら、感染者が増えて、それにつれて重症者も増えて、医療現場が行き詰ることであるが、それは「一対一の原因と結果」という枠組みには収まらない。事後的にクラスター対策班が調査した結果、たとえばどこどこの飲み会で濃厚接触した人が原因だったと突き止めることはできる。しかし事が起こる前に「こういう直線的な関係で感染が拡大する」と明言することは不可能である。
私が考えていることは、政府の指針になることはないし、専門家に説得力ある理屈を提供できるわけでもない。しかし考え方の前提として、直接的には役に立たなくても、哲学的に考えるならば、コロナの場合は「責任の所在」を因果関係で説明することは無理である。前提自体を変えなければならない。それを仮に「確率関係」と言うならば、これは「マスクなし飲み会など、あなたの行動が直接的な原因で、重症化や医療崩壊という結果を引き起こすわけではない。ただ、あなたのような行動を放置しておくと、確率として、感染が拡大する可能性がある」ということを意味する。
確率関係的な説明に説得力があるかどうかはわからないし、たぶんないだろう。しかし因果関係的な説明に説得力がないことは確かである。われわれは思考の前提から変えなければならない。問題は確率論的、統計的な発想が浸透していないことである。ここまで感染が拡大したら、マスクなし飲み会で感染が起こる可能性はゼロではない。必ず当たりくじ(負の当たりくじ)のある宝くじのようなもので、マスクなしであれば、「どこかで」「だれかに」当たってしまう。とはいえパーセンテージで言えば、それはほぼ間違いなく「あなた」ではない。
だが確率を「ゼロ」にするためには、マスクなし飲み会をゼロにしなければならない。「あなたに問題はない。あなたのせいではない。でも感染の確率をゼロにするには、マスクなし飲み会すべてをゼロにしなければならない。あなたには苦痛かもしれないが、それが社会人としての責務である。」
これで「はい、わかりました。徹夜の飲み会は止めます」と言ってくれる人はいないだろう。しかしその前提的な思考を問い直すことも必要である。
5)https://www.jpasn.net/cn1/20210506.html
7)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210331/k10012947751000.html
8)https://www.city.sendai.jp/kenkoanzen-kansen/documents/corona-march2.pdf
9)https://www.city.sendai.jp/kikikanri/kinkyu/200131corona2.html
森田浩之(モリタ・ヒロユキ)
東日本国際大学客員教授
1966年生まれ。
1991年、慶應義塾大学文学部卒業。
1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。
1996~1998年、University College London哲学部留学。
著書
『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)
『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)
『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)
『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)