『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.030

Ⅳ 日蓮仏法論

 

〈南無妙法蓮華経とは〉


東国武家に人気がなかった法華経

平安末に急速に力をつけ、歴史の舞台に踊り出た東国武士でしたが、鎌倉時代に入っても漢文を読むことは難しかったようです。多くの御家人は、漢文の読み書きができる貴族を文官として抱え、政務・法務にあたらせていました。

 

この時代、専門家が書写したり、版木で刷って華麗に表装された経典を、莫大な費用を払って入手するだけでも大変なことだったでしょう。しかも、漢文の経文を読み、暗唱し、解説し、書写することを法華経は修行として説いています。漢文に慣れ、教養と財力に富んだ貴族には、当たり前だった法華経信仰ですが、東国の土着の武家にすんなりと受け入れられるものではなかったのです。源頼朝が、毎日、法華経を読誦していたのも、貴族だったからです。

 

一方、法然房源空は、南無阿弥陀仏と唱えるだけで誰でも極楽往生できると説きました。この南無阿弥陀仏と唱えることを称名念仏と言いますが、法然は称名念仏だけが、唯一、極楽往生する道だ、と言いました。しかも、称名念仏だけに専念しなければならない。それ以外の信仰は、往生の妨げになるから捨てなければいけないと、称名念仏への専修(一つの修行だけに専念すること)を説いて浄土宗を興したのです。これには、仏教界のすべての宗派が猛反発しました。自分たちの教えが全否定されたのだから当然でしょう。後に幕府も念仏の禁止を命じました。

 

しかし、法然の浄土宗は、この激しい反発と禁制を乗り越えて、大変な勢いで広まっていきます。やむなく朝廷は、法然を流罪にして、浄土宗の波及を押さえようとしました。

 

法然が浄土宗を興したのは一一九八(建久九)年で、讃岐に流されたのは九年後の一二〇七(建永二)年です。この九年間は、鎌倉では一一九九(建久十)年に頼朝が没し、その後、北条氏が着々と権力を掌握して北条義時が一二〇五(元久二)年に執権となった時期と重なります。

 

法然が流罪されても、浄土宗の勢いは止まりません。鎌倉においても道教房念空らの布教によって、称名念仏は武家社会に急速に広まっていきました。朝廷や幕府の禁止令を超えて、なぜ、称名念仏は広まっていったのでしょう。

 

江間浩人

 

—次回4月1日公開—

 

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