『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.031

Ⅳ 日蓮仏法論

 

〈南無妙法蓮華経とは〉


称名念仏に沸き返る鎌倉

朝廷や幕府の禁止令を超えて、なぜ、称名念仏は武家社会に広まっていったのか。理由は主に三つあると思います。一つは、浄土宗が穏健になったことです。

 

念仏だけが唯一の往生の道であるとした過激な専修念仏が、度重なる弾圧で勢いを失い、代わって他宗の教えも尊重して、さまざまな修行も認める穏便な教えが浄土宗の主流となりました。これで、仏教界との争いはなくなり、称名念仏は、他宗の僧も唱える修行の一つとして広まっていきました。

 

もう一つは、武士の残虐な立場と関係しています。戦闘と殺人を勤めとする武士は、自身の死後の恐怖とも戦っていました。ところが、それまでの仏教は、莫大な財力と高い教養を前提として、天皇家や貴族の要望に応えるものだったので、漢文の読み書きさえおぼつかない東国の武家には、とても敷居の高いものでした。この状況を一変したのが念仏信仰です。

 

死んで地獄に堕ちる――この切実な恐怖を念仏が救ってくれるのです。特別な教養も、財力も必要なく、南無阿弥陀仏と声に出して称えるだけで、極楽往生を保証してくれるという有り難い教えに、武家がこぞって傾倒していったのは、とても自然なことでした。そして武家が信仰した念仏は、領内の農民・下人などの下層にまで広範に受け入れられていったに違いありません。庶民の眼前に、初めて自ら信仰できる仏教が現れたのです。東国における急速な念仏信仰の広まりは、このように武家社会の発展と軌を一にするものでした。

 

三つ目は、時代と社会に対する不安です。平安時代の末から、仏教では「末法」と呼ばれる時代に突入します。末法は、釈迦の教えが失われて世の中が乱れるとされた時代です。社会が荒廃することを「世も末」などと言いますが、これも「末法」から派生した言葉です。実際、この時代には天候不順や地震などの天災、飢饉・疫病の流行も頻繁にありました。

 

餓死・病死は逃れがたく、鎌倉には放置された死体が溢れていました。死体が腐乱して白骨になっていく地獄の世界は目の前に広がり、人々が末法の到来を肌で感じる時代でした。ここにも、念仏信仰が人々の救いとなって広まっていく要因があったのです。

 

江間浩人

 

—次回5月1日公開—

 

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