④ <称名念仏に沸き返る鎌倉>
朝廷や幕府の禁止令を超えて、なぜ、称名念仏は武家社会に広まっていったのか。理由は主に三つあると思います。一つは、浄土宗が穏健になったことです。念仏 だけが唯一の往生の道であるとした過激な専修念仏が、度重なる弾圧で勢いを失い、代わって他宗の教えも尊重して、さまざまな修行も認める穏便な教えが浄土 宗の主流となりました。これで、仏教界との争いはなくなり、称名念仏は、他宗の僧も唱える修行の一つとして広まっていきました。
もう一つは、武士の残虐な立場と関係しています。戦闘と殺人を勤めとする武士は、自身の死後の恐怖とも戦っていました。ところが、それまでの仏教は、莫大な財力と高い教養を前提として、天皇家や貴族の要望に応えるものだったので、漢文の読み書きさえおぼつかない東国の武家には、とても敷居の高いものでした。この状況を一変したのが念仏信仰です。
死んで地獄に堕ちる—この切実な恐 怖を念仏が救ってくれるのです。特別な教養も、財力も必要なく、南無阿弥陀仏と声に出して称えるだけで、極楽往生を保証してくれるという有り難い教えに、 武家がこぞって傾倒していったのは、とても自然なことでした。そして武家が信仰した念仏は、領内の農民・下人などの下層にまで広範に受け入れられていった に違いありません。庶民の眼前に、初めて自ら信仰できる仏教が現れたのです。東国における急速な念仏信仰の広まりは、このように武家社会の発展と軌を一にするものでした。
三つ目は、時代と社会に対する不安です。平安時代の末から、仏教では「末法」と呼ばれる時代に突入します。末法は、釈迦の教えが失われて世の中が乱れるとされた時代です。社会が荒廃することを「世も末」などと言いますが、これも「末法」から派生した言葉です。実際、この時代には天候不順や地震などの天災や、飢饉・疫病の流行も頻繁にありました。餓死・病死は逃れがたく、鎌 倉には放置された死体が溢れていました。死体が腐乱して白骨になっていく地獄の世界は目の前に広がり、人々が末法の到来を肌で感じる時代でした。ここにも、念仏信仰が人々の救いとなって広まっていく要因があったのです。(#005〈唱題で、法華経の再興を目指す〉に続く)
江間浩人(2016.4.1)
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