⑮〈密教の祈祷をしてはならない〉
日蓮が目指す法華経信仰の再興には、何よりもまず為政者による法華経信仰が必要でした。そのために称名念仏に代わって唱題という法華経信仰の形式を整え、「立正安国論」を執筆して為政者に改宗を迫ったのです。ところが、幕府はこの要請に沈黙を貫きます。
そして、日蓮が予言した通り、蒙古からの国書が届き、他国からの侵略が眼前に迫ってきたのです。この前代未聞の国難に、幕府は敵国退治の祈祷を寺社に命じました。その中で、特に重きを置いたのが密教による祈祷です。
日蓮は、1274年3月、幕府に赦されて約2年半ぶりに佐渡から鎌倉に戻ります。そして、内官領として幕政の中枢にいた平頼綱と対面しました。頼綱は威儀を正し、日蓮に蒙古襲来の時期を尋ねます。日蓮は、年内にはやって来るだろうと述べた上で、絶対に密教による祈祷をしてはならない、と強く進言します。密教による祈祷をすれば、日本は軍(いくさ)に負ける、とまで断言しました。その際、日蓮が例に出したのが、1221年の承久の乱です。
承久の乱は、日本史上、唯一、武家が天皇家を流罪にした戦いです。幕府軍に朝廷は敗北し、後鳥羽上皇、順徳上皇は隠岐と佐渡に流されます。日蓮は、民である北条義時が、天子である後鳥羽上皇を攻めたのは、子が親を撃ち、家臣が主君に敵対するのと同じで、天照大神も八幡神も味方にはならない。にもかかわらず、公家が負けて武家が勝ったのは、朝廷が密教を信じ、祈祷させたからだ、と非難したのです。
日蓮は、なぜ密教を批判したのでしょう。それは、密教が、法華経よりも大日経の方が優れ、法華経を説く釈迦よりも大日如来が根本だ、と主張していたからです。しかし、日蓮にとって、密教を敵に回すのは、簡単なことではありませんでした。実に周到な準備を必要とするものだったのです。それは、なぜか。理由の謎解きは次回に譲り、ひとつ、余談を挟みたいと思います。
日蓮が、国という字を書く場合、「くにがまえ」に「玉」や「或」ではなく、「民」と記す場合が見られることから、「鎌倉時代にあって日蓮は、王や統治者ではなく、すでに民衆を中心に国を理解していたからだ」という意見がありますが、さあ、いかがでしょう。いかにも現代風で耳触りのよい解釈ですが、身分社会だった当時の時代状況を無視しているようにも思えます。
実は、ここで日蓮が「民」としているのは、武家である北条氏のことではないでしょうか。「民」は「天子」との対称で使われています。同様に、日蓮は「武家」と「公家」とを対称にしています。従来、天皇が治めてきた国を、承久の乱を契機に、実質的に北条氏が治めている点を、日蓮は再三、強調しています。日蓮にとって日本の統治者は、もはや朝廷ではなく、北条幕府でした。この日蓮の認識を理解することは、とても重要です。(#016〈天台僧の日蓮が、天台宗を撃つ〉に続く)
江間浩人(2017.3.1)
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