㉑ なんと、国師は十二歳からの夢だった!
日蓮が、国師を自身の目標としたのは、いつごろのことだったのでしょう。ここに、その時期を示すと思われる一文があります。
「大虚空蔵菩薩の御宝前に願いを立て日本第一の智者となし給え、十二の歳よりこの願いを立つ。その所願に子細あり。いま詳しくのせがたし」(破良観等御書)
十二歳というのは、日蓮が生まれ育った安房の清澄寺に登った時とされています。ここでいう智者は、仏法を習い極めた僧を指します。日本第一の智者というのは、端的に国の最高権力者からの帰依を受け、国を正しく導く国師を指していることは、ご理解頂けると思います。
日蓮は、「仏教を習わん者、父母・師匠・国の恩を忘するべしや。此の大恩を報ぜんには、必ず仏法を習い極め、智者とならで叶うべきか」(報恩抄)と述べるとともに、日蓮の願いを聞き入れない幕府に対して、「ただ国をたすけんがため、生国の恩を報ぜんと申せしを、御用いなからんこそ本意にあらざる」(撰時抄)と嘆いています。国師となって国を救う、安穏にする、これが当初からの日蓮の願いであり、誓いでした。
「立正安国論」においても、執権に見立てた客の言葉に託して、次のように記します。 「(執権である私は)諸宗の浅深を推し量って判定し、もっとも優れた僧を重く崇拝するであろう」――執権が諸宗を裁定して国師を選ぶ、これが日蓮の願いなのです。
ところが、少年時代からの日蓮の願いは、終生、かなうことはありませんでした。それはどのような理由によるのでしょう。
もちろん、日蓮が名もない一介の僧なら、かなわなくて当然に思えます。しかし、日蓮が一介の僧なら、果たして幕府は二度までも流罪にする必要があったでしょうか。その影響力が侮れないからこその流罪だったと考える方が自然です。一方で、日蓮は流罪によって宗教上の主張を変えてはいません。にもかかわらず、幕府は、なぜ、流罪を二度とも赦しているのでしょう。流罪が宗教上の影響力を封じるためであるなら、赦免にした理由が分からないのです。
幕府にとって日蓮はどのような存在であったのか、日蓮の出自を含む教団の立ち位置に、実はその処遇が振幅した理由があります。この謎については、機会を改めて第二部で考察したいと思います。(次回、番外編)
江間浩人(2017.9.1)
(第一部完)
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