矢口英佑のナナメ読み #068〈 『近くて遠いままの国』〉

No.68「近くて遠いままの国」

 

矢口英佑〈2023.2.24

 

本書にはフィクション(「絶壁」)とノンフィクション(「近くて遠いままの国」)、2編の性格が異なる文章世界が収められている。書名は副題の「極私的日韓関係史」を含めて、ノンフィクションの内容からつけられている。

 

このような構成になったについては、著者自身が次のように記している。

 

 「『絶壁』の第一稿を書き上げたのは、六年以上も前に遡る。なかなか発表の機会を得  られず、眠らせたままになっていたことにはいくつかの理由があるが、うちひとつは、中途半端な原稿ボリュームにあった。一冊分に満たず、本にしようにもできなかったのだ。そこで今回、エッセイを書き足して、同時に収録することにした」(本書「はじめに)

 

しかし、小説「絶壁」とエッセイは密接に結びついていて、その点は著者も強調している。

 

 「この両者には分かちがたい関係がある。『絶壁』は、ひとことで言ってしまえば、在  日コリアンに対するヘイトデモなどをモチーフとして取り上げた小説である。僕がそこに焦点を当てたのは、韓国という国が、僕にとって特別な位置づけにある国であるからだ。若い頃から、僕は韓国という国、およびそこにルーツを持つ人々と、浅からぬ縁を取り結んできた」(本書「はじめに」)

 

副題に「極私的日韓関係史」とあり、このエッセイの内容を示すのにこれほど的確なものはないと言えそうである。在日コリアンの人びと、日本に滞在している韓国人、韓国の出版関係の人びと等とのつながりを通して、著者の「僕にとっての韓国(人)、そして日本(人)」が語られているからである。

 

「小説とエッセイというのはあまりない組み合わせ」と著者は言うが、あっても奇異ではない組み合わせがあることを本書は教えている。

 

言うまでもないが、小説には作者の体験や知的回路が色濃く反映される。「絶壁」で描かれているのは、在日コリアンの「吉見怜花」とヘイトデモに積極的に参加していた「星野隼」との出会いと別れである。同棲を始めるまでになった「怜花」が在日コリアンだったことを知った「隼」の衝撃と襲ってきた抑えがたい怒りと精神的混乱、一方、いきなり「隼」のアパートから出て行くように言われた「怜花」の激しい動揺とその後の心の動き、これらをいかに描出できるか、作家としての力量が問われる。加えて、小説世界を構築する作者の韓国、在日コリアンへの理解やヘイトデモに参加し、ヘイトスピーチを繰り返す人びとへの知見がなければならない。そして、何よりも作品化する問題意識が作家の中で鮮明で、ブレることなく、みずからの思考の積み重ねを通した人間観察が登場人物たちに投影されなければならない。その意味で、この「絶壁」は、日本と韓国に横たわる民族問題、差別問題が歪んだまま存在し続けていることをみごとに描き出していると言えるだろう。

 

そして、「極私的日韓関係史」は、著者の人生の中で関わってきた在日コリアンや韓国人への思いやエピソードを著者の目を通して綴った〝自分語り〟である。「極私的」とするのもそのためで、ありのままに「韓国という国、およびそこにルーツを持つ人々と、浅からぬ縁を取り結んできた」著者の過去、そして現在が語られている。

 

ただ、著者の韓国との「浅からぬ縁」は人びととの繋がりだけからではない。小学生の時に韓国語に興味を持ち、その後も独学で韓国語を学んでいた時から始まっていたと言えるだろう。さらに指摘しておかなければならないのは、学生時代に初めて韓国を訪れた際、1910年から1945年まで日本がこの国を侵略し、言葉を奪い、名前を奪い、天皇の民になれと皇民化政策を強制した歴史について、すでに真正面から受け止めていたことである。

 

  「この国を訪れるからには、やはりただうまい焼き肉に舌鼓を打ったりしているだけで  はいけないのだなとあらためて思った。そうした日韓の歴史における負の側面を、過剰  に意識する必要はない。しかし、そうした側面があったという事実を忘れてしまっては  ならないのだと強く意識させられた」(「恋する語学学習者とセンチメンタル・ジャーニー」)

 

韓国(人)と向き合うについて、みずからの姿勢を早くから認識し始め、その足場を次第に確たるものにしていったからこそ、ヘイトデモやヘイトスピーチを繰り返す人びとを批判的に見つめ、「韓国という国、およびそこにルーツを持つ人々」に親和性こそあっても、違和感など抱くことなく、生身のままの交流を深めていくことが可能だったのだろう。

 

その結果として、「絶壁」のような小説が生まれ、「私的日韓関係史」を書くに至ったのであり、その点は見逃してはならない。そして、私がフィクション(「絶壁」)とノンフィクション(「近くて遠いままの国」)が一冊になっていても奇異ではないというのもそのためである。

 

フィクションとノンフィクションが一冊にまとめられた本書が奇異ではないについては、もう一つ理由がありそうである。それはノンフィクションの「近くて遠いままの国」の内容と著者の表現手法によるところが大きいからである。ここには、

 

「1 前史 ~謎の符号に惹かれて~」「2 恋する語学学習者とセンチメンタル・ジャーニー」「3 韓国語が飛び交う職場へ」「4 出会ったコリアンの人々と、奉公の終わり」「5 韓流ブームの中での作家デビュー」「6 言葉の通じない人々」「7 小説『絶壁』成立の背景」「8 二九年ぶりの「大久保」再訪」と8つの小題が置かれている。

 

小題を見ただけで、著者の韓国(人)との関わりがどのようにたどられてきたのか、一人の個人史となっているらしいことに気づかされるはずである。しかもいずれの小題名もそこに入り込んでみたくなる魅惑的なものになっている。

 

試みにいずれか一つの小題から読み始めてみても、時の経過順に記述された個人史にもかかわらず、多くが一編の〝読み物〟と言ってもよい文章世界が広がっていることが分かる。

 

どの文章世界も事実が語られているのだが、まるでフィクションでも読んでいるような感覚に陥る。それは著者が作家であり、読者が存在していることを、小説ほどではないにしても意識する目がどこかに潜んでいて、記述されているからではないだろうか。誤解を恐れずに言えば、ノンフィクションとフィクションの文章世界に隔てられた壁がなく、同一の地平に置かれているのである。

 

さらに言えば、小説「絶壁」とフィクション「近くて遠いままの国」が「分かち難い関係にある」ことは、「6 言葉の通じない人びと」では、ヘイトデモやヘイトスピーチを繰り返す人びとについて語られており、「7 小説『絶壁』成立の背景」では、次のように記していることから理解できる。

 

 「韓民族に対する憎悪をためらいもなく口にする人々は、僕にとって謎と言ってもいい存在だった。彼らは韓国人・北朝鮮人や在日コリアンの人々のことを、ただ韓民族であるというだけの理由で、無条件に憎悪の対象としているように、僕の目には見えた。(中略)僕が最も疑問に感じていたのは、そのとき、個人として、人間としてその人が好きか嫌いかということと、その人が韓民族に属しているという単一の理由で無条件に嫌いだと感じることの間に、彼らはどう折り合いをつけているのかという点だった」

 

これはまさに「絶壁」のモチーフにほかならない。主人公「星野隼」の「吉見怜花」への姿勢がそれである。もう一度やり直せるかもしれないと、かすかな期待を抱いた「隼」だったが、「怜花」から〝根っこの部分では優しい人〟だけれど、その優しさが〝在邦には絶対向けられないんだよね〟〝そういう人と、在邦である私が、一緒にやっていけると思う?〟と突き放されてしまうのでる。

 

「隼」は自分の前に絶望的とも思える絶壁が立ちはだかっていることを思い知らされる。だが、その絶壁を壊すことも可能なはずである。しかし、それを壊すのは「隼」にほかならない。

 

作者の描く小説世界はここまでである。しかし、この小説は、決して絶望の書ではない。ノンフィクションの「極私的日韓関係史」の末尾は、次のように結ばれている。

 

「時間はかかってもかまわない。少しずつでもいいほうに向かっているのであれば、そのかすかな動きに賭けてみるよりほかにないのだ」

 

日本(人)と韓国(人)との関係にいつの日か雪解けが訪れることに「賭け」ようとしている著者がいる。そうであるなら、「隼」と「怜花」との関係にも再び、新たに二人の生活を始める時が訪れるかもしれないのだ。

 

 

(やぐち・えいすけ)

 

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