(66) 日影丈吉『市民薄暮』と「饅頭軍談」
小田光雄
1973年から74年にかけて、牧神社から「日影丈吉短篇集成」として、『暗黒回帰』『幻想器械』『市民薄暮』『華麗島志奇』の四冊が刊行されている。そのキャッチコピーは「戦後の幻想文学・推理小説界に異色の地歩を築く日影丈吉の未刊行作品群をここに初めて集大成し、端正な文章と日本の伝統的美を体現した華麗なその全貌をここに初めて読者へささげる」というものだった。
この「集成」全巻の解題が中島河太郎であることからすれば、中島が編纂者で、日影の幻想文学のアンソロジーゆえに、牧神社に企画を持ち込み、出版に至ったと思われる。またこれらの装画・装幀は村上芳正によるもので、彼の仕事は1980年代初頭の連城三紀彦の3部作『戻り川心中』『変調二人羽織』『密やかな喪服』(いずれも講談社)へと引き継がれていったのではないだろうか。
そのことはさておき、私の手元にあるのは『市民薄暮』と『幻想器械』の2冊だけだが、前者の「序」には日影丈吉による「市民薄暮」に関する注釈が付されている。それは「古い日本語で、たそがれ、フランスで俗にいうアントル・シアン・エ・ルー(犬と狼のあいだ)などと共に、あいろもさだまらぬ状態を指す」と。その言葉は「夢魔」がたちこめる時間ともいっていいし、かつて日影の『内部の真実』(講談社、1959年)を論じた際の拙稿タイトルは「夢魔がたちこめる台湾」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)であるし、『市民薄暮』の解説も天沢退二郎により「夢魔の作家」と題されている。
それらに関して、『市民薄暮』の全作品にふれることはできないので、冒頭の中篇ともいうべき「饅頭軍談」を取り上げてみる。それはこの中篇の物語設定と場所が馴染み深いことによっている。
総亜弓は築地の河岸沿いの家の二階に間借りし、銀座のバーへ通っていた。彼女と「私」は「ただ酒場の女と客というよりも、もうすこし親しい間柄だった」。彼女のバーで夜明しした後、二人で歩いて帝劇の早朝興行にいき、「しあわせそう」な笑みを示し、三階でフランス映画を見た。ヒロインが恋人と心中する「救いのない映画」で、その後亜弓も死んでしまった。マダムにも聞いてみたが、その話は要領を得ず、死因も判明しなかったし、彼女の死は四半世紀前のことだった。それは戦前の話であることを意味していた。
しかし「私」が亜弓のことを時々思い出すのは彼女の家系のことを聞かされていたからだ。彼女の祖先は武田側に味方し、長篠の戦いで死んだ総遠江守の子孫で、領地は没収され、家中は離散したが、舎弟の主馬介は落ちのびて日本を脱出し、トルコに向かい、国王に仕えていたというのである。「彼女自身も家に伝わる話を、ふしぎに思っていたらしく、はたしてそういう事実があるかどうか、一度しらべてくれないか、と私にたのんだほど」だった。
長篠の戦いは天正三年五月、現在の愛知県設楽郡長篠村で、徳川と織田の連合軍が日本最初の銃撃戦を行ない、武田勝頼を破った戦であった。天正は十六世紀末の二十年間ほどだが、その間に九州の大友、有馬といったキリシタン大名は伊藤満所や千々石清左衛門などの使節団をローマ教皇のもとに送り、彼らは八年間ローマに滞在していた。そのことを考えれば、トルコはキリスト教国ではなかったけれど、オットマン王国の最盛期で、地中海の東に覇を唱えていたので、日本人の主馬介がトルコ王朝に仕えたという話も想像の限りでは不可能ではない。
そこで「私」は総遠江守の采邑を調べていくと、伊那の大鹿村に総一族が固まっているようで、長野県庁に勤めていた知人がその部落の名簿を送ってくれた。そして一年近く「はじめて何の役にも立たないことに心を打ちこめた」のだが、召集され、南方へ送られ、それらのことも忘れてしまっていた。
ところが戦後内地に帰還し、甲信国境の山峡の民家で古文書が発見されたという新聞記事を目にした。その古文書の持主は大鹿村の餅菓子屋の総房吉という人で、かつて送られた名簿にあり、記憶に残っていた。その古文書は昔から伝えられたもので、和紙に毛筆でしたためられ、総遠江守の従者の一人が書いたとされていた。ただ当時は生活の再建に狂奔していたこともあり、総遠江守どころではなかったので、文書の持主を訪ねてみようと決心したのはそれから十年後だった。
タクシーで天竜川をわたり、山間に入って歩いていくと、貧弱な部落の奥に「名物菱饅頭 鳥子屋」という看板を見つけ、鳥子はトルコと似ていると思った。出てきた老人に亜弓という女性と知り合いだったので、古文書を見せてもらえないかと頼んだ。「私」はその文書を読んでいく。この後は実際に「饅頭軍談」に当たってもらうしかない。
この日影の作品を取り上げたのは、たまたま原作真刈信二、漫画DOUBLE-S『イサック』(講談社)を読んだばかりだったからで、このコミックは大坂夏の陣の銃士が傭兵としてヨーロッパ戦場に現われ、戦う物語であったことだ。もうひとつは原田芳雄の遺作映画が『大鹿村騒動記』で、まさに「私」が訪ねる大鹿村を舞台としていたからである。残念ながら日影の「夢魔」の世界は最後までたどれなかったが、小説、コミック、映画の三題噺になったであろうか。
—(第67回、2021年8月15日予定)—
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