オイル・オン・タウンスケープ 第三号(後編)

谷の底の〈悪所〉───MIYASHITA PARK 第三号(後編)

中島晴矢

S__2400257101《MIYASHITA PARK》2020|カンヴァスに油彩|606 × 500 mm

 

 私の渋谷体験において何と言っても切り離せないのは、“渋家(シブハウス)”で過ごした日々だ。なぜなら端的にそこに住んでいたからである。19歳から20代半ばまで、私は断続的に「渋谷が住所」(K DUB SHINE)なのだった。

 

 そもそも渋家は、御茶ノ水の駿台予備校で画家・内海信彦さんが主宰する「芸術・文化系論文」というクラスで出会った、数人の仲間たちで立ち上げたものだ。浪人時代はほとんど受験勉強に着手せず、クラスの面々で自主映画もどきを撮ってみたり、パフォーマンスのイヴェントを開催してみたり、幾晩もマクドナルドで青い議論をたたかわせたりしながら、漫然と過ごしていた。それは偏差値的には不毛な日々だったが、ある意味では有意義な時間だったと言えなくもない。やがて受験シーズンも終わった2008年の春、そこでの関係性を引きずって始めたのが、渋家というシェアハウスだった。

 

 当時はまだ「シェアハウス」という言葉もなかったはずだ。「オルタナティブ・スペース」や「コレクティブ」といった言い方も、大して浸透してはいなかった。それ以後、それらの言葉やシステムがトレンドの皮を被って一般層にまで膾炙したのは、日本の若い世代の経済的な貧困と無縁ではないだろう。とはいえ、私たちはそんなことには無自覚で、なにせ若かったから、文字通り何者でもない、しかし肥大した自意識を抱えた連中が、何事かを為すためのアジールの創出を夢見ていた。

 

 言い出しっぺは齋藤恵汰という男で、渋家は彼の個人的な「作品」としての側面を持つ。今でも美学校で一緒に講師をしているが、もともと中学高校の一つ先輩にあたり、予備校で再会。彼は結局どの大学にも進学しなかったが、その頃から既に妙な求心力があった。

 

 だいたい、“所構わず勝手に住むこと”を人生のコンセプトにしているような奴で、なんと高校の一時期には、学校の校舎に住んでいた。私は在学中、友人たちとその住処の跡地を覗きに行ったことがある。場所は校庭と柔道場の隙間、じめじめと暗く窪んだ一角に、くしゃくしゃのブランケット、ガスコンロ、フライパン、そして飲みかけのウィスキーの小瓶が転がっていた。とんだレガシーである。そのあまりに生々しい遺跡ぶりに吹き出すのを禁じ得なかった。またある時期の彼は、東大相撲部の部室に住み着いていたらしい。東大生でも相撲部でもないのに、である。冷静に考えれば、そんな人間が成人してシェアハウスを立ち上げるのは、ごく自然の成り行きだったのかもしれない。

 

 なぜ大学に活路を見出さず、わざわざ自分たちでスペースをつくったのかと言えば、大学に対して何の期待もなかったからだ。なるほど、学問を体系的に修める施設として大学は充分に機能していようが、しかしゼロ年代末期、私たちには大学が、学生の主体的な思考と行動を促す自治空間としての役割を、全く果たしていないように見えた。じじつ、私が入学した法政大学は、かつて「学園紛争のデパート」と呼ばれた要素が一掃され、小綺麗なオフィス同然の雰囲気になっていた。ただし、私たちがやりたかったのは学園紛争ではない。自分たちが自由でいられる場所をつくること、ただそれだけである。しかも、その営為は決して〈政治〉ではなく、あくまで〈芸術〉でなければならないと考えていたのだった。

 

 最初に借りたのは、池尻大橋にあるアパートの一室だ。そこから駒場、恵比寿、そして南平台と、都合3度の引越しを繰り返し、徐々に人数や物件の規模を拡大しながら、渋谷の周囲をうろついてきた。

 

 渋谷を選んだのに、なにか決定的な理由があったわけではない。私のみならず、その他のメンバーも渋谷には漠然と愛着を抱いていたし、何より、渋谷がユースカルチャーの中心地であることは疑い得なかったからだ。もっと言えば、ただ単純に「渋谷に住んでいる」と言ってみたくもあったのだった。

 

 ある街に住んでしまえば、そこに至る道中は全て家路と化す。そうなれば必然、街角のそこここに思い出が張り付いていくことになる。

 

 一つ目の家は、半蔵門線・池尻大橋駅の出口から目黒川を渡り、首都高直下の246沿いを真っ直ぐ歩いて、一階に新聞の専売所が入ったアパートの5階。道路を挟んだ向かいには、大橋ジャンクションが壮大なコロシアムのように聳えている。私たちが住んでいた頃、ベランダでひたすら煙草を吹かしながら望むそれは、まだ足場の建設中だった。

 

 そこから2年弱で越した駒場の一軒家へは、渋谷駅から歩けた。道玄坂を登った交番のところで裏通りに入り、花街のいかがわしさが残る円山町のラブホテル街から、神仙を抜ける。やがて差し掛かる松見坂の途中、閑静な住宅街に立地していた。メンバーは10人程度で3LDK。この頃からリビングや寝室に加え、PCが並ぶデジタル部屋、作品制作などの作業をするアナログ部屋といった区分もできた。

 

 ちなみに、渋家を名乗るようになったのもこの家からだ。それ以前は、中島らもの小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』でジャンキーたちが入り浸る家の名を拝借し、“ヘルハウス”と呼んでいた。思えば、デカダンを気取った若気の至りである。渋家への改名は、いつものように深夜のデニーズ南平台店で駄弁っていた際に、その場のノリで決まった。同時に、渋谷区のマークを家の記号で囲ったロゴも考案されている。

 

 次の恵比寿のフロアは、渋谷駅から離れたものの、初めての渋谷区だった。リキッドルームの奥で、明治通りと渋谷川に並行する路地に面した三階建て。一階にはフレンチ・レストランが入っており、二階、三階、屋上を借り上げていた。年がら年中、昼夜の見境なく、よくわからない若者たちが出入りして、さぞ迷惑だったろうと思う。

 

 2011年、四つ目の家でようやく渋谷と呼ぶにふさわしいエリアまで辿り着く。渋谷駅西口から、セルリアンタワーのある長い坂道を登った南平台町で、地下から3階まであるデザイナーズハウス。地下に“クヌギ”なるクラブスペースをDIYで構え、最大では30人近いメンバーが在籍していた。それまでは近隣との関係や物理的なキャパシティゆえ、どの家も長続きしなかったが、ここはおよそ8年ほど存続し、多額の修繕費を抱えながらも2020年に引越しが完了している。現在は渋家のコミュニティを引継ぎ、初台付近でより若い世代によるシェアハウスが運営されているそうだ。

 

 そんな渋家にルールらしいルールはなかった。しいてあげれば、多数決を取らない、言いたいことを言う、ルールをつくらないという3点。なるべく制度や規制を設けずに、しかしある一定の秩序が保たれているような状態を理想としていたからだ。24時間ドアの鍵は開けっぱなしで、基本的に誰でも出入りすることができる。その中で最初に受け入れたと言っていいのは、山口としくにという男だろう。

 

 としくには、池尻の家を借りた初日に開いたささやかなオープニングパーティに、“メンバーの友人の大学の先輩”というかなり薄い関係性でやってきた。彼は大学生でもないのに中央大学の演劇サークルに所属し、その部室に住み込んで、脚本や演出を手掛けているということだった。その時まだ25歳くらいだったはずだが、その毛深さも手伝って、二十歳前後の私たちの目には充分おじさんに映る。「クズ」と自称するように、金も仕事もてんでないのに、ナルシシズムは人一倍強く、しかも女にだらしない。その日から渋家に住み着いた彼は、しかしいつの間にかコミュニティを率いていって、今や渋家を企業化した株式会社の代表を務めている。ライブのレーザー演出を軸に、広くクリエイティブな事業を手掛けながら、かつての共同体の成員を雇って会社を経営している様には、なんだかんだ脱帽してしまう。

 

 渋家が初期から変わらず一貫していたのは、とにかく他者と喋り、飲み食いし、寝起きしてはまた喋るという、住人のライフスタイルだろう。来訪者がいつしか常連になって、しっかり住居として利用しだすと、家賃を負担する「メンバー」となる。よく出入りしていたのは、美大や人文系の学生から、プログラマー、ダンサー、映像作家、写真家、ファッションデザイナー、アニメーター、ホスト、料理人、DJ、アーティスト、役者、ギャラリスト、キュレーター、SM嬢、マジシャンまで……要するに何らかの表現者やクリエイター、あるいはその志望者だ。そうした人々がジャンル横断的に交わり、様々なプロジェクトを協同して立ち上げることで、相互にエフェクトを与え合う場として機能していたことは間違いない。

 

 ただ一つ言えるのは、男女を問わずそこに居たのは、どこか既存の社会にうまく適応できない人たちだったということだ。それぞれが何かしたいと思いながら、しかしその実、本質的には何をすればいいのかよくわからない───私自身も含め、そんな連中が集っていた気がする。

 

 コミュニティの紐帯を強めたのは〈引越し〉である。

 

 それは原理的に言えば、この共同体の拠って立つ根拠たる“家”が脅かされた際に生じる、「災害ユートピア」(レベッカ・ソルニット)としての非日常的な祝祭だった。その臨界点は、セカンド・ハウスからサード・ハウスへの転居でもたらされている。

 

 駒場の家では、月に一度ひたすら無料で人を集めたパーティや、メンバー各自が外部に働きかけ開拓してきた表現活動によって、それなりの規模で展覧会を企画できる程度にはコネクションが広がりつつあった。そこで、一軒家全体を使った展示『渋家トリエンナーレ2010』を開催する運びとなる。民家でやる芸術祭。私はディレクターの立場に就き、自身の作品として、また展示のキービジュアルを狙って、一枚の真っ白い布で一軒家を丸ごと包むことにした。ジャンヌ=クロード & クリストのパロディであり、漫画『すごいよ!マサルさん』(うすた京介)における主人公の家のパロディ、いわば二重のパロディとして。

 

 まず、服飾を学ぶメンバーのピーコに、巨大な一枚布を縫い合わせてもらう。次に、皆で深夜の東大駒場キャンパスに忍び込み、渋家のロゴをステンシルでデカデカとスプレーする。それを原始的なレベルのマンパワーで屋根から引き上げ、計画は実現したのだ。

 

 結果、私たちはすぐに強制退去を余儀なくされる。

 

 布をかけた日の夜に、近隣、大家、警察から苦情が入った。ただでさえ近所から煙たがられていた矢先、新興宗教の拠点とも見紛う、白布で梱包された異様な家───追い出されるのは至極当然だった。

 

 しかし、ある種の“終わり”が設定されることで、濃密な共同性は立ち上がる。展示を控えた私たちには、引越ししか選択肢がなかった。ある者は実家に帰り、ある者は友人宅に潜り込み、またある者は野宿を図る。その上でバイトした金をかき集め、会議に次ぐ会議を重ね、物件を血眼で渉猟する。そうした足掻きが実を結んで、まさに「アート引越しセンター」とでも言おうか、SNSの勃興も追い風となり、事の一部始終をリアルタイムでドキュメントしながら、何とかサード・ハウスを手に入れたのだった。

 

 あのギャンブルじみたハイテンションは、今も私の脳裏に刻み込まれている。

 

 最終的に、恵比寿の家に入居したその日から三日間、丸々72時間オープンという形で、『渋家トリエンナーレ2010』は実施された。

 

 出展作家には渋家メンバーだけではなく、結成したてのキュンチョメがいたり、トークゲストとして社会学者の毛利嘉孝さんやギークハウス首謀者のphaさん、未来美術家の遠藤一郎さんなども来訪してくれた。なにせ驚いたのは、SNS経由でたくさんの“知らない人”が来たことだ。私たちは現場の様子を逐一ツイートし、ユーストリームで配信した。

 

 実際、この頃から新たなバックボーンを持つメンバーが増えた。

 

 現在アイドルやタレントとして活躍しているちゃんもも◎は、当時まだ10代のギャルで、家出してそのまま渋家に転がり込んできた。私は割合に気が合って、よく一緒に馬鹿話をしたものだが、両親をガンで亡くしたり、整形を繰り返したりしながら、後にリアリティ番組「テラスハウス」に出演することで、彼女の才能が一気に花開いた感がある。

 

 インターネット・レーベルを主宰するtomadは、渋家にナードなクラブカルチャーの種を撒いた。tofubeatsが「水星」をリリースする前夜の機運。民家にもかかわらず、週に一度というトチ狂ったペースでパーティを開いては彼のDJで朝まで踊った。

 

 そうした変化に伴って、渋家としての活動の幅も広がっていく。記者が住み込み取材をした『朝日ジャーナル』など、いくつかのメディアに取り上げられたし、外部のハコでパーティを企画したり、ギャラリーやオルタナティブスペースでの展覧会に呼ばれたりした。その流れの総決算が、2011年初頭のトーキョーワンダーサイト渋谷(TWS)にある。

 

 渋谷のど真ん中、公園通り中腹に立地していたTWSで、アンデパンダン展『わくわくSHIBUYA』とカオス*ラウンジ『荒川智則展』が同時開催された。混沌とした展示空間の中で敢行されたオープニングパーティは、“界隈”の人間たちが入り乱れ、一堂に会する饗宴だった。

 

 そのお祭り感は、ネット空間と現実空間の相互浸透によってもたらされたのではないだろうか。インターネット空間と、クラブやギャラリー、シェアハウスなどのリアル空間とは、今よりずっと無媒介に接続されていたのである。

 

 混沌としたフロアで、ギャラリストである松下学さんの囁いた言葉が耳に残っている。

 

「これが一つのピークだろうね……」

 

 まさしくそれは、ゼロ年代的文化における最後の徒花だった。

 

 ちょうど、その会期後半に東日本大震災が起きる。

 

 2011年3月11日午後、私は渋家で雑魚寝していた。いつものように朝まで飲んだ次の日、数人の仲間と共に、昼過ぎまでコタツに潜り込んでいたのだ。激しい揺れを感じ、流石にすぐ飛び起きて、各々がとっさに本棚を支えたり、食器を持ったり行動する。余震がひと段落つくと、私たちはわけもわからず表に出て、ぶらんぶらん揺れる電線を眺めながら、御近所さんと安否の挨拶を交わしたのだった。

 

 その後、津波と原発事故という、筆舌に尽くしがたい事態をブラウン管越しに目の当たりにするのは言うまでもない。その晩の私たちにできたのは、明治通りで列をなして歩く「帰宅難民」を見かねて、Twitterで呼びかけ、渋家を無料の宿泊所として開放することくらいだった。

 

 この震災を機に、文化的なモードは様変わりすることになる。インターネット上の空気も含めて、シリアスなメッセージや表現で溢れるようになったのだ。私もまた、途方もないカタストロフの前で、自分に何ができるのかと煩悶するしかなかった。

 

 こうして、松下さんの予感通り、ゼロ年代の狂騒は終わりを迎えるのである。

 

 南平台のフォース・ハウスに引越してから、メンバーもさらに増加し、内外に多様な活動を展開しながら、例えば5周年を改装前の渋谷PARCO内のクラブ「2.5D」で、そして10周年を109メンズ館屋上「MAGNET」で祝った。そうした中で世代も入れ替わり、新陳代謝も起きている。何にせよ、渋家というプラットフォームを経由して、色々な表現者が巣立っていったのは確かだろう。

 

 渋家とは、ゼロ年代から10年代を通して開け放たれていた、〈ドアの鍵が壊れた実験室〉だったのだ。そのセキュリティがガバガバのラボラトリーは、内部でもあり外部でもあるという一種の逆説を孕んでいた。家屋が渋谷を内面化し、渋谷が家屋の延長線上に広がっている。室内に街路を引き込み、街路で自室のように振舞う───都市の自由な領域を仮構するその家は、いわば“公園”だ。あれほど「来るもの拒まず、去るもの追わず」を徹底していた空間を、私は他に知らない。それは渋谷における最良の公共圏の一つだったと、そう私は思う。

 

 長く工事中だった宮下公園が、MIYASHITA PARKとしてリニューアルオープンした。

 

 宮益坂下の路地の奥に入口があり、山手線沿いの街区に細長く伸びる4階建ての低層施設は、ハイブランドの大型店舗やカフェ、雑貨店、レストランなどが入った、つまるところショッピングモールだ。すぐ側にある、戦後闇市の名残りで出来た“のんべい横丁”を尻目に、一階には“渋谷横丁”なる、巧妙に汚された看板を掲げる最新の居酒屋が、規則的に軒を連ねている。

 

 肝心の公園は屋上に立地していた。スケートボードやビーチバレーのコート、ボルダリングウォールなどが設置され、足元には手入れの行き届いた芝生が敷かれている。その上では、大勢の人たちが思い思いに座ったり寝転んだりしていた。なるほどそこにはにぎわいがある。ただこれは公園というより、どちらかと言えば遊園地みたいだ。空には半円のアーチが幾重にも掛かっていて、再びクジラの肋骨を連想させる。北側には、板チョコのようなホテルが一枚せり立っていた。

 

 昔この場所で過ごした日々が頭をかすめる。

 

 高校生の頃の宮下公園は、まだ雑然と樹木が茂り、砂地にゴミが散見され、ブルーシートが点在していた。そうした若干ダーティな空気の中、友人たちと調子に乗ってはしゃいでいて、ホームレスに怒鳴られたこともある。が、別にそれはそれでよかった。ああ、騒ぎすぎたなと反省し、その後も同じ空間を共有するだけだからだ。

 

 宮下公園からヒューマントラストシネマ脇の坂を少し登ると、美竹公園がある。さほど大きくないこの公園にも散々居座ったものだ。こちらはよりディープな雰囲気で、周囲のブルーシートから常に見張られているような緊張感があった。穴ぼこの空いた球体状の遊具と公衆便所の他は特に何もない。でも、いつからか予約制のバスケットコートが、公園のかなりの部分を占めるようになる。金網で囲われたそこに、規定時間外は立ち入ることが禁じられていた。

 

 同時期に、宮下公園にもフットサル場やスケートリンクが出来て、そのスペースのほとんどが金網で閉じられる。ネーミングライツが売られ、「ナイキパーク」になったからだ。その結果、公園内からホームレスは一掃されたが、公園下の路地にはブルーシートの小屋がぞろりと列をなすことになる。そして、今またあの人たちは、どこかに消えてしまったみたいだ。

 

 ──久しぶりに美竹公園に足を運ぶと、敷地のほとんどがフェンスと仮設壁で区切られ、立ち入れなくなっていた。どうやら公園内に渋谷区の仮庁舎が建てられ、解体されてから、更地のままになっているようだ。残りの狭い空間にブルーシートハウスが立ち並ぶ、異様な光景。そんな美竹を後にして坂の下を望むと、突き当たりにはMIYASHITA PARKが横臥している。中心部では、ルイ・ヴィトンのロゴが禍々しいほど明るく発光していた。……

 

 渋谷という谷の底で、いかに〈悪所〉であることを回避しようとも、そこに新たに築かれる街並みもまた、別種の〈悪所〉になってしまうということ。毎夜23時に施錠される扉の内部へ、果たして誰が入れるようになって、誰が入れないようになったのだろうか?

 

 結局、渋谷は〈悪所〉たる宿痾から逃れられないのかもしれない。

 

 なぜかいつも思い出すのは、池尻大橋の渋家の近くにあった“宮下児童遊園”だ。

 

 坂の途中の三角地帯に設えられた、お世辞にも綺麗とは言えないその小さな公園には、錆び付いたブランコや滑り台、朽ちかけのシーソーが寂しく置かれている。決まって深夜、私たちは家を抜け出しては、意味もなくそこに溜まって喋った。いつも嘔吐くほど煙草を吸って、日の出と共にハウスへ帰って眠るまで。

 

 ここが俺たちのミヤシタパークだ、と嘯きながら再訪したその公園は、今も変わらぬ姿でそこに佇んでいた。

 (なかじま・はるや)

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