『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.016

Ⅱ 日蓮と将軍家

 

 

将軍家と得宗家

 

日蓮と政権との攻防を軸にすると、どういう政治史が現れるのか。それを考察する。

 

金沢顕時が霜月騒動で配流される前日、称名寺開山妙性に送った書状がある。永和年間(一三七五-九)に寺領の訴訟で称名寺関係者が作出した偽文書であると判明している。問題は内容である。

 

顕時が「身の危険は文永六年からあり、薄氷を踏むような十年だった」と述べ、過去に誅殺された四名を載せる。「文永九年正月十四日、名越尾張入道・遠江守兄弟、倶に非分に誅せられ候い了ぬ。同年二月十六日、六波羅式部丞誅され候。今年又城入道、十一月十七日誅せられ候い了んぬ」。名越時章・教時、北条時輔、安達泰盛の四人の死が不当な処刑だったという。訴訟の文書だから、人々が「さもありなん」と納得できたはずだ。細川重男氏は「この文書が作成されたこと自体が、時宗政権が異常な緊張状態にあったこと、二月騒動が霜月騒動と並ぶ衝撃的な事件であったことが、百年以上後にまで記憶されていたことを示している」とされた。

 

日蓮自身は一二八二(弘安五)年十月十三日に没し、後の霜月騒動には直接関わりがない。ところが、残された弟子・門下に激しい圧迫があった。二月騒動から霜月騒動までの日蓮と門下の動きを日蓮の書簡で追ってみる。

 

● 一二七一(文永八)年九月十二日に日蓮は平頼綱に逮捕され、竜ノ口の刑場に連行される。相模の本間六郎館に「上の立文・追状」が届く。日朗はじめ五人が投獄され、日蓮は十月末に佐渡へ流される。配所は国府至近の塚原。

 

●一二七二(文永九)年一月、守護所で本間が「上の副状」を披露し、念仏者と法論。日蓮は本間に二月騒動を予言する。二月十一日、名越時章、教時が得宗被官に誅殺される。日蓮門下も処刑され、日蓮自身「鎌倉にいたら殺されていた」と語る。四月に塚原から一の谷に移り、門下の往来がはじまる。五月、日蓮は赦免運動の禁止を門下に通達する。大仏宣時が三回にわたって「私の下知」、「虚御教書」を送り、念仏者に日蓮の誅殺を命じる。比企能本が安達泰盛に働きかける。

 

● 一二七四(文永十一)年二月十二日、鎌倉で合戦があり、江間親時も攻められる。二月十四日、赦免決定。三月八日、佐渡に赦免状到着。三月十三日、佐渡一の谷発。金沢実時の衛兵に守られ善光寺を通過。四月八日、平頼綱と面会し、蒙古の来襲は年内と伝え真言師(官僧)の祈祷中止を求める。五月十七日、身延に入る。

 

● 一二七六(建治二)年四月十六日、池上宗仲が父・康光から勘当され、日蓮は兄弟に書簡を送る。七月、池上宗仲が改心。九月六日、四条頼基に「今年はきみをはなれまいらせ候べからず」と指示する。

 

● 一二七七(建治三)年五月十五日、南条時光に「殿もせめをとされさせ給ふならば、するがにせうせう信ずるやうなる者も、又、信ぜんとおもふらん人々も、皆法華経をすつべし」と危機を伝える。六月二十三日、頼基に信仰を捨てよと下文がある。八月四日、弥三郎に「地頭のもとに召さるる事あらば(中略)但偏に思ひ切るべし」と心構えを説く。十一月二十日ころ、池上宗仲が康光から再勘当される。

 

● 一二七八(建治四)年一月、「上の御一言」で宗仲が許される。頼基が親時の出仕に御供。同(弘安元)年十月、頼基に所領の発給がある。十月二十二日、頼基に「大難もかねて消え候か」と伝える。

 

● 一二七九(弘安二)年十月に熱原地方で圧迫があり、問注を準備。十五日に熱原の者が御勘気を被る。二十三日、頼基が強敵と取り合う。

 

この後、一二八二(弘安五)年十月十三日の日蓮の逝去まで明白な圧力はない。一二八五(弘安八)年に入って高弟五人の住房を破却すると圧迫があり、四月に日昭と日朗は「我々は天台宗であり、叡山伝教の本流の弟子である」と天台沙門を名乗り、「申状」を提出して難を逃れる。

 

日蓮と門下への圧力には波がある。ピークは、①一二七一(文永八)年九月~翌(文永九)年四月、②一二七六(建治二)年四月~翌(建治三)年の年末、③一二七九(弘安二)年十月、④日蓮没後の一二八五(弘安八)年、の四回である。①については、頼綱らと将軍派との抗争のうちにあったことは明らかである。順にみていく。

 

②の時期に、幕府で二つの事件が起こる。一つは、一二七六(建治二)年九月、評定衆の安達時盛が突然、遁世し、誰にも告げずに寿福寺に入る。遁世の処分は厳しい。時盛は所領を没収され、兄の安達泰盛は義絶する。鎌倉は騒然とした。

 

もう一つは、一二七七(建治三)年四月四日に病で出家した連署の塩田義政が、五月二十二日にやはり突然、遁世した。「家中の人々」にも知らせず、信濃の善光寺に入る。時宗は、翻意を促すために使いを走らせたが、義政は動かず、所領は没収された。『建治三年記』には「内外仰天」とある。

 

この二つの事件を網野善彦氏は、「幕府の要人の、こうしたあいつぐ遁世の背後には、泰盛と頼綱のあいだの、かなり危機的な対立があったのではないか」と指摘され、前後の評定衆などの重要人事が、すべて泰盛と頼綱の対立の影響を受けたとされた。②も幕政内の闘争と関連していたとみてよいと思う。

 

一二七七(建治三)年十一月、日蓮は宗仲の再勘当の報告を聞き、弟・宗長に厳しく激励する。

 

「今度はとのは一定をち給ひぬとをぼうるなり」、「とのは現前の計らひなれば親につき給はんずらむ」、「法華経のかたきになる親に随ひて、一乗の行者なる兄をすてば、親の孝養となりなんや。せんするところ、ひとすぢにをもひ切つて、兄と同じ佛道をなり(成)給へ」。

 

今度は必ずあなたは法華経を捨てる。目先の利益を考えて父親につくにちがいない。法華経の敵となる親に従って兄を捨てることが本当の孝養になるものか。一筋に思い切って兄と同じく仏道に入りなさい、とした上で「当時も武蔵の入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて、心うすくて悪道に堕ちて日蓮うらみさせ給ふな」と、義政の遁世を引き合いに、財産を惜しんで力にへつらうなと諫めている。日蓮は、兄弟への圧迫と義政の遁世の関連を意識していたと思われる。

 

義政の連署は一二七三(文永十)年六月十七日から一二七七(建治三)年四月四日までだ。元寇を乗り切り内政は安定し、日蓮も佐渡赦免から身延入山と比較的平穏な日を送っている。この時期は最後の一年を除いて泰盛派が優勢だったのだろう。一二七五(建治元)年十月、泰盛が将軍代行の御恩奉行を務めている。日蓮はこの二派の対立を意識し、それが自身と門下の安全に直結すると自覚していた。

 

③は、得宗領の駿河、しかも葛西殿(時宗の母)縁故の富士・熱原地方での圧迫であり、ここの門下に日蓮は以前から注意を与える。恒常的な危機感は地政からのものだ。日蓮は一二七九(弘安二)年の書簡で、熱原地方の圧迫が鎌倉に波及すると想定し、門下に覚悟を求める。「一定として平等も城等もいかりて此一門をさんさんとなす事も出来せば、眼をひさい(塞)で観念せよ」。頼綱と泰盛の対立を前提に、今回はその両者から圧迫があるという。日蓮は騒動の拡大を警戒し、早期の決着を第一に訴訟指揮を執る。

 

一二七七(建治三)年の圧迫をしのぎ、一二七九(弘安二)年の局所的な圧力が収束すると、再び平穏になる。日蓮没までの三年、霜月騒動までの六年の歳月である。本郷和人氏は、泰盛派は統治を優先する統治派、頼綱派は御家人利益を優先する利益派と二分し、一二六六(文永三)年から一二八五(弘安八)年まで、どちらが優勢だったかを分析された。頼綱(利益)派は一二七二(文永九)年から一二七七(建治三)年まで優位に立つものの、その後、一二八五(弘安八)年の霜月騒動まで泰盛(統治)派優位が続く。先の義政連署の一時期を除けば、日蓮と門下に圧迫がなかった時期と、泰盛が優位だった時期が重なる。

 

時宗に目を転じる。二月騒動の顛末は、頼綱ら得宗被官が引き起こした事態に、泰盛らが異議を唱え、射手の被官を処分する。この事件に時宗が、どう関わり、判断したのか、よく分からない。本郷和人氏は、「時宗が調整役を果たすことによって、二派の全面衝突は避けられていた。ただし彼には、二派の対立を止揚する政治方針を指し示すことはできなかった」とされた。同時期の日蓮の処遇も時宗の動きは不明瞭である。どんな事情があるのか、日蓮の視点から考える。

 

日蓮は後に、時宗の動きをこう綴る。「かうのとの(守殿)は人のいゐしにつけて、くはしくもたづねずして、此御房をながしける事あさましとをぼして、ゆるさせ給ひ」。日蓮の配流について時宗は、他人の意見に従っただけで、詳しくは尋ねなかった、という。日蓮の認識は、次の通りである。日蓮を憎む高僧たちは「訴状も叶はざれば、上郎尼ごぜんたちにとりつきて、種々にかま(構)へ申す」。「故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし。但須臾に頸をめせ。弟子等をば又或は頸を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給ひしかば、そのまま行はれけり」。「外には遠流と聞へしかども、内には頸を切ると定めぬ」。駿河の門下への書簡にも「するがの国は守殿の御領、ことにふじ(富士)なんどは後家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給ふ」とある。

 

「尼ごぜん」は、故最明寺殿(時頼)の妻で極楽寺殿(重時)の娘の葛西殿である。日蓮の捕縛・斬首の実行は侍所所司の頼綱だったが、背後で頼綱を動かしていたのは葛西殿だと日蓮は認識している。宣時も同様であろう。評定を無視した斬首や虚御教書の発給は、大きな後ろ盾が必要である。そう考えると、時宗の傍観者的な態度も理解できる。葛西殿が時宗に「亡き夫と父の敵」と強い憤りを訴えたのではないか。これは泰盛にも言える。重時の娘を妻に持つ点で、時宗と立場は同じである。

 

佐渡から戻った日蓮は頼綱に呼び出される。「四月八日平の左衛門の尉に見参しぬ。さき(前)にはにるべくもなく威儀を和らげてただ(正)しくする上、(中略)平の左衛門の尉は上の御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す」。頼綱の態度が豹変したと日蓮は驚く。

 

一二七一(文永八)年、七二(同九)年は葛西殿が背後にいて、時宗も頼綱らを制止できなかった。寝所の警護もしただろう御内の被官を敵にできない。それを知っていた頼綱は躊躇なく非法な実力行使に出たのではないか。ところが今回は、「上の御使い」のようだったと日蓮は述べる。評定も執権も意に介さず振舞えた頼綱も、将軍家の命令には従った。日蓮と将軍家の近さを考えると、将軍家があえて赦免後に面会を命じたとも思える。これ以降、日蓮自身に弾圧はなくなる。日蓮は身延に向かうが、これを「隠居」、「流浪すべきみ(身)」と表現する。日蓮の政治力は封印される。

 

葛西殿は葛西谷に居を構え、駿河など得宗領を支配した。一二九八(永仁六)年の難破唐船の積載物に関する『青方文書』第一~七〇号に「葛西殿御分」とある。積載物は莫大な砂金・水銀・銀剣・真珠・蒔絵・白布等々である。日蓮と対峙した忍性は、①六浦に加え鎌倉の港湾・飯島の管理と関税徴取権、②飯島から稲村ケ崎の海岸の取り締まり権を幕府から与えられた。葛西殿はじめ得宗家と御内人、忍性などの律僧が海上交通をおさえ、貿易船の巨大な富を得ていた。

 

葛西殿と頼綱一族との関係も密接だ。執権高時の下文では、肥後の所領二か所を「葛西殿の御時の例」の通りに得宗被官・長崎宗行に安堵する。葛西殿が得宗領を差配し、長崎氏に与えた。時宗の葬儀で無学祖元が時宗の十徳の筆頭に「母に事うるに孝を尽くし」と挙げる(『仏光国師語録』巻四)。時宗と葛西殿の関係は広く知られていた。

 

一二八五(弘安八)年の「新御式目」で得宗が順守すべき徳目に、僧侶や女性を政治に口出しさせるなとある。この規定の存在自体が、過去に僧侶や女性の介入で執権政治が歪められたことを物語る。葛西殿は、時宗も頼綱も、孫の貞時も見送って一三一七(文保元)年に没する。日蓮の圧迫は、葛西殿・頼綱ら得宗家御内人が主導し、日蓮の保護には将軍家・金沢実時・安達泰盛などが動いていた。時宗はこの攻防から距離を置かざるを得なかった。

 

先の考察から「上」の動きの特徴も明らかになる。将軍家は、評定での決定を守り、それを超える動きを諫める。竜ノ口の立文・追状や佐渡の副状でも、指示は「殺してはいけない」の一点である。池上父子の問題も勘当という私的な動きに将軍家は介入している。次の日蓮の言及は象徴的だ。赦免の経過を綴る。

 

「内々あやまつ事もなく、唯上の御計ひのままにてありし程に、(中略)科なき事すでにあらわれて、いゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども、相模の守殿の御計ひばかりにて、ついにゆり候て、のぼ(登)りぬ」

 

私刑で殺されずに「上」の指示で無事に暮らせたとし、北条一門の者たちは反対したが、時宗の判断で赦された、と振り返る。将軍家の合法的で抑制された態度と比較して、頼綱ら得宗被官や宣時の非法はその対局にある。日蓮は、これを強く批判する。

 

「師子の中のむしの師子を食らひうしなふやうに、守殿の御をんにてすぐる人々が、守殿の御威をかりて一切の人々ををどし、なやまし、わづらはし候うへ、上の仰せとて法華経を失ひて、国もやぶれ、主をも失つて、返つて各々が身をほろぼさんあさましさよ」

 

執権ばかりか、将軍家さえも頼綱らは利用する。以上が、日蓮の目を通して見た幕政の内実だ。頼綱はその後、時宗の死と霜月騒動の勝利を得て、一二八六(弘安九)年閏十二月から執権の職域も手中にする。得宗家の重要政務を得宗花押のない「執事書状」で行い頼綱専制を敷く。「身をほろぼさんあさましさ」と日蓮は述べたが、専制七年余りの一二九三(正応六)年四月二十二日、執権貞時によって誅殺される。

 

金沢顕時の書状に戻る。「薄氷を踏む十年」の当初一二六九(文永六)年に引付衆の復活・再設置がある。顕時も引付衆に初選任された。これが危機の始まりだろう。ではその三年前の一二六六(文永三)年に、引付衆が廃止になったのはなぜか。廃止は三月で、六・七月で将軍宗尊を辞職させる。これは無関係な出来事だろうか。

 

一二六六(文永三)年六月二十日、時宗・政村・実時・泰盛の四人による「深秘御沙汰」で宗尊の更迭を決める(『吾妻鏡』)。「深秘御沙汰」は、執権の意思を貫徹する際の秘密会議だが、どうして公式の評定ではなかったのか。『吾妻鏡』から読み切れないが、評定には将軍の意思が反映されたのではないか。将軍と無関係に執権が舵を握れるなら、「深秘御沙汰」という不自然な場を作る必要はない。御家人は、評定に将軍の意思が反映されることで執権政治を容認したのではないか、と思う。だから『吾妻鏡』は御家人の思いを逆なでしないよう、「深秘御沙汰」という公式か非公式か分からない言葉を創作して、執権の独裁ではない、と言い訳を記したのだろう。

 

一二五九(正元元)年九月に御所奉行の二階堂行方・武藤景頼が評定衆に就任する。池田瞳氏の指摘に従えば、将軍宗尊が最側近二人を評定に送り込んだのだ。対抗する時頼は実時と平岡実俊(金沢氏被官)が押さえていた小侍所の別当と所司に、時宗と工藤光泰(得宗被官)を送り込む。これで時頼は、将軍―御所奉行―小侍所という将軍の下命ラインに介入する新たなラインを得る。このラインで時頼が強く迫ったのが、将軍供奉で時輔よりも時宗を上位に置くことだった。宗尊は強く抵抗したのだろう、間に入った景頼と実時が謹慎するも時輔の厚遇は続く。当時、将軍と得宗が権力の所在をどこに求めたかがうかがえる。席次である。それは将軍の専権だった。

 

御家人は将軍に近い席を得ることが最も重要だった。工藤祐経と佐々木信実の騒動が象徴的だが、兄弟の場合でも、伊東氏のように将軍が直に弟を惣領と決めることもあるし、席次をもって誰が惣領にふさわしいかを一族のみならず御家人社会に広く示す権威があったはずである。将軍による席次は、惣領と庶子の決定に直接影響した。これが宗尊と時頼が時輔と時宗兄弟の席次をめぐって対立した理由にちがいない。『吾妻鏡』に将軍供奉と儀礼に関する記事が多く、しかも序列を詳細に書き残しているのはそれが最大事だったからだ。一方、この争いで謹慎した行方・景頼の二人は、宗尊追放の翌(文永四)年に死去する。

 

村井章介氏は、一二六五(文永二)年六月二十一日の評定衆・引付衆の人事を分析し、北条一門が四名から八名に倍増し、しかも反得宗の名越氏がそのうち三名を占めたことで、得宗派は義政・業時・宣時を加えて対抗した、とされた。村井氏は、翌年の引付衆廃止は、得宗家と名越氏の対立が原因だとする。では、だれが名越氏を増員したのか。得宗家ではない。名越氏は将軍派である。その後の展開から義政も将軍派だった。業時も後にみるように将軍派だった。北条一門八名のうち将軍派が多数を占める。評定衆はそもそも将軍近臣が就いてきたし引付衆も将軍派から任命されてきた(「関東評定衆伝」)。一二六五(文永二年)年の人事で異例なのは、得宗御内人と強く結んだ京極氏信と大仏宣時が引付衆に補任されたことだ。翌年、宗尊は引付衆を廃止し、側近の評定衆だけで三番編成にして「重事直聴断」の専制に走る。その直後、宗尊は病となり、回復するや直ちに更迭された。これが得宗派の反動なのは明らかだ。二代将軍頼家を彷彿させる。将軍専制は頓挫する。

 

一二六九(文永六)年の引付衆就任を顕時が喜べなかったのは、なぜか。この時点でも引付衆には将軍家推挙があった。顕時はその推挙で引付衆になり、三年前に引付衆を解かれた宣時が復職し、将軍派と得宗派の新たな闘争が始まった。これが「薄氷を踏む十年」ではないか。

 

細川重男氏は「宗尊の京都送還以降、鎌倉将軍は君臨すれども統治せざる完全に装飾的存在となった」とされ、村井章介氏も「宮将軍は、得宗によって、至高の権威とはうらはらに、なんらの実質的な権力をともなわない存在としてまつりあげられた」とされたが、再考が必要と思う。弘安年間、泰盛も頼綱も子息を将軍に就けようとしている、との話が執権貞時の耳に入り誅殺されたと『保暦間記』は記す。お飾り将軍を誰が恐れるだろう。この物語は、将軍が執権以上の存在でなければ成立しない。同様に、顕時の「薄氷を踏む十年」物語が訴状で創作されたのも、百年後の人々が将軍派と頼綱らの暗闘と理解していた証だろう。

 

一二八五(弘安八)年に入り、泰盛が進めた改革を頼綱は次々と破棄する。四月八日の「追加法」で、鎌倉の供僧の争論は得宗家「寄合」の裁可となる。僧の争論が日蓮門下を含むことは当然だ。同月、日昭・日朗が提出した「申状」は、それへの弁明だろう。将軍派と頼綱の政治闘争の内に、日蓮と門下がいたのは間違いないと思う。

 

この「追加法」は霜月騒動に先行し、日蓮門下に圧迫が加えられた。一二七一(文永八)年九月の日蓮逮捕と佐渡配流も、翌年の二月騒動に先行する。これは偶然だろうか。意図されたものなら、理由は何か、考えたい。

 

日蓮の逮捕・配流からみる。日蓮は「立正安国論」で内乱を予言しており、日蓮を鎌倉においたまま将軍派の討殺が実行されれば、日蓮と門下が「予言が的中した」と喧伝することは明らかだ。三年前に蒙古の国書が届いた際、日蓮が幕府要人に書状を送り、門下は「予言の的中」と宣伝して日蓮教団は急増する。国内で一割を超えたと日蓮はいう。これに幕府は無視を貫き、日蓮にも処分はない。それは日蓮が評定で高僧との対決を求めているからである。処分を決める評定が世上の注目を集め、日蓮の喧伝の舞台になることを恐れたのだ。二月騒動ではそうした騒ぎと動揺の芽をあらかじめ摘んでおきたい、と考えても不思議はない。

 

日蓮の配流の評定で日蓮への尋問はない。侍所に前々日に呼び出されて平頼綱と奉行人の問いに答え、所信を述べただけである。評定では頼綱が日蓮の主張を陳情したのだろう。評定の決定から日蓮逮捕までも一瞬の動きで、日蓮側に準備の余裕を与えない。逮捕当日に日蓮は頼綱に書状を送り、「立正安国論」を進呈して一昨日の面会の礼を述べる。日蓮にとって逮捕は不意打ちだった。一方、頼綱側は要塞化した日蓮の居宅を武装した多人数で急襲し、逃亡を防ぐ。周到な計画がみえる。

 

一連の経過は、頼綱が日蓮の迅速で広範な情報網と宣伝力、幕政への影響力を警戒したことを物語る。日蓮が持つ力は、日蓮と門下の人脈によっており、血縁が核だった。したがって日蓮没後、ただちに人的結合が解消されたとは思えない。霜月騒動を前に、日蓮門下の動きを圧迫し、封じておきたいと頼綱が考える必然性はあったといえる。

 

—次回2月1日公開—

 

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