(58) 河出書房新社「世界新文学双書」とロレンス・ダレル『黒い本』
小田光雄
本連載31で、1960年代後半における新しい世界文学の翻訳として、集英社の『世界文学全集』、同33で河出書房新社の「人間の文学」「今日の海外小説」、白水社の「新しい世界の文学」シリーズを紹介しておいた。
これらに先行するかたちで、やはり河出書房新社から1960年代前半に「世界新文学双書」が刊行されていた。同社は全出版目録も出されていないし、これも半世紀以上前の出版物になってしまうこともあってか、忘れられている。それに近年は古本屋の棚にもほとんど見かけない。それゆえにあらためてリストアップしてみる。
1 ジョン・ブレイン『年上の女』(福田恆存訳)
2 ジャック・ケルーアック『路上』(福田実訳)
3 アラン・ロブグリエ『消しゴム』(中村真一郎訳)
4 ミシェル・ビュトール『心変わり』(清水徹訳)
5 ナタリー・サロート『見知らぬ男の肖像』(三輪秀彦訳)
6 ジョン・ブレイン『黒い手から』(中村保男訳)
7 ロレンス・ダレル『ジュスティーヌ』(高松雄一訳)
8 〃 『バルタザール』( 〃 )
9 〃 『マウントオリーヴ』( 〃 )
10 〃 『クレア』 ( 〃 )
これは1963年刊行の『クレア』の巻末広告から引いたものである。それ以後もこの「世界新文学双書」が続いたかは確認できていないが、61年にマルグリット・デュラ『夏の夜の十時半』『雨のしのび逢い』(いずれも田中倫郎訳)が出ているようだ。
1950年代後半には倒産によって新社となる河出書房も含めて、新潮社、筑摩書房、平凡社などからも世界文学全集類が出されていた。だがそれらはまだ「世界新文学」を収録する器ではなく、流通販売においても、広範な読者層に向けての企画にほかならず、バックマージン目当ての書店の外商部門にたよらざるをえなかったのである。それに加えて、「世界新文学」の研究者や翻訳者も育っておらず、同様に読者も少数だと見なされていたと考えていいだろう。
といっても単行本として個別出版することも難しいので、「世界新文学双書」というシリーズが立ち上げられ、そこに先の10作が翻訳刊行されることになった。それぞれの作品に寄せられた紹介文を見てみると、1のブレインの『年上の女』はイギリスの「怒れる若者たち」の一人による第一作とある。私がこの「怒れる若者たち」というタームを知ったのは、1960年代後半の高校生の時に読んだコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(福田恆存、中村保男訳、紀伊國屋書店)、もしくはやはりその一人のアラン・シリトーの「長距離走者の孤独」(河野一郎訳、『世界短篇文学全集』2所収、集英社)によってだったと思う。後者は高校の図書館にあり、他の世界文学全集が長編中心であることに対し読切短篇集の趣を感じ取り、読んでいたことが懐かしい。そのシリトー脚本、トニー・リチャードソン監督の映画を見たのは70年代になってだったけれど。
2のケル―アックの『路上』はアメリカの「ビート・ジェネレーション」の青春小説と謳われている。だがこちらはヘンリー・ミラーやノーマン・メイラーを読み始めていたこともあり、「ビート・ジェネレーション」への関心はあまりなかった。
4のロブグリエ『消しゴム』、ビュトール『心変わり』、サロート『見知らぬ男の肖像』はいずれも「アンチ・ロマン」として紹介され、フランス現代文学はカミュに取りかかったばかりで、読む機会があったとしても、手は出さなかったであろう。まして後に「ヌーヴォー・ロマン」の時代がくるとは予測すらしていなかったからだ。
「世界新文学双書」が刊行され始めた1960年代前半は「怒れる若者たち」、「ビート・ジェネレーション」、「アンチ・ロマン」のいずれにしても、まだほとんど認知されておらず、私の場合であっても、60年代後半の読者として「世界新文学」は敷居が高かったというしかないだろう。
それならば、どうして「世界新文学双書」なのかだが、ひとえに7から10のロレンス・ダレルの「アレクサンドリア四部作」に尽きるのである。それは『クレア』の巻末広告に「ついに完成!」とのキャッチコピーが示され、三島由紀夫の評が次のように掲げられている。「『アレクサンドリア四重奏』は今世紀最高の傑作の一つであり、優にプルースト、トーマス・マンに匹敵する」と。しかも70年代に入っても、この「アレクサンドリア四重奏」はこの「双書」でしか読めず、古本屋で一冊ずつ見つけ、入手するしかなかったのである。
その一方で、ダレルが1938年に書いた「四重奏」原型、プレリュードともいうべき『黒い本』(河野一郎訳、中央公論社)が『ジュスティーヌ』『バルタザール』と併走するようにして、61年に翻訳されていた。それは次のように始まっていた。
幕間狂言(アゴーン)を。では始めよう。今日は東地中海沿岸から、強風が吹き上げてきている。朝がやってきた。現像液にひたった一巻きのフィルムに沿って流れる黄色い霧のように。
今日という日を、ぼくはこの物語を始める日にえらんだ。なぜならば今日、ぼくたちは死者にまじって死んでおり――これは死者への論争(アゴーン)、生者への記録だからだ。ほかに表わしようはない。
この始まりに『黒い本』のみならず、「アレクサンドリア四重奏」の物語のコアの表出をうかがえるし、そのようにして双方の物語も進行していく。『黒い本』だけで、「四重奏」にふれられなかったが、またの機会を見つけよう。
なお「世界新文学双書」は70年代に入り、新たな「秀れた文学の出会いは精神の糧、毒を含んだ小説」「幻の名作を復権し知的な発見の領域を広げる」シリーズ「モダン・クラシックス」へと引き継がれていったのである。
—(第59回、2020年12月15日予定)—
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