(61)『ロルカ全集』と五木寛之『戒厳令の夜』
小田光雄
前回の『ノヴァーリス全集』は揃っていないけれど、1973年から75年にかけて刊行された『ロルカ全集』全3巻は手元にある。これは『牧神』創刊号に先駆けているし、そこに1ページ広告も見えているので、そのキャッチコピーを引いてみるべきだろう。
ヨーロッパの血スペインに今世紀の文学と思想の根源を生きて死を遂げたロルカの合体像を昏迷の現代に突き通す画期的作品集成―ロルカの作風・思想の展開を三期に分け、スペイン語からの訳出による諸ジャンルの作品に、ロルカ論その他の資料を併録して、ロルカ像のけざやかな結像を期すべく全三巻を立体的に構成した。
この全集は荒井正道・長南実・鼓直・桑名一博監修で、A5判函入、各巻400ページを超える大冊であり、第1巻にはさまれた全集の投げ込みチラシの言によれば、従来の英仏重訳のロルカ紹介と異なり、「本全集は日本スペイン学会の総力をあげて、すべてスペイン語の原典から訳出した新しい訳業」とされる。おそらく「日本スペイン学会の総力をあげて」の「本全集」は菅原貴緒が思潮社時代に持ちこまれた企画で、それを牧神社が学会の助成金を得て引き受け、刊行にこぎつけたと思われる。
これを購入したのは76年の暮れだった。なぜこれを覚えているかというと、五木寛之の『戒厳令の夜』(上下、新潮社)が出されたが同年12月で、その中にロルカの詩が引用されていたことによっている。だが当時と異なり、もはや五木は流行作家ではないし、『戒厳令の夜』の文庫にしても絶版になっているはずだ。だから五木のことはともかく、この小説のストーリーを簡略に説明しておくべきだろう。
『戒厳令の夜』は巻頭に「その年、四人のパブロが死んだ」という一節が置かれ、続いて、1973年に死を迎えたパブロ・ピカソ、パブロ・ネルーダ、パブロ・カザルスの黒枠の写真が示され、四人目のパブロ・ロペスの写真だけは空白のままで、物語は始まっていく。主人公の江間は博多の酒場ベラの前で既視感を覚え、そこに入り、壁にかけられたジプシーの少女を描いた十号ほどの油絵を見出す。彼は映画ジャーナリストだったが、大学では美術史を専攻し、大学院でスペイン絵画の研究を志していたのである。
それはスペインの画家パブロ・ロペスの絵で、彼の作品は一人の大地主のコレクターに独りじめ、秘蔵されていたが、その屋敷が民衆の焼討ちにあい、すべてが焼けてしまった。そのためにロペスの作品は「伝説中の幻の絵」として語られるだけだった。それでもロペスの画風を愛したのは芸術家が多く、カザルス、ピカソ、ネルーダ、それにガルシア・ロルカも名前が挙がり、ここに四人のパブロと並んで、ロルカもロペスを取り巻く星座となる。この5人全員がスペイン内戦に関係していたのである。なぜそのロペスの絵があの酒場にあったのか、江間はロペスの前期作品を考えていると、記憶の淵の深い場所から、かつて愛唱したロルカの次のような詩の一節が浮かび上がってきた。
月が 死神から
絵を買った
不気味な 夜
気の毒に 月は狂っている!
そして江間は自問する。〈あれは何という題だったのか?〉〈『スペイン警察兵のロマンセ』かな? ちがう。『ジプシー歌集』の中の一節だったのかもしれない。いや、そうでもなさそうだ。それにしても―〉
この後、江間はヒトラーによる空前の大コレクションとなるリンツ美術館計画とナチスドイツ美術収集作戦を調べていくと、ドイツのパリ占領時代にロペスがチリ人のパトロネスのイザベルの庇護を受け、百五十点の後期作品を描いたことを知る。しかもそれらはすべてドイツ軍に接収された。戒厳令下のパリで、ゲシュタポとその配下たちがイザベル邸を襲った。そしてイザベルは首を吊って自殺し、ロペスは両手首を吹き飛ばされ、すべての絵はナチスの手に渡った。江間はその情景を「サイドカーとヘルメット。黒く光る長靴の踵が、ゆっくり階段を上っていく。戒厳令の夜」として思い描く。すると昔読んだロルカの詩「馬は黒/蹄鉄も黒/マントの上」にと始まる「スペイン警察兵のロマンセ」が浮かび上がり、一連の詩が「小海永二訳」として引用される。それはスペイン内戦で若い兵士たちに愛唱されたが、ファシストたちを怒らせたという。
それ以後、ロルカの詩は出てこないけれど、先の「月が 死神から」という詩の在り処がどこにあるのかを知ろうとして、『ロルカ全集』全三巻を入手したのである。第二巻所収の『ジプシー詩集』に、「スペイン警察兵のロマンセ」は「スペイン保安隊のロマンセ」として見つかり、七ページに及ぶ長い詩だとわかった。「月と死神」は第一巻所収の『詩の本』に見出され、「月は死神から/絵具を買った/この妖しい夜のせいで/月は狂ったのだ!」との訳だった。これでは『戒厳令の夜』にそぐわないので、やはり小海訳だと思われた。
『戒厳令の夜』の紹介はパブロ・ロペスとロルカだけで終わってしまい、それもイントロダクションだけに終始してしまったので、よろしければ一読をお勧めしたいと思う。21世紀における「戒厳令の夜」もまた近づいているかもしれないからだ。
—(第62回、2021年3月15日予定)—
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